日野雅司
1973年
兵庫県生まれ /
1996年
東京大学工学部建築学科卒業 /
1998年
同大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了 /
1998年〜2005年
山本理顕設計工場 /
2002年〜2003年
工学院大学非常勤講師 /
2006年〜2007年
日野雅司建築設計事務所 /
2007年〜2010年
“Y-GSA”設計助手
/
2008年
SALHAUS一級建築士事務所共同設立
/
2010年〜
横浜国立大学工学部非常勤講師 /
2011年〜
東京理科大学工学部非常勤講師
今回のインタビューでは、SALHAUSがコンペで勝ち取った群馬農業技術センターが竣工間近ということで、実際の現場にお邪魔してきました。
—-まずは学生の頃のお話から伺いたいと思います。日野さんは学部・院と東京大学に行かれたわけですが、大学に入学される前から設計をやろうと決めてらっしゃったんですか?
東大は三年生から進路振り分けというのがあって専門的な勉強はそれから始まるのですが、その時に理系でありながらデザイン的なことに興味があったので、自然と建築を選んだという感じです。また、もともとクラシック音楽を聴くのが好きでホール建築の音響設計にも興味がありました。しかしそういった工学的な分野は難しくて、そこから少しずつデザインや人の生活、振る舞い、そういったものに興味がシフトしていきましたね。
しかし学部の頃は設計の課題は全然できなくて劣等生でした。
—-そうだったんですか!?
今から思うと当時は本当に設計が下手で、はっきり言ってお見せできないですね(笑)。最初の頃は建築を設計するのにコンセプトが必要だって思ってなかったですから。初めて設計課題が誉められたのは大学院に入ってからだったんじゃないですかね。だからぼくは横浜国立大学でも非常勤で教えさせてもらってましたが、設計ができない生徒の気持ちはよくわかるんです(笑)。
ただ、自分自身は設計ができないという自覚があったので、まわりの「出来る友人」達が何をやっているのかということを、かなりよく観察していました。誰がどの課題で、どんな提案をしているのか、今でも詳しく覚えています。廻りの人がやっていることを観察するというのはすごく大切で、建築家の作品を研究するだけでなく、自分の近くから学べることもいっぱいあると思うんですよね。
そういった意味では、ぼくにとってどういう仕事をするかということと同時に、どういった環境に身を置くかということもすごく大切です。どんな環境にいたって、やる気があれば勉強はできる、という意見もあると思いますが、やはり生活環境から自然に学ぶことって大事だと思います。就職する事務所を選ぶときも、そこにどんな人たちが働いているのかということをよく観察して決めた覚えがあります。
今3人のチームで設計事務所をやっているというのもそういったことが関係しているのかもしれません。
—-大学院を卒業して山本理顕さんの事務所に行かれています。その環境では具体的にどういったことを学ばれたのですか?
もともと学生のころは建築とはうーんと考え込んで、そのうちに良いアイデアが思い浮かぶものなんだって思っていたのですが、どうやらそうではなくてどんどん手を動かしていくうちに意図しなかった考えが生まれて、そこを膨らましていくこともできるんだっていうことに気づいたんです。
学生の頃っていうのは課題に一人で取り組むことが多いので、どうしても考え込んじゃうんです。しかし設計事務所に入ると一人で考えるということはほとんど無いんですね。特に山本設計工場ではスタッフはベテランであろうと新人であろうと直接山本さんとコミュニケーションをとりながら仕事を進めるスタイルでしたし、たくさんの協力事務所やデザイナーとのチームプレイという感じが強かったと思います。もちろんスタッフ同士も、すごく話をします。そういった自分以外の人とのやり取りの中で、どこからどこまでが誰のアイデアかわからないような状態で建築ができていくんだ、ということに気がついたんでしょうね。そういった感覚は、学ぼうと思って学ぶことではなく、仕事環境から自然に覚えることのように思いました。
—-山本設計工場での経験が今でも生かされていると思うことはありますか?
たくさんありますが、特に山本設計工場に入って一年目に“はこだて未来大学“を担当して、現場に一年くらい常駐しました。そのときに、協力事務所だった木村俊彦構造事務所から常駐していた佐藤淳さんといろいろ話ができたのは貴重な体験でした。もちろん建物の構造的なこともそうでしたが、構造をやっている人がこういうふうに考えるのかということが少しわかった気がします。
それ以来、建築の構造と空間の計画との接点を探るということが、ぼくにとって建築における興味のひとつになっています。単純に奇をてらった面白い構造の形式ということではなくて、構造が空間の質へ及ぼす影響力のようなものに興味があります。
—-山本設計工場を出られた後は、事務所で一緒だった安原さん、栃澤さんと共にSALHAUSを設立されるわけですが、もともと山本設計工場時代に気が合っていたんですか?
山本設計工場時代から一緒に事務所をやろうと話していたわけではありません。独立後になんとなく一緒にコンペをやっていたら自然にそうなっていきましたね。もともとは別々に独立したのでぼくも最初は一人で事務所をやっていましたが、すぐに一人で仕事をするよりも誰かと一緒にやった方がいいな、と気付きました。学部から一緒だった安原と僕の奥さんでもある栃澤とは気心が知れていて、仕事の進め方が共有出来ていたんだと思います。
よく3人でどのように仕事をしているのかと聞かれることがあるのですが、それはとても答えにくい質問で、ぼくたちは特に3人で分担を決めているわけではないんです。阿吽の呼吸ってやつです。もちろん実務場、具体的なプロジェクトでは担当が決まっているものもありますが、基本的に案は3人でコミュニケーションを取っていくなかでデザインが決まっていくという感じですね。
ただ最近は僕たちの事務所もスタッフを雇うようになってきて、自分達が直接手を動かさないケースも増えてきました。その時に3人がどう共同できるか、についてはまだ模索中という感じです。3人がフィールドプレイヤーとしてならば、阿吽の呼吸でやれる連係も、3人が監督になった場合のスタイルは確立していないかもしれません。
—-学生時代から山本設計工場時代にもあった他者の存在というのが現在の日野さんの設計活動にも根付いている気がします。
他者の存在というともうひとつ思い浮かぶのは、黄金町や伊勢佐木町の作品のように日野さんはその土地やコミュニティを大事にしている印象があります。
黄金町や伊勢佐木町はたまたま縁があってやることになった場所ですが、ああいった地域再生が目的になっているプロジェクトは、建物つくるというだけでものすごい人が集まって来るんですよね。そうすると建物という結果を残すことよりも、つくるプロセスで色んな人が巻き込まれることがとても面白い点だと思います。特に黄金町のプロジェクトは住民の意見に反応して案を変化させていった過程があったので、そういった設計のプロセスの部分にもっとおもしろい要素がありそうだなということを感じました。
—-チームで設計することで一人の意見ではなく、もう少し多様な意見の中で案を作っていく一方で、さらに住民の意見まで取り入る柔軟な計画というのは面白いですね。そういった考え方は他の仕事にも反映されているんでしょうか?
この“群馬農業技術センター“もそうかもしれませんね。この建物は、コンペの時と比べてプランは全く違うものになっていますし、使い方の想定も違っています。もともとコンペの段階から、プランニングは細かく使い方をヒアリングしないと決まらないことが明らかだったので、ぼくたちはコンペではプランの提案で勝負することをやめたんです。
そうすると、プランが変わっても変わらない部分をいかに作るか、ということが重要になります。僕たちはそこをいかにデザインするのかということを大事にしました。それは変化する部分を受け入れる骨格みたいなものですね。プラットフォームと言ったりもします。
特に公共建築のように多くの人が関わって、その人たちの意見を受け入れながら設計を進めていかなければならない場合は、みんなのイメージの拠り所となるような骨格があることが重要です。そしてその骨格のひとつが構造デザインだと思うのです。構造の形式にこだわるのは必ずしも専門家だけではなくて、一般の人にとっても、例えば「木造の建築」と「鉄骨造だけど木の仕上げ材が多く使われた建物」は違う意味で受け取られます。これは構造がもつ分かりやすさというか、ある種のシンボル性が構造につきまとっているからだと思います。群馬県農業技術センターにおける懸垂状に垂れさがった木造の大屋根というのがそれに該当すると思います。
様々な条件が設計の間に変化してきても、この大屋根の素材や架構方法は変化することはありませんでした。おそらくはこの屋根がプロジェクトを通してみんなが共有できるイメージのようなものだったのではないかと思います。大きな屋根の下で人が活動しているというイメージですね。そういったイメージがあることで逆に多くの人が意見を言ってくれるわけです。
もちろん、その共有されるイメージというのは、必ずしも構造デザインだけではなく、状況によって様々だと思います。風景であったり、使い方のイメージが強く共有される場合もあると思います。
—-先ほどの建築の計画的な部分と構造的な部分の関わり方にもつながるお話ですね。様々な人を巻き込んで建築をつくっていこうとすると、一方でSALHAUSらしさのようなものが出しづらいとも思うんですが、そういった作家性みたいなものは考えますか?
作家性というか、建築家の作風にある固定的なイメージがあったほうが当然分かりやすいし、意図が伝わりやすいという側面はあると思います。ただし今のところ、自分が固定的なイメージを持つことにあんまり興味はないかもしれないですね。
—-そういった作家性を求めるのではなく、地域や住民などを巻き込んで建築をつくっていくというのは最近になって少しずつ見られるようになった概念ですよね。日野さんご自身は、そういった設計手法をとられることに、時代の必要性のようなものを感じていますか?
もちろん、いろんな人を巻き込んだ設計は、そこにこれからの建築としての、新しいアイデアがありそうだと感じているからやるわけで、特に作家性の否定だとは思ってはいません。しかし時代の必要性という意味では「建築家の作家性」にネガティブなイメージがあるので、それを払拭したいという思いはあります。
建築家が何か失敗すること、一般の人には建築家が作家性にこだわったことが原因だと考えられてしまうことが多くあります。建築家が勝手にひとりよがりなデザインを行ったために、とても使いにくくてコスト高な建築ができてしまって、雨も漏ったとか。実際は作家性とは全く無関係な問題であっても、さも関係があるかのように思われてしまいます。
その不満や不安を払拭することも、これからの建築家がやらなければならない仕事だと思います。地域やユーザーなど、いろんな人を巻き込んで設計するのは、建築家の個性は「悪」ではなく、役に立つものだから上手く利用してほしい、ということを分かってもうらうためにやっているのかもしれません。
昨今不景気で建築工事の仕事も減っているし、ましてやアトリエ事務所では食べていけないのではというイメージがあります。しかし全ての建築工事においてアトリエ事務所が設計している割合なんてそもそもすごく少ないので、発注する側の意識がちょっと変われば、アトリエ事務所が十分やっていけるだけの仕事が生まれると思っています。建築家も意外と役に立つんだなあ、と思ってもらえれば、不景気はあまり関係がないのではないかと思います。
—-最後に学生に対してメッセージをお願いします。
最近は設計をやりたいという学生が激減していて、特にアトリエに就職したいという人はほとんど絶滅危惧種といってもいいかもしれません(笑)しかしもしそれが設計は食えないからという理由だったとしたら、あまりそれは考えてもしょうがないかなと思います。どっちなら食えるかなんていうのは学生の知識で判断できるはずないですし、先ほども言ったように発注者の意識を少し変えることができれば十分な仕事は得られると思うんです。だから将来を悲観しないで、とにかくやりたいならやって欲しいなと思います。
インタビュー構成:諏訪智之(M2)、田中建蔵(M1)、寺田英史(B4)
写真:石飛亮(M2)