エストニア・タリン便り_2011.11.06


今回は私の住んでいる建物を紹介します。

 

もともとは、19世紀の終わり(1892年にエンジニアが工事の管理をした文書が残ってます)郊外のサマーハウスとして建てられたようで(前回載せた地図のうえでは場所はここになります)、



1900、1913、そして1931年に増築されました。最後の増築は第一次エストニア共和国時代に活躍した建築家ヘルベルト・ヨハンソン
(Herbert Johanson、1884-1964)によるものです。彼は旧市街の山の手にあるエストニア共和国の国会議事堂をユーゲン・ハーベルマン(Eugen Habermann、1884-1944)とともに設計し、その他さまざまな学校建築(そのひとつはこちらからみれます)を手がけました。1884年生まれの彼らの手がけた建物によってタリンの公共建築は形作られていったといっても過言ではないでしょう。ヨハンソンは1944年にソ連軍の侵攻前にスウェーデンに移民しました。ハーベルマンは1944年にポーランドで亡くなったようです。

 
この建物には、第一次エストニア共和国時代には教育大臣や学校長、赤十字の代表を務めた人物がすんでいたらしく、おそらく彼がクライアントとして1931年の増築の設計を依頼したと思われます。
 
前起きが長くなりましたが、もともと裕福な家族のサマーハウスとして建てられた建物はソ連時代の住宅難の際に細かくアパートに分けられ、現在、延べ床面積770平米の建物の中には8つアパートが入っています。断面図でわかると思いますが、1階のメインのフロアーには3.3メートルの天井高、今でも残っている手の凝った床細工から当時の雰囲気が微かにうかがえます。
 
 
 
 
2階平面図はこんな感じ。
 
私のアパートは黄色で示した部分で、69平米あります。2009年、古くても特徴のあるアパートを借りて自分で手を加えていい物件を探していた時に見つけた物件。天井高はないものの、リビングにあるスカイライトが気に入って引っ越しました
 
 
リビングは一部壁紙を剥がして、黒板用の塗料を塗り、

寝室と書斎は茶色に塗られた合板の床を白に塗りなおしました。

 
 
キッチンは棚をはずし、色を塗りました。どうもソ連時代は、塗料の選択肢が少なかったのか、食欲増幅に役立つという理論があったのかキッチンや食堂にはオレンジ色がよく使われています。
 
(ビフォー)
 
(アフター)
もちろん断熱補修をされていない古い建物ならではのマイナスがあります。暖房は昔ながらの暖炉を地下においてある薪を持ってきて暖めて使います。極寒の2月には一日2回ほど暖めなければなりません。とは言えども、木の燃える香りや暖かさには、不便さ以上にいいものがあります。

一冬で5から6立米の薪を使います。今年は友人の田舎から分けてもらい、つい先日冬篭りの準備が出来ました。発熱量の多い白樺を50センチに切って貰いました。
 

蛇足ですがこの家丸ごと、売りに出ています(告知がでてるウェブサイトはこちら)。値段のせいか、半年ほどたってもいまだに買い手が見つかっていません。私は新しい所有者がくるまではここに住んでいると思います。値段は、863,000 ユーロ、今日の為替レートで93,104,512円です。どなたか買います??


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