—最初に仮設建築を始めた経緯についてお伺いします。数年前から授業の一環としてやられていますが、パイオニアとして仙波さんには後輩達の活動はどのように映っているのでしょうか。
学校がサポートしているのは皆さんとても幸せだと思います。授業の一環でやる事もありえるのかと思って見ていました。(去年の仮設の資料を見ながら)学生の一番新しいアンテナでやっているんだと思います。ですがこういったセルフビルドの作品を客観的に見られる様になったのは最近です。仮設が「国大建築の伝統」として語られる時に、枠組みの中で捉えられることに疑問をもたないのかなと思って見ていました。ですが、今では何か実体あるものをつくることは自体は年代に変らず学生共通の夢なんだと思って見ています。
僕らの仮設建築の始まりは、友人と二人でとにかくモノをつくろうと言って、建築学棟に勝手に命名した「ブツつくるぞプロジェクト」の告知を張り出したのが切っ掛けです。仲間が集まり、内容も劇研の芝居小屋への道行きをつくろうという話になりました。教育棟の外階段の上に、大階段を作り、ブリッジを渡して、突き当たりが芝居小屋。それから、単なる置物のインスタレーションではなく”用途”を与えることを意図して、学園祭的ですがまじめにナンを焼いてカレー屋をやりました。人がいる建築を作りたかったんだと思います。
実は”ブツ”、僕らは清涼祭の仮設をそう呼んでいるのですが、と卒業設計展を学外でやるのは当初からセットで考えていました。”ブツ”でカレー屋をやって資金を作って、それで卒業設計展を仮設でもう一度やろうという1年がかりの仮設プロジェクトです。あくまでも目標は卒業設計展だったと思います。
—卒業設計展はどのように企画されたのでしょうか。
卒業設計展の準備は、清涼祭後夏ぐらいにAXISでインタビューを受ける事から始まりました。北山さんには大分アドバイスを頂いていたのですが、卒展は社会へ向けての活動の第一歩として横浜から飛び出して東京の確固たるギャラリーで行う事に意義を置いていました。そこで国大建築の僕たち自身を問うとする夢があったのだと思います。11月から企画書を作って年末にかけて出資者巡りをしました。自分達で資金を出しましたが、100万の予算をつくるのに苦労しました。卒業設計を始める前の1月末までにテーマだけ決めて、卒計が終わってから何をどう作るか考え始めたので3ヶ月くらい徹夜状態でしたね。最後は1日で仕込みだったので、朝一に入って夕方ふらふらでオープニングパーティーといった感じでした。アマなんですがプロ意識のようなものを持ってやっていました。
—大学院の研究室ではどんな事をやられていましたか?
M1の半期は渡辺誠さんで、あとの半期は山本理顕さんでした。間に山田先生と戸塚駅西口の再開発のプロジェクトがあったのでその3つを研究室でやりました。渡辺さんの課題は確か自由設定で、卒業設計の延長戦をやりました。そのときには、他の講座からも来ていましたが結局8講座だけしか残りませんでした。渡辺さんのするどい批評に相当追い詰められました。M2は論文以外はほとんどフリーでした。M1の時、押野見さんの座学の授業が面白くて、丁度大阪東京海上ビルができた頃で、こんなオフィスができるのは面白いなと思ったんです。それで鹿島の押野見さんのチームにバイトに行ったり、鹿島の帰りに西沢さんに呼ばれて、再春館をやっていた頃の妹島事務所にバイトにいったりしていました。今で言う就活らしい事はあんまりしてないんですが、妹島さんのところに興味を持っていたのは確かです、でも西沢さんのようにあんなにタフに出来るかなとか思っていました。押野見さんのところも別な緊張感があってどちらにしても、所員としてやって行けるか不安でした。結局、鹿島にはアルバイトの流れのまま入社してしまった様なもので、重役面接もアルバイト中に行って入ってしまいました。ゼネコン設計部に決まったら、北山さんに勘当されてしまいました。
—鹿島建設入社後、インゲンホーフェン事務所に行く事になった経緯を教えてください。
1992年に入社し、そのまま押野見チーム配属でした。押野見さんのところはは当時鹿島で一番過酷なチームで、全然家に帰らない、休日も無い。結局西沢さんと同じでした。その後3年ぐらいして押野見さんと一緒に小さな住宅(『木とカーテンウォールの家』※1)をやりました。これは会社の仕事ではないんです。プライベートな活動が、生まれて初めての実作となるわけです。構造は、鹿島の播繁さんと部下で同世代の樋口さんでした。樋口さんと現場打合せで生まれた一寸したアイデアが、その後のSE工法になったりして、これが実物の建築をつくっていくということかとエキサイティングな経験をしました。この住宅は建築学会の作品選奨にも選ばれて、北山さんから、これでお許しをもらいました。(笑)その後、社内研修制度へ自薦し、社内選抜試験を受けて、しばらく順番待ちをしていました。当時はコンペ部隊に配属されていて、時事通信ビルのコンペを取り、実施設計を終えて、いざ着工という2001年の年末にドイツのインゲンホーフェン事務所へ行きました。
—インゲンホーフェン事務所を選んだ理由は?
ゼネコンの設計部ですから、デザインだけではなくエンジニアリングを大切にしたところに行きたいという思いがあり、環境に対して技術や実績が進んでいたドイツを考えました。たまたま、社内のヨーロッパ建築出張報告書にインゲンホーフェンのRWEタワーというのが出ていて興味を持ったのがきっかけです。ドイツのインゲンホーフェンなど当時はほとんど日本で知られていなかったと思います。
「違う言葉、文化の国に行って、自分の建築観を相対化すること」
—実際に行ってみて、インゲンホーフェン事務所はどのようなところでしたか?
スタッフが驚くぐらい若いのに優秀でした。大学を出たばかりなのに、日本で言うと新卒6年目ぐらいの実力がある。彼らは大学に籍をおいて事務所でインターンをしながら実力をつけ、一人前になって社会にでるんですよね。だから新卒でも30ぐらいなんです。コンセプトの建て方も、無理が無いというか合理的にアプローチして非常に素直な解き方をしていました。学生時代に習ったあれで良いんだという感じです。クリストフが全てのフェイズで仕事を見ていて事務所を引張ってますけど、パートナー達の質もすごく高いと思いました。また環境コンサルや構造コンサルもドイツ一流の事務所と組んでいましたし、建築物理の大学教授が週の半分ぐらい事務所に来ていてコンセプトメイクから実施図チェックまでしていました。ドイツ環境配慮については、彼に多くのことを教えてもらいました。日本へ帰って即解答を求められるのは判っていましたから、帰国までに何を身につけるか、戦える何かを手に入れようと常に意識を強く持っていました。
—インゲンホーフェンで携わったプロジェクト等を教えてください。
同僚には機会を見つけて質問攻めをするのだけど、簡単には答えてくれない。自分の存在価値を上げないと認めてくれないんですよね。ギブアンドテイクの世界だから。実際、クリストフも最初相手をしてくれなかった。何でもいいのだと思いますが自分の価値をアッピールして且つ信頼を得る必要がありますね。暫くしてコミュニケーションも良く取れるようになり、設計チームでも意見を聞いてもらえる様になってコンペにも加えてもらうようになりました。携わったプロジェクトはその関わり方はいろいろですが、フルトハンザ本社ビル、シュツットガルト中央駅、ハンブルグ・メッセのコンペ、ヨーロッパ投資銀行を担当しました。また鹿島と協働で東京モード学園コンペをやり、研修期間最後には大阪西梅田のサンケイビル、ブリーゼタワー(※2)のデザインコンペと基本設計を担当しました。最終的にプロジェクト・リーダーと言う肩書きをもらって仕事が出来たことは、幸運でしたし、うれしかったです。
—ドイツから戻ってきて、設計の質が変わったと感じますか?
物事を素直にとらえて設計を進めるようになりました。僕は環境屋ではないんですが、基本的に敷地に対しての読み取りの際は方位や風向、水や地形など自然環境も与条件の中にすっと取り込んで考えるようになりました。環境への配慮に対してのアプローチを含めて、もっともっとできることがあるんじゃないかと、貪欲に各ジャンルの専門知識を吸収して、時には専門領域が押さえていないような新たな部分も自分たちでエンジニアリングのメソッドから確立しながら、いろいろな事を統合的に考えてやっています。
量や密度、速度の拡大など世の中の状況は大きく変化していて、計画やエンジニアリングもそれに対応していく為の戦略が必要で、自分たちの考えに価値を与えて行こうとしています。その新しい枠組みの上で、素直な空間、気持ちの良い環境が、作品として実現できればなと思っています。
—最後に学生に向けてメッセージをお願いします。
学校にいる時のほうが色んな場所に行くチャンスがあるので、違う言葉や文化の国に行って、自分の建築観を相対化することも大切だと思います。日本に居て見聞きするものがすべてだと思わない方が良い。そして地球の裏側でひとり涙すればタフにもなる。そうしたことが学生の内の経験として大事なのではないでしょうか。
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1:「木とカーテンウォールの家」新建築住宅特集1996年10月号
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2:「ブリーゼタワー」新建築2008年11月号、「サンケイビル西梅田プロジェクト」新建築2004年7月号
インタビュー構成:小林啓明(M2)、佐藤謙太郎(M2)、藤末萌(M1)
写真:小泉瑛一(H21卒)