保坂 猛
1975年山梨県生まれ/2001年横浜国立大学修了/1999年建築設計SPEEDSTUDIO設立・共同主宰/2004年保坂猛建築都市設計事務所設立 /現在法政大学非常勤講師、国士舘大学非常勤講師
「論理と共感から生まれる建築」
―建築を学び始めたきっかけ、学生時代に何をしていたかを教えてください。
はっきりとしたきっかけはよく覚えていないです。高校時代には、建築とパイロットに興味があったんです。結局、大学受験時にはパイロットを選び、防衛大学校に進学しました。ところが受験勉強で視力を悪くしてしまい、入学直後の身体検査で実はパイロットになれないということがわかってしまいました。それで「建築が僕を呼んでいる!」と思って受験をし直した(笑)。横浜国大を選んだのは何故かなあ…。選んだというか横国に選ばれたという感じですかね(笑)。
学生時代は、北山恒さんの影響はもちろん、飯田善彦さん、西沢立衛さん、野田俊太郎さん、坂茂さんらの影響を大きく受けました。2年生の後期に坂さんが講師でいらしていたんですが、それがかなり刺激的で強烈な授業だったんです。坂さんは学生相手でも真剣でした。ちょっとでも手を抜くとすぐに見破られて問いつめられる。坂さんのような建築家が本気で相手をしてくれているのに、学生の自分が真剣にならなければ敵うわけが無い、と思って建築に真剣に取り組むようになりました。実は大学2年生までジャズ研でドラムをやっていたのですが、坂さんの授業を機に辞めてしまいました。本気で建築をやる環境を整えるために、スティックを置く覚悟を決めたわけです。
―設計課題はどのようにすすめていましたか?
僕はまず始めに言葉で考え、自分のなかで納得がいく論理を作ってから形を作り始めるというやり方をしていました。北山さんは全てに理由や根拠が無ければ建築を作っても意味がないとおっしゃっているほど論理性を非常に重視していたので、僕も形を適当に作って持っていくということはせずに、まず論理を確立するために言葉でばかり考えていましたね。エスキスには、三週連続で形のないまま言葉だけ持っていくなんてこともありました(笑)。それでもしっかり話を聞いてもらえる環境があったのは良かったですね。
―卒業設計はどのような計画をしましたか?
横須賀に公園のようなものを作りました。横須賀を選んだのは、住宅地と道を隔ててすぐ基地があるというコンテクストが気になったことと、あとはやっぱり「近い」ということですね(笑)。気になったらすぐにバイクに乗って敷地を見に行けるということは重要だと思っていました。付近を観察してみると、街と基地と地形の関係が類似している面白い環境が近くにいくつか点在していたので、複数の場所を敷地に選定し、街全体を俯瞰するような提案をすることにしました。
提案したのは一応「公園」なのですが、既存の空き地に街区や住宅が連続するようなボリュームが入り込み、路地のような空間ができる、という計画で、「路地公園」というタイトルをつけました。最近の言い方でいうと分棟の計画ですね。今考えると、路地というのは昭和的な意味を彷彿とさせてしまう言葉なので、道路といっても良かったのかもしれない。鉢植えがあって、ステテコのおじさんがいて、おばさんが井戸端会議してて、みたいな空間を作りたかったわけではありません(笑)。街が持っているストラクチャーで公園らしいものが出来ていく。つまり自分の好みではなく、街の骨格によって建築がつくられるということに魅力を感じていました。
―大学卒業後、大学院在学中に実際に住宅を設計をされていますが、どのような経緯だったのでしょうか?
最初の仕事は『西田邸』(ON design 西田司氏の実家)でした。卒業設計が終わってコンピュータを片付けていたら、突然後ろから西田が「自邸の設計を一緒にやらないか」と声をかけてきました。なぜ西田が僕を選んだのかはいまでもさっぱりわかりません(笑)。いろいろ悩みもしましたが、どうせ大学院の時間を使ってやるなら本気で取組まなければ、と思い、お互い対等な立場で、きちんと雑誌にも発表できるものを作るなら、という条件で一緒に設計をすることにしました。
西田邸が竣工した頃、たまたま建物を見ていいと思ってくれた方が別荘の改修を依頼してくださりました。共同設計を続けるつもりはなかったのですが、自分たちに期待して、実際にお金をかけて依頼してきてくれる人がいるということのリアリティの凄さに対して、「アトリエで修行して技術を身につけたい」などと言うような自分たちの個人的な都合で断るのは違うんじゃないかと感じたんです。真剣な依頼に、自分たちは応えなければいけない、そういう風にしか思えませんでした。同じようにして次々と仕事を頂き、結果的に事務所で修行するという機会を失ってしまいました。
―実際に建築ができる体験は始めどのように感じましたか?
学生の皆さんは、学校の設計課題と実務の間には大きなギャップがあるように感じられるかもしれませんね。でも、おそらくたいしたギャップはないと思います。西田邸も、課題と同じように進めていきました。コンセプトを言葉で論理的に考え、スタディ方法も課題でやっている方法と同じように進めましたし、お施主さんへのプレゼンも学校での発表と同じようにプレゼンボードを作ってやりました。全ての段階が連続的にあるように考えていました。
―自分の論理の確信はどこから得ているのですか?
論理的にというのは自分の論理でいいんだと思います。そして、文章で表現したら五行で書ききれるくらいシンプルでいい。自分の中で論理がクリアであればいいんです。自分が良いと思える論理の構築が建築の根拠としてあって、それが実際の建築の提案と一致しているというのが必要だと思います。そうすれば、それが自分のものだけではなく周りの環境やクライアント、建物を訪れる人など出来るだけ多くの人に心から納得してもらえる、いいかえるなら共感の輪みたいなものが想像できれば確信につながります。
最初に論理を考えて正しいというだけではなくて、自分が心からいいと思えているということが同時に起きていることが重要だと思います。そうすれば自然と他人とも共感できる提案が作れているはずです。
―設計された公共建築では共感の輪をどのようにつくりましたか?
『キリスト教チャーチスクール』や『ほうとうFUDO』は思い切った案になっていると思います。このような案は、自分が強く共感できていなければ提案できなかったと思いますね。いろんな人に対して共感を得るため、説明ができるために自分が安心できるくらいに強力な論理が必要だと思います。それは思い切った提案には特に言えることだと思います。
『ほうとうFUDO』の場合は、最初にお施主さんからもらった要望は「和風で」でした。お施主さんにとっての「和風」とは古民家風のものです。それに対して、今回提案した建築がどう和風なのかを本気で言えないと全く駄目です。
敷地が土木的なスケールの国道が交差している場所で、その2本に面しているので、古民家風の建物が立つことに僕はすごく違和感がありました。和風っぽい幹線道路沿いの飲食店という認識で終わってしまう。それは実はお施主さんの思っていることとは違うのではないか。さらに観光客が自然を楽しみにくるような観光地なので、制御された均質空間の中でごはんを食べる、都会と一緒のものにしたくなかった。そのような考えから、まず見た目だけでも富士山や雲だとか空だとか、遠くに見える景色と柔らかくひとつになれるものにしようとか、できるだけ外気でほとんどの季節を快適にすごせるような建築にしようと思いました。富士山のある景色に溶け込んで、自然の風の中でほうとうを食べるという体験が日本的なのではないかと、自分の思っていることを非常にシンプルに根拠として持っていきました。
―毎回お施主さんの要望があって、それに対して自分なりの答えと論理をつくっていくという取り組み方ですか?
最初はお施主さんの要望からスタートしますが、最終的には施主という枠をはみ出して、そこに来る多くの人々が共感できる何かにたどりつきたいという思いでやっています。それから、現代的な施工技術やコンピュータの技術を自分のできる範囲で活用して、そのプロジェクトだからこそできることをつくり上げたいとも考えています。それが結果として新しい建築に到達し、新しい共感の輪を持てるようなものになればいいなと。
―保坂さんの建築は外部空間の取り込み方が印象的ですが、住宅における外部空間に対してどのように考えていますか?
例えば『LOVE HOUSE』は、とても小さな家ですが、屋根が開いていて家の大部分に雨や風が入ってくる外部的環境ですが、ほとんど窓を開け放して生活しています。現代の建物は、外をシャットアウトして室内環境を人工的に制御していますが、制御する前にとりあえず全て入れてみて、入ってきたものを全部楽しむというようなやり方で住宅ができないかという考えです。あらゆるものが受け入れられて肯定されていることに対して、「LOVE」という言葉を選びました。小さいものから都市のような大きなものまでを、そういう扱い方をすることで建築に登場する物事のレンジを広げていきたいと思っていて、『LOVE HOUSE』はそのスタート地点のようなものだと思っています。
他のプロジェクトもその延長であると思います。『本郷台チャーチスクール』はガラス張りの構成で、温熱環境は厳しいのですがローコストでも出来る空調を用意することで全面ガラス張りにしています。冬は床下に暖かい空気を流して暖房にして、夏はそこに冷風を送って少しでもすずしくできるような方法です。この方法で通常の半額で床暖房を入れることができました。今年の夏行ってみたら、暑いけれどギリギリ過ごせるくらいでした。この学校は0歳児から高校3年生まで在籍しているのですが、みんな暑いことについては何も言わずに、むしろ、見通しがよく常にお互いを意識できることで生まれる交流を喜んでもらえているから良かったですね。建物の周囲には育ちの早い高木をたくさん植えているので5年後には木の枝に囲まれて今よりも室内環境はよくなるし、木漏れ日の中で生活が出来るような空間になります。公共建築だから設備を整えて室内環境を制御するというのではなく、木漏れ日や風を感じながらほとんどの時間、窓を開けてすごすような建築を提案して、それに対して、先生や子供たちもこの開放された空間を気持ちよく感じていてくれています。
―保坂さんの建築テーマを一言でいうと何ですか?
一言で自分のテーマを言うというのは難しいですね。僕の建築は、建築を構成する原理やロジックを重要と考えつつも、空間的な質や美しさを見てもらわないとわからないとも思っていて、それは言葉では説明できない部分だと思っています。ただ、あえて言うならば出来事や空間に自分なりの解釈を与えるということですかね。その説明には、もしかしたら僕の書いた修士論文を例に出すのが分かりやすいかもしれない。修士論文ではテラーニの『カサ・デル・ファッショ』について書きました。『カサ・デル・ファッショ』はファシスト党の本部で、イタリアファシズムを象徴する建築であるといわれ、全体主義的な中心性やファシズムの高揚感を持った空間を持っていると当時の雑誌に書かれ語られているけれども、僕は語られていることより、空間の透明性や均質性を強烈に感じた。テラーニはそのような全体主義や言葉とは全く別に空間の質を探求していたのではないかと考えました。その時考えたものの見方は今にも通じていて、建築を作るときに、ある場所で起きている出来事やその空間を自分で感じとことん考えて、そこから論理をつくりだすということは常に意識しています。そういう意識から『ほうとうFUDO』の「和風」の解釈や、『チャーチスクール』の建築と環境のバランス感覚が生まれていると思います。
―最後に学生へのメッセージをお願いします。
今になって学生時代を思い返してみると、建築を構築する以前に、自分を構築していたように思います。自分は建築をどのように考えることができるようになるか、どのように思うことができるようになるのかいつも意識していました。学部時代はそんな意識でただひたすら設計課題に取り組んでいました。建築家としての下地となる自分をどうやって構築するかは人それぞれだと思います。自分が日々納得のいくやりかたで、高い志をもって学生時代を過ごしたらよいと思います。
インタビュー構成:秋山照夫(M1)、佐藤大基(M1)、真鍋友理(M1)
写真:撮影 川畑智宏(M1)、作成 小泉瑛一(H21卒)