この国に初めてやって来たのは2011年3月15日。出発日はちょうどあの地震の2日後の3月13日だった。飛行機が出るかどうかは空港に行ってみないと分からないと言われ、頻繁に停止するローカル電車を乗り継ぎ、大幅な遅延の末、日本を飛び立った。そして物理的に最も離れたここチリにやって来たのだ。ブラウン管を通して日々悪化してゆく日本の惨状を目にし、そのことに対して多くのチリ人が憂いの言葉をかけてくれた。
しかし同時に、その出来事は僕にとっても文字通り遠い異国の出来事のように感じられ、祖国の未曾有の災害と言う事象を巧く咀嚼することができなかった。その妙な感覚は18年前の幼少期に体験した神戸の地震でも同じだったのかもしれない。身近な出来事でありながらメディアが発するおびただしいまでの情報量が逆に僕をその関心から遠ざけた。それはきっと大衆の関心が一局に注がれるような大きな対象に対して僕自身が自然と距離をとってしまう、天邪鬼(という表現が正しいかどうかは別にして)的性格が災いしているのかもしれない。錯綜するバーチャルな情報だけによってその事象を知った風になることも避けたかったし、こちらの人に「おまえは原発賛成か?反対か?」と問われることに対しても正直うんざりしていた。反対と答えるのは簡単かもしれないが、それを取り巻く社会の仕組みを理解するにはもう少し時間が必要だと思った。そうこうするうちに次第に震災に関する情報から疎遠になり、そして震災に群がる人々やそれらが作り出す灰色の空気みたいなものを冷ややかに眺めていた。
しかしながら、とある日本からの来訪者が僕を震災というものへの興味を抱かせた。三桶士文氏は日本の建築組織設計会社に勤務し、今回は会社の海外研修制度ではるばるこの南米チリまでやって来た。その研修のテーマが「震災と復興」。
折しもここチリは世界屈指の地震大国であり、今回は2010年に起こったチリ南部地震とその復興計画についてのリサーチが彼の大きな目的のひとつであった。彼自身の会社でも東北の被災地でのプロジェクトを抱えており、そうした日本の震災および復興に従事する人が、このチリと言う国をどうとらえるかということに興味があったし、僕自身がこれまで避けてきた震災と、それを取り巻く事象に向き合う良い機会のように思えた。そして実際それは僕の日本あるいはチリと言うものを相対的にとらえなおす貴重な体験となった。
まずはチリにおける地震について少し述べておく。ナスカプレートと南アメリカプレートがぶつかるこの国では、大体10年に1度大きな地震が起きる。そのうち歴史上最も大きいものは1960年に南部のバルディビアで起こったもので震度9,5。ちなみにこれは観測史上世界最大の地震であると言われている。そして2010年、これまた南部の街コンセプシオン沖で起こった地震が震度8,8。2010年2月27日の早朝、チリ沿岸部500kmに渡り一斉に大きな揺れを感じた。それは当時の観測史上世界で5番目に大きい地震であり、また近代都市部においては最も大きいものであった。先の東北沖地震が震度9,0だったので、それと同程度のスケールである。そして共に津波による大きな被害を受け、またお互いに2万kmの太平洋を越えてささやかな津波を送り合った。しかしこうした簡単な地図を眺めるだけで地球の構造がよくわかる。
地震の中心の街コンセプシオン(CONCEPCIÓN)はチリ第2の街で細長い国土のほぼ中央に位置する。国内第2の街でありながら他の特色に富んだ町―アンデスが背後に聳え立つ首都サンチアゴ、色彩美術港湾都市バルパライソ、幻想の砂漠都市イキケ―などに比べると地味な印象は隠せない。そして今回は地震エリアの中心コンセプシオンで有識者から話を聞くことができた。
まず話を伺ったのはMINVU(住宅都市整備局)。日本で言うところの役所のまちづくり課のような部署だ。彼らからまず被災地のマスタープラン(復興計画図のようなもの)についての説明を受けた。実はこのコンセプシオンという街自体は海からやや離れていることもあり地震、津波被害はそれほど大きくない。それよりも沿岸部に点在する小さな街々は津波による被害を受け、マスタープランもそういった街に対するものである。14に及ぶそれらのうち特徴的な計画に触れてみる。
これら町の多くはいわゆる小さな漁村で、海から砂浜、そして町へとなだらかに繋
がっている。よって良く言えば海と生活の距離が近く、悪く言えば遮るものが何もなく津波の影響をもろに受ける。日本であれば沖合に一本コンクリートの防波堤を作ってしまえばそれで良し、とするのかもしれないが、これらの地域はそう簡単にことは進まない。まずは経済的な問題。これらの地域はお世辞にも裕福な地域とは言い難く、そうした大規模なインフラ工事を賄うだけの予算が捻出できない。そしておそらくそれ以上に、彼らは自分たちの美しい水平線に誇りを持ち、海との距離感に敬意を払っている。よってその解決策として海岸線に強固な人工物で壁を作るのではなく、海岸線沿いの陸地側に防風林ならぬ防波林の設置を試みている。ちょうど地図中の波打ち際のグリーンのエリアに対応している。町の規模や立地条件の差はあれど、ほぼすべての街のマスタープランにおいてこ
の防波林が採用されていた。
続いて復興住宅についての説明を受けた。彼らは100余りの住戸タイプを用意し、住民が予算や立地に応じてそれらの中から選択する。その中で僕がおもしろいと思ったのは写真の舟屋タイプのものである。このモデルBC3なる住宅は海岸沿いに建てることを想定しており、そのため1階部分が津波対策のためコンクリート壁柱で持ち上げられ2,3階部分が居住スペースとなっている。そして特徴的なのは1階のスペースが車ではなく船(漁船)のためのガレージになっているところだ。海際に住みたい。マイ漁船を手元に置いておきたい。でも津波は怖い。そんな想いがそのまま立ち上がったような形になっていて、なんだか清々しい。上階のデザインはともかく、こういった形式の住宅が沿岸部に建ち並び、1階部分がユニークな空間となれば、それは例えば京都の伊根の舟屋群やチロエ島のカストロの桟橋住宅群のような固有の風景を生み出すことも可能なのかもしれない。
< コンセプシオンのPVE 事務所>
MINVUを後にし、次に訪れたのが市内のやや外れにある小高い丘に聳え立つ塔のような建物だ。ここはチリを代表する建築家ユニットのひとつペソ・フォン・エルリシャウセン(以下PVE)の事務所である。PVE―マウリシオ・ペソとソフィア・フォン・エルリシャウセン―はここコンセプシオンを中心に活動しており、彼らの作品の多くもこのコンセプシオン周辺地域に点在している。そして地元の建築家として今回の震災の復興計画にも参画している。この日はマウリシオが不在であったためソフィアさんから地震と復興にまつわる話を伺った。
<META>
話の中心はこの1冊の本についてである。この「META」なる名のこの本はPVEが提案する10の復興プロジェクトからなる。この10と言う数字は先程述べたコンセプシオン周辺の町の数である。彼らはこの10の町それぞれの被災地に復興の核となる集会場のような文化的パビリオンを建てることを提案した。そしてそれらのデザインをこの運動に賛同する世界各地の建築家達に委ねた。
日本のこうした提案の絵の多くは妙に人で賑わっていて楽しそうなものが多い。そうしたものに比べてこれらの提案は周囲の風景と呼応しているような、あるいは独立しているともとれる様な詩的な提案が多い。先のマスタープランに通じるところもあると思うのだが、ここチリでは詩的な風景を創出するということ自体に社会性を帯びているのだ。
PVEの戦略としてはこれらの10の独立した地域の10の点が線になり、この地域の文化に面的な広がりを持たせるということだった。とかく形として見えにくく、復興の優先順位として後回しにされがちな文化と言う要素をきちんと復興のプロセスに盛り込むことが重要であると。確かにその前に聞いた行政の話だと、1にインフラ、2に住宅、そして…10くらいに文化(?)という具合だった。迅速に最低限の生活を保障するということはもちろん大事なことであるには間違いないのだが、僕が神戸に帰るたびに見る、あの新長田の無機質な街並みを見ると、文化的側面を伴った復興の長期的なビジョンの重要さ、難しさと言ったものを改めて感じさせられる。ちょうど1日で行政と建築家という共に街を想う人々の異なる視点が垣間見れたことは稀有な体験となった。
<視点>
こうしてチリにおける地震というものに足を踏み入れだした僕は、次にその被災地そのものの現状への興味が湧いてきた。彼らが描いた復興のビジョンが震災から3年経った今、一体どれほど形になっているのか。そうして僕は再びコンセプシオンへと向かう切符を買ったのだ。
<DICHATO 2013>
<DICHATO 2013 タブララサ>
コンセプシオンからバスとコレクティーボを乗り継ぎ1時間半。ここディチャト(DICHATO)は津波の被害が最も大きかったエリアのひとつである。人口約3,500人、入江に面し周囲を山に囲まれた小さ漁村である。その蹄型の地理的要因が津波の生成を助長し、地震発生後まもなく水位3,5mの波が町を襲った。1,300あまりの家屋のうち331棟が倒壊し、流され、同様に道路や橋などの町のインフラも大きな被害を受けた。3年経った今でも多くの場所が更地のままである。
<復興住宅モデルBC3>
<復興住宅モデル>
<復興住宅モデル_津波避難サイン>
思わず「あぁ、建ってる。」と声を漏らしてしまった。まだ1階部分に船こそ置かれてはいなかったが、コンクリートのピロティがすくと立ち上がり、家形ボリュームが乗っかっているその様は、コンセプシオンの役所で見せてもらったまさしくそれである。他にもいくつかのタイプが建設中で、海に近い所の物件の多くは1階がコンクリート造になっており、少し離れたところには日本にもよくあるような凡庸なプレファブ住宅が建ち並んでいた。こういう当たり障りのない淡いパステル調はどうやら世界共通らしかった。これらの住宅はほとんどが竣工したばかり、あるいは間近と言った感じでまだ人が住んでいる気配はない。きっと彼らは徐々にラテン色に住みこなしてゆくのだろう。チリの人はそういうことにとても長けている。
<ディチャト(DICHATO)の仮設住宅>
<コンセプシオン(CONCEPCIÓN)の仮設住宅>
こうした人々の現在の仮の住まい、すなわち仮設住宅も随所に見受けられる。チリスペイン語でメディアグア(Mediagua)と呼ばれるこの住宅の基本形は広さ18㎡(約11畳)の木造平屋で非常に簡素な作りである。日本の平均的な仮設住宅の面積が29,7㎡と言うのだから、それの2/3にも及ばない。また本来は一時的な緊急用の住宅であるはずなのだが、個々の経済状況によっては容易に恒久的な住まいへと成り下がってしまう。遅めの昼食を摂るために入った食堂で働いていた彼らも現在こうした仮設住宅に住んでおり、来月からあのピロティ舟屋に移るのだと言っていた。
<ピロティ舟屋_広告>
<ピロティ舟屋 内部>
<ピロティ舟屋ピロティ>
<ピロティ舟屋のある風景>
海沿いを歩いてゆくと、まとまったピロティ舟屋を目にすることができる。こちら
は鉄骨製のピロティに鮮やかなビタミンカラーの家が乗っかっており、なかなかかわいらしい佇まいである。工事中の現場の職人に頼んで中を見せてもらった。
内部はごく普通のシンプルな作りである。政府の広告看板がいささか美化され過ぎている感は否めないが、それでもこの立地は十分に海を感じることができる。
もし時間と共に1階のスペースが成熟し、それが町の魅力を助長するような優れた空間となることができれば、この町は単なる南米の片田舎の漁村から世界へ発信できる復興のモデルケースと成りえるのかもしれない。
今回の地震をめぐる旅を通して復興における街単位、あるいは個々の住宅レベルにおける日本とチリのアプローチの相違を少なからず肌で感じることができた。そうしたなかで特にギャップを感じたのは物理的な要素もさることながら、地震そのものへの国民の姿勢、あるいは価値観とでもいうべきものである。例えばここに2杯のドリンクがある。チリの典型的なアルコール飲料のひとつだ。およそオシャレとは言い難い場末のバーのようなところに行くと飲むことができる。成分は白ワインとザクロジュース、そして上に載っているのはパイナップル味のアイス。この飲み物の名前は「テレモト=Terremoto」スペイン語で「地震」を意味する。同僚にその名の由来を尋ねると、こう答えた。「まずこのテレモトをぐいっと2杯いくんだ。どうだ。そしたら頭がこうぐらぐらしてくるだろ。そしたらどうだ。女を見ろ。どうだ。¿みなボニータだろ? 」
要約するとこういうことだったと思う。日本では「不謹慎」という言葉で片付けられそうなこうした事象に関しても、ここチリはかなり楽観的である。僕はチリのそういうところを結構気に入っている。地震が来るのはしょうがない。それに対して安心して暮らしたいのはもちろんだ。けれどあるものは限られている。お金、材料、人。そして自然。あるものでいかに豊かさを創造し、そしていかに今ある豊かさを継続させるか。言葉にするとどうも陳腐だが実際その場に行くとその感じが良く分かる。僕は正直日本の復興計画事情について詳しくないが、東北でもきっと上述の復興地域と類似しているような海辺の小村は多いと思う。だから日本でそういうことを研究している人がチリのこうした事例に触れるときっと色々と刺激を受けるだろうし、その逆もまた然りだ。2万km離れた言語も文化も異なる両国がただ津波を送り合うだけでなく是非知恵を送り合ってほしい、インテリジェンスとエクスペリエンスを携えて。