先週のマイナス25度の世界から少し戻り、今週はまたマイナス10度前後の日が続いています。慣れとは恐ろしいもので、これぐらいでも、ちょっと暖かいなと思えるようになって来ています。
今月から二束のわらじを履くことになりました。タリンにあるTTK University of Applied Sciencesという大学で教え始めました。ここの建築学部で長い間教えていた前任者がいなくなって、就任2年目の学部長から、講師陣等の若返りを図りたいからぜひ手伝って欲しいと話が来ました。この学部長とは去年の東京の展示プロジェクトを一緒にやってたことから気が合い、去年の12月末に別の友人が教え始めた課題の発表会を見に行った後に、スタジオに対するコメントだけではなくて、カリキュラムの編成上のこういうところもよくないんじゃないかと提案したら、じゃあやってみろみたいなことになりました。講義やスタジオの指導の他、建築学部全体のカリキュラムを新しく面白くするのが仕事になります。とりあえずは一年契約で始め、徐々にやっていけたらなと思ってます。
さて今回はエストニア出身の構造設計家アウグスト・コマンダンテの紹介をしたいと思います。皆さんご存知のルイス・カーン(Louis I Kahn, 1901/1902-1974)は実はエストニア生まれ、そして彼と組んで数々の建築物を手がけた構造設計家アウグスト・コマンダンテ(August Komendant, 1906-1992)も同じくエストニア生まれなのです。
コマンダンテ、彼の娘による肖像画 via Ehituskunst
ルイス・カーン via vitodibari.com
ルイス・カーンは5歳で家族とともにアメリカに移住しました。アウグスト・コマンダンテはドイツのドレスデンにあるTechnical Instituteで博士号を取得後、エストニアに戻りタリン工科大学で教職につき、鉄筋コンクリートについて教えます。その間にいくつかの建物の設計に携わり、そのひとつは後から紹介します。しかし第二次世界大戦後半になり再びドイツに占領されたエストニアからドイツに連れて行かれ、そこで軍事施設の仕事につきました。その後アメリカ軍の捕虜となり、アメリカ軍のために働くようになりました。1950年にアメリカに移民し、構造コンサルタントの事務所を開きます。そして1956年(一説には1957年、リンクはこちら)にこの二人は出会い、それからカーンの死までの18年間にわたり共同作業はつづきました。その期間、意匠と構造が支えあって生まれる数々の素晴らしい建築が生み出されました。コマンダンテの手がけた建物の一部はここに紹介されており、タリンに建つスタジアムも紹介されています。
前置きが長くなりましたが、このスタジアムは現在も使われています。エストニアにきてしばらくしてから気づき、なんとなく気になっていたこのキャンティレバーの気持ちのいい屋根のことを友人に尋ねると、コマンダンテの構造だと教えてくれました。アメリカにいた6年の間に何度も訪ねたカーンとコマンダンテの建築を思い出し、エストニアに対して不思議な縁を感じました。カーンがエストニア出身だとは読んだ本や、ヴァージニア工科大のアレキサンドリア校でお世話になった教授(彼もエストニアから移民しました)から聞いていたのですが、コマンダンテもだったとは。現在すんでいる私のアパートはこのスタジアムのすぐ裏にあり、この屋根を毎日眺めているわけです。
1938年に完成したこのコンクリート製のスタンドは、1926年に完成した建築家カール・ブルマン(Karl Burman, 1882-1965)によって設計されものの建て替えとして建設されました。
(1934年)
新しいスタンドの設計はエルマル・ロフク(Elmar Lohk,1901-1963)。構造の繰り返しから古典的なコロネードとそのプロポーションを思い起こさせるながらも、荒いコンクリートとこの建物の持ち味である12.8メートルのキャンティレバーの屋根が心地のよいコンビネーションになっています。
構造的には、この屋根のある真ん中のブロックは20ミリのエクスパンションジョイントによって切り離されており、さらに屋根自身も3つのブロックから出来ているそうです。近年、漏水対策のため防水膜で補修されました。
現在一階はトレーニングホールになっていて、昔の写真等が飾ってあります。
入り口脇には今までの記録が表になっていて、近づくとなんと日本人の名前が。
1マイル走記録保持者のKENTA OOSHIMA(英語の記録はこちら)というのは日清食品グループ陸上競技部に所属している大島健太さんでした。
なにか他にないかなと思ってスタジアムのウェブサイトをみていると、歴史の項目(エストニア語のみなのですが)に
「1930年7月にはエストニア・日本の国対抗競技会があり、91対49で日本が勝利。ベルリンオリンピック棒高跳び銅メダリスト西田修平が4m、110mハードルの岩永15.5、中島が400mを49.8の記録を出した」
「1936年の5月に催されたエストニア・ラトビアの国対抗競技会に、ベルリンオリンピックに出場に向けて準備をしていた日本人陸上競技選手が参加。後にベルリンで3段とびで銀メダルを獲得した原田正夫は3段とびで15.67m、走り幅跳びでは7.35m、走り高跳びの朝隈善郎はこの競技場としては27年間破られなかった1.96m、1500m
走の中村清は4.01,0、という記録を残した」
とありました。自分のうちの裏で76年前に日本人が素晴らしい記録を残していったというのもまた感慨深いものがあります。