7月の半ば、僕はいつものように「ひとつお願いがあるのですが…」とスミルハンに切り出し、案の定あっさりと4連休を獲得した。そしてチリ北部の砂漠地帯を旅した。何だかこのブログでは旅行の事ばかり書いているような気もするが、僕にとって仕事とは旅をするための必要条件の様なものであるし、同時に旅とは仕事をするための十分条件とも言える。きっとこの2つのフレーズは僕の中ではほとんど同じ価値を持つし、きっと建築家というはそういう事を自慢気に語る人種なのだ。そしてこの文章もまた別の旅行先で書いている。ということは次の記事もまた旅行の話になるという訳だ。
チリ北部の砂漠地帯にやってくるのはこれで3度目という事になる。今回の最大の目的はチリ国内の最大の祭りであるラ・ティラーナ “La Tirana” を体験することである。この祭りは毎年7月16日にチリ北部の砂漠の真ん中にある小さな小さな村、ラ・ティラーナ村で開催される。普段は人口1,000人にも満たないようなこの村に、毎年この祭りの時期になると25万人もの人が訪れる。なぜこんな辺境の村にこのようなチリ最大の祭が生まれたのか?それではいつものようにまずはその数奇な歴史を紐解いてゆこう。
ラ・ティラーナの起源は植民地時代初期の1535年に遡る。時のスペイン人コンキスタドール(征服者)、ディエゴ・デ・アルマグロはインカ帝国を制圧し、勢いそのままにクスコを出発しチリへと南下。550人のスペイン人と1万人のインディヘナ(先住民)の兵を引き連れてチリ北部へと侵入した。その中に2人の重要人物がいた。一人はパウリノ・チュパック、彼はインカ帝国の王子であった。もう一人、ウマ・ウイジャクは失われた太陽崇拝教の大司祭であった。そして彼の娘、ニュスタ・ウィジャックはインカ帝国の王女であった。彼らを含め、その隊列の中には解体されたインカ帝国軍の将校や元司祭なども含まれており、彼らは従順な姿勢を装いながらも胸の内では復讐のプランを虎視眈々と企てていた。
そんな中、突如スペイン勢に謀反を働いたとして王子、パウリノ・チュパックは殺害された。そこで身の危険を感じた大司祭ウマ・ウイジャクは間もなく軍隊から逃走し、また彼の娘ニュスタ・ウィジャックも命からがらアルマグロの軍政から逃げ出すこととなった。そして彼らは当時ここチリ北部の砂漠地帯に豊富に生息していたタマルゴという名の木のオアシスに身を隠した。
<ラ・ティラーナへと向かう巡礼者>
<タマルゴの木々>
難航不落のタマルゴのオアシスで、脱兵したインディヘナ達はいくつかのグループに分かれていった。また王女ニュスタと女司祭たちはスペイン勢によって禁じられていた太陽崇拝を復活させ、同時に彼女たちはインディヘナたちにキリスト教信仰を禁じた。そして彼らはキリスト教徒のスペイン人あるいはインディヘナを見つけると処刑した。そんなある日、王女らのグループは道程でバスコ・デ・アルメイダという名のポルトガル人を捕えた。彼は「太陽の鉱山」という空想を追いかける冒険家の鉱山夫であった。ここで王女ニュスタは彼と話しているうちにすっかり彼の事が気に入ってしまった。彼への思いはますます膨らみ、そしてやがて彼はキリスト教の教義をニュスタに説きはじめ、ついには彼女は聖母マリアの前で洗礼の儀を受けるに至った。しかし彼らインディヘナのグループは好戦的で用心深く、他のグループに対していくらかのスパイを送っていた。そして王女らは他のインディヘナ集団にインカの宗教への背信を暴かれ、王女ニュスタそして司祭ともども矢で撃ち殺された。しかしながら王女ニュスタへの地位と信仰と愛に畏敬の念を表し、彼女の墓に十字架が供えられた。
<荒野の十字架>
数年後メルセス会の宣教師フライ・アントニオ・デ・ロンドンが砂漠の荒野に偶然にそれを見つけ、感動のあまりその地に聖母マリアの礼拝堂を築いた。そしてまさにその場所が現在のラ・ティラーナ村にあたるという訳だ。
<ラ・ティラーナの礼拝堂>
その後2世紀ほどその小さな礼拝堂はその地域の人々に親しまれた巡礼の地として位置していた。そして彼らは宴を開いては伝統的な歌と踊りを聖母マリア像に捧げていた。
時は流れ、1830年。この地域は硝石事業ブームによって大きな変革を体験することになった。こうした鉱物はその時代の多くの産業において必要不可欠な資源であり、数多くの工場やプラントが隆盛し、チリ南部からの人出を数多く必要とした。と同時に北部へと出稼ぎにやって来た労働者たちは、この人里離れた荒涼とした砂漠の地で聖母マリアを崇めることをごく自然と習慣づけていった。
時が経つにつれて事業が軌道に乗り、地域は潤い、そして正式な教会を建てるためのムーヴメントが勃興した。最終的に1886年の7月16日にその教会は完成した。
<昨年訪れたラ・ティラーナ村近くのサンタ・ラウラの硝石工場>
その時の記事はこちら→モノクロマチックランドスケープ
しかし1930年ごろから硝石事業は衰退し、工場は次々に閉鎖していった。同時に多くの労働者は職を失いこの地を離れざるを得なかった。だがこうした地域を支えた労働者たちがチリ北部、あるいは中央の都市部に移住することになっても、彼らパンパ(乾燥地帯)に生きる人々は年に一度このラ・ティラーナを訪れると言う美しき伝統を守り続けている。
<ラ・ティラーナ村>
<ラ・ティラーナ村>
ラ・ティラーナ村はイキケ(IQUIQUE)という太平洋沿いの砂漠の都市から車で1時間くらい内陸に進んだところにある。ちょうどこの祭りの数週間前からここ北部の砂漠地帯でインフルエンザが大流行していた。なので周りの知人からも「あなたはワクチンを受けなければならない。」と忠告され、僕は素直に500円のワクチンを接種し、満を持してラ・ティラーナに臨んだ。ご丁寧にワクチン接種証明書まで携えて。しかし僕を乗せたコレクティーボ(乗り合いタクシー)は砂の荒野を駆け抜け、途中幾つかの小さな村に寄り、そして警察によるワクチン接種の検問をなぜか顔パスでスルーし、小さなラ・ティラーナ村に併設されたテンポラリーな駐車場へと滑り込んだ。車を降りると、この砂漠の奥地に、オアシスの泉のように人々が沸き立っていた。僕は心地良い胸の高鳴りを噛みしめながら祭りの鼓動の中心へと向かった。この大地を干上がらせてしまうのに十分なほどの太陽の光を浴びながら。
<ラ・ティラーナ村の教会>
<祝祭者たち>
<キリストの行進>
広場は既に祭りの狂気に包みこまれていた。上記の通り、この祭りの趣旨はこの砂漠の地に築かれたキリスト教信仰、主に聖母マリアを讃えるものである。アンタワラ(ボリビアの先住民)、中国人華僑、チェンチョ(ペルーの密林の先住民)、ジプシー、インディオ、ケチュア(ペルー天空の先住民)、モレノ(褐色人種)、そしてディアボロ(悪魔)といった、主に民族というカテゴリーで区分された100を超すグループがこの式典に参加することになる。
そしてこれらのグループがそれぞれ趣向を凝らした衣装を身に纏い、キリスト像の神輿をを先頭にして教会を出発し、音楽や歌を奏でながら通りを行進してゆく。その後広場、あるいは町角で各々のグループがテリトリーを作り、息の合った踊りを披露し、神への敬意を表明する。宗教の違いはあれど、その祭典の形式は徳島の阿波踊りに近いものを感じた。
そうした中でも目を引くのがこの悪魔の存在だ。この悪魔は祭りのマスコット的存在で、僕も実際にこの祭りに来るまではラ・ティラーナは悪魔の祭典だと思っていた。彼ら(悪魔)はボリビア高地を発祥とし、ここ7,80年で台頭してきた。彼らは他のグループの隊列のマリア像周囲に位置取り、両手を広げたゆっくりとした動きの独特の舞を披露する。彼らの主な役割はその舞をもってして各グループの踊りの良し悪しを評価することだそうだ。そして夜になると彼らのマスクは月夜に照らされ、それはパンパの夜の色彩に満ち溢れた美しい光を放つそうだ。
しかしこの砂漠の果ての小さな村にこれほどのエネルギーを持った祭りを生み出し、そしてこれほどの数の人々を呼び寄せるその姿を目の当たりにすると、改めて宗教というものの影響力の大きさを感じざるを得ない。僕は未だに日本人の宗教感覚というものを巧く説明することは出来ないけれど、こうした極限の環境にやってくると神の存在感に妙な説得力が帯びているような気がしてしまう。もし僕が500年前の敬虔な宣教師で、砂漠の蜃気楼のその先に、この十字架を見つけようものなら声高らかに神の奇跡を説いてしまうのかもしれない。
Fotografía
: Yuji Harada