interview#027 早間玲子


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早間玲子

1958年横浜国立大学工学部建築学科卒業。1959年~1969年前川國男建築設計事務所勤務。1966年に日仏工業技術交換留学生として渡仏。ジャン・プルーヴェ・エンジニア建築設計事務所を経て、1975年に日本人として初めて仏政府公認建築家となる。
1976年Cabinet REIKO HAYAMA ARCHITECTE創立(後 AAT)。1990年 SOCIETE REIKO HAYAMA,INGENIERRS 1994年設立。2013年フランス共和国建築家会名誉会員。2004年フランス最高の勲章「レジオン・ドヌール」を受章。その他受賞多数。主要作品に在仏日本人学校、パリ大学国際都市日本館改修、日本大使公邸改修、日系企業の本社・工場等。

2014年3月22日、ヨコハマ創造都市センターにおいて早間玲子氏の講演会が北山恒氏司会のもと開催されました。

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Photo by YUKAI

北山)早間玲子さんは横浜国立大学を卒業後、フランスへの海路を開かれ、ジャン・プルーヴェ、ル・コルビュジェ、シャルロット・ペリアンといった当時の建築界の最高峰を経験されました。早間さんがいらっしゃることは横浜国立大学にとって宝物だと思っています。今日は早間さんでないと聞けない、大事なお話を伺おうと思っています。

早間)みなさん、こんにちは。ご紹介に預かりました早間でございます。何十年も留守にしていた横国大のみなさまとここでお目にかかれることは非常に嬉しいやら恥ずかしいやらという気持ちです。

横浜国立大学、前川事務所そしてフランスへ

まず自己紹介をさせていただきます。私は横浜国立大学で計画原論を教えておられた山越邦彦という一風変わった先生に教わりました。山越先生については,破格の建築家としてインターネットで詳細に紹介されています。山越先生から「建築とはひとつの社会奉仕である」ということを学びました。その影響もあって私はこれから建築をやっていけるのか、何の為に建築をやっていくのかという本質的な迷いを持ちながら、半年遅れで大学を卒業することになります。

大学卒業後、私は一年遅れで前川國男建築設計事務所に入所しました。当初、前川先生は「男でも大変な建築を女ができるのか。早く嫁に行きなさい。」と取合ってくれなかった(笑)。それでも”鳴くまで待とうホトトギス”という気持ちで粘り強く待っていました。そしてやっとの思いで前川先生も折れて入所できました。しかしそこからが大変、(笑)何しろ今から50年以上も昔の話ですから、設計事務所は女性の建築学科卒業生の就職が殆ど皆無の時代,前川事務所も女は私一人でした。あるときNHK教育テレビの東京文化会館に関する取材があった際も、当時設計チーフの大高正人さんに「模型の前で指をさしておくだけでよい」と言われ、取材中その通りの格好をつけていました。NHKで発表されたのは何のことはない、指をさす私と模型のみ。非常に恥ずかしい思いでした(笑)。このままでは箱入り娘で終わってしまうのでは?という危機感を感じていた其の頃の前川事務所では、欧米での建築計画も受注し欧米諸国に武者修行に出発する所員も多く、私もフランス政府主催の日仏工業技術交換留学生試験に応募したところ、運良くひっかかりました。非常に嬉しかった。当時パリでは、日本在仏日本大使公邸の新築が始まった頃で、坂倉準三先生が顧問になり、シャルロット・ペリアンが内装を受注したばかりでした。シャルロット・ペリアン は、太目のペンテルでパーッとお描きになる方ですから、実施設計図に直す協力者を探しておられ、一方ペリアンと前川先生はコルビュジェの事務所時代の同僚、その弟子の私が協力者としてタイミングよく選定され、フランスに行く大変良い機会を得ることができました。

大使公邸はパリ8区の大統領官邸のほぼ隣、アメリカ大使館の隣に位置するパリ一等地の敷地にあります。地下を改修、地上は新築の大工事でした。パリ市から、都市景観上、ファサード・外壁の取り扱いにつき、従来の外壁・石積み式か、現代テクニクを表現した石積みとは対象的なガラス張り工法かを、選択するよう指示がありました。最終的に後者の最先端技術を美しく表現するジャン・プルーヴェのカーテンウォールが選択されました。プルーヴェはペリアンが設計する家具のテクニカルアプローチにも協力しました。

私は、ここで初めてジャン・プルーヴェに出会いました。プルーヴェの仕事振り、人柄を目の当たりにして「プルーヴェに師事する以外道はない」とまで強く思い、幸運にも、世界中から押しかけた候補者の中から選ばれ、プルーヴェの協力者として6年以上過ごしました。結果的に私はプルーヴェの最後の弟子となりました。ある時プルーヴェから「フランスでは営業権がないと設計事務所を持つことができないが、もし取得することができれば、フランスはとっても良いところだ。日本人を敬い女性に親切だ。営業権取得に挑戦したらどうだ」というご助言がありました。

フランスでは当時政治的交流もない日本人が許可を取得することは不可能に近い状況でした。外国人がアーキテクトの営業権を得るには、卒業した大学とヴォザール(美術学校)との同等資格をとらなきゃいけない。プルーヴェは親日家でしたし、前川先生とお互いに敬意の念を持っておられました。そして私の仕事への情熱と献身を感じておられたと思いますが、彼は文化省大臣宛に直接手紙をお書きになったのです。通常こうした手続きは個人単位でやるものではないのですが、私は”知らぬが仏”で強行し、1974年文化省省令により営業権を取得し、76年に個人の事務所を開設しました。この結果、横浜国立大学工学部建築学科はフランス共和国・文化省省令により5年間の期限をもって、ヴォザールと同等の資格を収得しました。プルーヴェの助言とご支持が無ければ、営業権取得へチャレンジする勇気も湧かず、未だ日仏間の文化交流も薄い当時、行政機関に対する説得力も微々たるものであったと思います。私のあと、数多の日本人も営業件を収得していますが、何事も初めが肝心、プルーヴェが日本に残した贈り物のひとつであると私は解釈しています。

日本とフランスの間にみられる建築と社会の相違

私の事務所は税金の100%をフランス共和国に支払うフランス企業です。ですから日本の一級建築士事務所の支店ではない。100%フランス法に従属します。ここで、私は、フランス人アーキテクトの所員と共に37年間、建築の創作活動に従事してまいりました。後に、大規模工場の設計に際してエンジニア事務所を開設しています。2006年には、45年間も留守にした日本の土地、山形市に日本の一企業の本社を受注し、5年余りの年月を掛けて、2011年竣工したところです。これには、日本の協力事務所、日本の施工会社と共に進めていくわけですが、これらの経験が前川國男建築設計事務所の於ける6カ年半の経験に加えられ、日仏の建築に対する相違を検討する上に非常に貴重な経験となったと考えています。

本日の主題は、日仏間に見られる建築と社会の相違に就いての概要ですが、その前に触れておきたいのは、 日仏間に横たわる歴史と文化の相違であります。フランスでは歴史的に建築は工学ではなく芸術の範疇に入ります。芸術とは建築、彫刻、絵画などを意味します。日本では一般的には建築を芸術に入れない、工学のイメージが強く国土交通省管轄となっていますが、フランスでは建築デザイナー=アーキテクトは文化省の管轄です。しかし絵画や彫刻等の芸術と比較して建築には、重要な社会的責任が伴います。従ってアーキテクトには厳しい責務が課せられます。責任と義務の保険による保障を法定化する一方、芸術的著作権も法定化して建築作品を保護します。日本には、建築作品の法律上の芸術的著作権は存在しません。

こういうお国柄ですので世界のアーキテクトを対象とした世界コンペとか、著名な外国人アーキテクトの招聘によって、絶えず世界から新しい建築を吸収し、結果として、フランス人アーキテクトに刺激を与える政策を取ります。政治上も、建築政策は重要案件であり、地方選挙に勝つには、都市計画が非常に重要な政策となっています。一般の人々の建築に関する知識は、日本と比較して非常に豊かであるばかりか、学ぼうとする意欲も旺盛です。これ等は、フランス政府が、長期に渡り手掛けてきた啓蒙の賜であり、世界に誇る文化国家として自負するフランスにとって、 文化政策は常に重要な政治政策の課題でありました。もう一つ、グローバリズムに一辺倒ではないこと、専門職を育て専門職を大切に保護し、彼らを信頼するという一般の思想、歴史的伝統という力強い根が張り巡っています。

ここで、ポンピドゥーセンターとルーブル美術館建築計画の際の体験談をご披露しましょう。1971年、ポンピドゥーセンターの国際コンペの審査委員長にジャン・プルーヴェが任命されました。私はこの頃既にプルーヴェ事務所に在席しており、印象深く記憶に残っています。この建物が建つパリの4区はパリの最も古い地区です。15、16世紀に建てられた建物が多く存在し、都市美観も非常に保護された場所です。この国際コンペを勝ち取ったのはご存じのとおりイタリア人のレンゾ・ピアノとイギリス人のリチャーズロジャース。その作品はコンペ当初ピロティがあって(ピロティは最終的に無くなった)建物裏側には原色の配管が出ている。伝統を重んじるフランス人はその当選案の模型を見て肝をつぶしたわけです。当時の大統領ポンピドゥーは、国民の理解を得るためにジャン・プルーヴェを出演させテレビ放送を仕掛けます。プルーヴェのデッサン力は正確で優雅、学生に問いかけるように黒板上に流れでる線が造る形をテレビで流して市民の気持ちを和らげます。同時に公開討論会を開きます。私はこの公開討論にプルーヴェとともに参加しました。学生、主婦、から文化省の事務官まで100名を超える市民が参加して、彼らの質問にわかり易く回答して行きますが、一般の人々の建築に関する知識は、日本と比較して非常に豊かであるばかりか、学ぼうとする意欲も旺盛です。これ等は、フランス政府が、長期に渡り手掛けてきた啓蒙の賜であり、世界に誇る文化国家として自負するフランスにとって、 文化政策は常に重要な政治政策の課題でありました。

一方ルーブル美術館のガラスのピラミッドは1988年に完成しました。ヴァカンスの折にお招きいただいた二十人ほどの昼食会では、友人が 「ルーブルのあの古い宮殿の中にガラスのピラミッドとは何事だ。」と設計者でもない私が猛アタックを受けました。もう困ってしまい、じーっと聞いて落ち着いた頃に、 私が「あれはすばらしい建築ですよ。」と一言加えますと彼は何も言わなかったのですが、とにかくみんなそういう調子なんです(笑)。良かれ悪しかれ都市や田舎を問わず新しく建てられる建築に皆がすごい興味を持っている。だから、建築というものが市民の精神的な部分に溶け込んでいる。これは非常に嬉しい事だと思います。

インタビュー写真

Photo by YUKAI

そこでちょっとかたい話になりますが、日本とフランスおける次の4つの相違について概要をご説明したいと思います。

1 確認申請の対象となるもの

2 建設関係者(アーキテクトからエンジニア、施工者)の位置づけ

3 建設損害保証制度

4 建築をつくるという事

行政上、日仏間の最も大きな相違として、建築確認申請許可の対象があります。フランスに於ける申請許可の対象は、自然環境 と都市環境の保護と美観であり、その中には、ポリューション対策も含みます。後に、建設損害保証に就いて述べますが、フランスでは、建設に関わる仕様と技術詳細一切は建設関係者に、100%の責任を負わせます。その分、行政は楽になり、申請許可の対象は、国家以外にはでき得ない、自然環境の保存と都市環境の美観、地中、空中の安全性、ポリューション対策に集中します。

一方で日本における申請許可の検査は構造計算など建設関わる技術上の作業が主軸であり、役所の仕事量はフランスに比較して 膨大なものとなっています。実際に、申請許可はアグレマン承認を収得した民間確認検査機関が受注できますが、国の都市計画に直接関わる申請書に行政機関以外の一企業が許可を与えるようなことは、フランスでは考えられません。フランスの市町村は、国の都市計画上の規制以外に、市町村独特の環境規制を設けて、街の美観を競い合っています。その最たる地域がパリであります。パリの確認申請許可の美観に関する主題はトップ重大問題であり、パリ20区に、其々、歴史・美観の専門家として、国家試験に合格したフランス共和国・建設物アーキテクトが任命されて、申請許可を判断します。今の美しいパリの景観は行政のこのような長年の努力の結果だと考えます。

数年前、私は、フランス人と一緒に大阪国際空港から京都迄、バスを利用したときのことです。窓から外部を熟視していた1人のフランス人、南部にある都市の市長さんですが、”日本には都市計画が無いのですか?”との質問です。”こんな煩雑な都市の計画をしたら、私は、市長選挙に負けてしまいます”と言われた(笑)。

日本の申請対象は 都市計画上の地域計画が貧弱であるため、個々の建築物の審査に終始している。経済発展が最優先で、文化は掛け声あるのみという傾向もあるのではないでしょうか。パリのルーブル宮の門はたとえ交通渋滞を引き起こしたとしても、除去されずに残っています。これは経済の発展が文化の価値を伴っている状態だと言えると思います。経済とこれを促進する便利さは大切であるけれども、擁護すべき境界がある。それが歴史遺産だと思います。

次に建設関係者の位置づけです。1970年代にフランス共和国は「アーキテクトは必要か」という住民投票を実施しました。その結果、建築家の参画によって住宅の質が向上し、 建築家の参加はフランスの住環境の改良に貢献しているとの結果を受け、アーキテクトの存在は不可欠とする建築法が制定されました。それ以降、フランスに於いて、建築家協会会員以外の者が名刺などにアーキテクトのタイトルを使えば違法になります。建築物の創作性を高める政策をとりますから、安全性・長期性のある建設を進めるために、専門職の重みを土台として法定化しました。建築主、設計者、施工者は利害関係を異になる可能性があり、日本のように設計・施工の企業は原則として存在しません。

アーキテクト

フランスではアーキテクト業務とエンジニア業務をはっきり分けています。アーキテクト業務は文化庁管轄であり、建築家協会入会を義務付けられます。建築を芸術ととらえ、建築に著作権を与えています。日本では「工学は万人に平等のものである」という理由で著作権が認められず裁判に敗訴するという案件もあるということを聞き驚いたことがあります。アーキテクトの称号は年毎に更新されますが、前年の保険料を滞納していると、その地位を失います。経済状況については多くは少人数のアトリエを構えてお金が入ってもコンペで使い果たしてしまう。受注率が悪いときには経済状況は最悪です(笑)。それでも芸術に対する執着心でアーキテクトはやめられない。

エンジニア

アーキテクトの考えた建築を実現するために裏づけする職能としてあります。養成機関はアーキテクトが建築大学であるのに対してエンジニアは総合技術大学になります。小規模から大規模のエンジニア事務所があります。大規模のエンジニア事務所では、数千人のエリートをかかえて世界中に支店をもつ企業や総合技術設計会社とよばれ、原子力、土木などエンジニア部門を一括してもっている企業もあります。経済状況は企業のサラリーマンとして生活は安定していると言えます。

施工会社

施工会社の工事契約は総合請負業者契約と下請け業者の直接各業種別子施工会社契約があります。日本との違いは大規模な建設においても総合請負業者のみでなく、30社に及ぶ下請け業者の業者別契約となります。職人はアーキテクトとの直接交渉を喜びますし、アーキテクトもまた優秀な職人と直接仕事をしながら非常に多くのことを学びます。しかし規模が大きくなるほど全ての業種をまとめるマネージメント能力が必要になります。このようなこともあり私も設計事務所に加えて独立したエンジニア事務所を設立しました。

建設損害保険制度

続いて建設損害保険制度について。30年前のことですが、竣工を迎えたばかりの集合住宅に入居した家族が総勢一斉にバルコニーに出た際バルコニーが落下し、5人の死者をだした事件がありました。調査の結果鉄筋本数の不足工事であり、メディアも大きく取り上げました。ただちに建築主の建設損害補償保険が発動し、被害者に支払われ、追ってプロモーター、総合請負業者、下請業者、構造設計・監理技術会社、そして総合監督としてアーキテク等、建設関係者の弁護士による決定を待って、建築主保険会社に保険金が変換されて解決しました。当時、検査事務所は保険金支払義務を逃れていましたがのちにこれも追加されました。コンクリートの床板が落ちた、雨漏りがしたなどの事故が起きたなどの事故の際に、100%ゼネコンの世話になる日本と違い、設計者も支払義務があり、同額に及ぶこともあります。

建築をつくるということについて

私は若いころ設計行為、設計図という紙面上の対話に疑問を持っていました。彫刻を彫るように自らの手を使って材料の感触を探りながら、自分で壁をたて、屋根をかけることができたら疑問は解決するのではと考えていました。設計と建設を一人でできないジレンマ、非現実感に悩まされていたわけです。自分との関係の浅い材料ともっと仲良くなりたい!と淡い願望を抱きながら、時間がどんどん経過していきました。そのような私にとってジャン・プルーヴェとの出会いは決定的なものでした。鉄やアルミ、ガラスなどが身近なものになってきたばかりでなく、ごく自然な形で素材と名付けられたものとの対話が始まったからです。

プルーヴェの言葉に次のようなものがあります。”創作とは発見であり、決して真似はしない”此れは、父から学んだ芸術家プルーヴェの矜持となり、生涯を通じて彼の原動力となっています。プルーヴェの父は、アール・ヌーボーの画家でありエミール・ギャレを継いだ人です。また建築に関して重要な言葉があります。”唯々、形を造る。如何なる必然性もないのに。私は芸術家であるから、思い切った形を世に発表する。こうした創作技は不可能でであった。そのような大それた建築はご法度であった。自然の中の必然性、社会性が絶対に必要であった。私は形を創作しない、形ある建築を造った “プルーヴェの言う”自然の中の必然性、社会的必然性とは、自然環境や社会環境の中の欠如の痛みから生まれるすがたです。欠如を満たすものは安らぎと調和を醸し出す存在感のある空間となって、私たちの住環境を豊かにしながら、真実の感動を与えてくれるでしょう。私はこの真実性こそが本物の美しさであると考えます。新しい建築をつくるということは地域の歴史、自然や都市への新たな参加を果たすことだと思います。私のアトリエでは1980年代から2000年代手掛けた大規模な工場や研究所はほとんど大自然の只中、10ヘクタール以上の土地に建設しました。農業国として知られたフランスの美しい大自然との対話にのめり込みながら、不定形な広大な敷地に地域の都市計画への参加を試みました。

建物が竣工して、内部に人が住み、使用され、人間の生の息吹を吸収しながら独特の豊かさが生まれ、時の経過とともに自然なかたちでその土地の姿や歴史と一体となっていく、これが建築の生命が宿った完成した姿と私は思います。 大学院を卒業され、これから社会に出られる方、あるいは社会に出られてまだ間のない方々は、大きな希望と同時に、迷いも持っておられることだと思います。また皆様が出発される社会は時には本質的でないものが讃えられることもあるかもしれません。そんな時、建築をつくることの謙虚で奥深い心を実地に学んでいただきたいと思います。建築にはすごい力があります。この力を信じて信念をもって世に問いかけ、そして社会に貢献していただきたいと心からお願いして、本日の講演を終わりたいと思います。

北山)生産や制度に強い関心を持たれている早間さんのお話はさすがジャン・プルーヴェの事務所にいらっしゃった方だなと思わせる内容でした。ありがとうございました。先ほど控室で実は僕がジャン・プルーヴェとオスカー・ニーマイヤーが協同してつくった共産党本部がすごい好きだとお話ししましたら、ジャン・プルーヴェが「ニーマイヤーのことをフォルマリストだ。しかし怪物であった。」と言っていたという話をきいて、そういうことをご存知である早間さんをうらやましく思いました。

早間)ニーマイヤーとは、プルーヴェに誘われて一緒に昼食をしました。彼は、我が手を翳しこの手、この手が世界をつくるんだと。物凄い自信と才能のある人でしたがやはりジャン・プルーヴェとは違いますね。この手、この手が世界をつくるんだと。自信がすごく、才能のある人でしたがやはりジャン・プルーヴェとは違いますね。先ほど申し上げたように、ジャン・プルーヴェは形をつくらないんです。形は、欠乏の結果として出てくるものだと。いろんな人が世の中にいていいんだろうと思いますが、私はジャン・プルーヴェの謙虚なやり方や人柄に影響を受けましたね。

北山)実は僕が70年代の始めにジャン・プルーヴェにすごく影響を受けたのはそこなんです。その当時日本がだんだんバブル状態になってきて、建築家がもてはやされるようになってきて、そのときに形が大きな問題になってきた。不思議で特別な形をつくった建築家がメディアにも掲載されるし、建築家として認められる。ジャン・プルーヴェはそうではない。形を作っていくプロセスが大事だという思想にすごく共感しました。

早間)ジャン・プルーヴェというのは、稀に見る立派な人ですね。非常に紳士できめ細やか、質実剛健。私が仕事をしていると「日本が恋しいだろう」とナンシーの自邸から持ってきた笹の鉢を窓際に置いてくれたこともありました(笑)。

コルビュジェはプルーヴェを称して、「ナンシー王朝の出身者である。」と有名な言葉を残しています。ナンシー王朝とはアール・ヌーヴォーがフランスで発祥した地域です。アール・ヌーヴォー運動の率先者がエミール・ギャレでその後継者として選ばれたのがジャン・プルーヴェの父、ヴィクトル・プルーヴェ。まさにアール・ヌーヴォーの真只中にジャン・プルーヴェの才能が開花していくわけです。だからこそプルーヴェの描くものは全て美しい。これが普通の人と違う。美しいモノには非常に敏感でしたね。

プルーヴェは「彼の美的感覚はどう思うか」などとスタッフをさして厳しいことをチラッと言われることもあり、みな非常に注意して美しい図面やスケッチを描かなければならない。いくら必要性からでたものでも美しくないものは建築ではなかったのです。それは私には天性の才能に恵まれた人のように見えました。しかしプルーヴェはそう言われることは好まない。その中に秘められたものは勇気であり、努力であると言っているのです。前川先生もおっしゃっておられたけれども才能というのは1%だと。99%は努力であり早く開花する人もいれば、遅く開花する人もいる。そして残念ながら開花しない人もいるのです。

私はこのようなプルーヴェの本質を紹介する展覧会を開催することを生涯の仕事にしたいと考えています。世界中にプルーヴェの弟子たちが散って、その名声を高めています。しかし日本での本格的な展覧会はヴィトラ社が主催した家具中心の展覧会のみです。前回横浜国立大学に伺った際、建築棟の地下の図書館にプルーヴェの椅子とテーブルがあったのは本当に嬉しかったです。

北山)僕はジャン・プルーヴェはある意味社会思想家であると思っているんです。その思想を形やもので表していく人であり、実はデザインとは形をデザインするのではなく、社会をデザインしていくようなそういう感覚だと思っています。そういうことをもっと聞きたいのですが、僕だけ聞いているわけにいかないので、会場からの質問を受けたいと思います。特に若いこれからという人に早間さんにしか答えられない質問をしてもらいたいのですがいかがでしょうか。

質問者1)実はわたしは早間さんの一つ上の学年でして。若くはないのですが(笑)。

早間)こちらも若くはないです(笑)。

質問者1)今日のお話で、フランスの建築家も楽じゃないという話をきいて、卒業する時のことを思い出しました。設計事務所に行きたいというと当時の就職担当の先生が「設計事務所に行くということは旅芸人になるということだ。決して楽ではない。だけどあの連中はとにかく好きだからやっている。」と言うんですね。だから旅芸人になったつもりで、やりたいやつはやれというお話を聞いたことを思い出しました。あと私はゼネコン出身でして、早間さんがパリでキャノンの工場を設計された際の施工を私たちの会社が担当していたのです。早間さんと同じ出身校で卒業が近いということで期待されていたのですが、「私たちはみな早間さんを知っているが、早間さんは我々のことなど全く知りませんと」担当者に言ったら非常に残念がられたのを思い出しました。

早間)そうですか、ありがとうございました。キャノンの工場の仕事というのは私にとって非常に思い出深い建物です。敷地であるブルターニュ地方では天然のスレートが採れます。この高価なスレートを事務棟に採用して、地方色豊かな屋根を提案し、それについていろいろな議論が起こりました。地域のスレートを大量に使用するということは材料だけでなく地域の職人も使い、非常に大きい金額が動きます。地域の人々や政治家などとも話し合って結果的に採用することになりました。竣工後5年経ったころ当時のキャノン社長さんから「あの時スレートを採用していて本当に良かった。キャノン・イメージとして地域と共生して会社が繁栄しています」という手紙を頂いた。5年10年経ちクライアントからこのような手紙を頂くのは私にとって最高の贈り物です。

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CANON ; 建設十年後の管理棟、バックに杉の樹を前に工場棟壁面

 

 

canon10年後

 

 

CANON ; 天然スレート板葺きつけ屋根と内部

質問者2)98年に学部を卒業しました。当時の横浜国大の様子をお伺いしたいです。例えば課題などが出された時に、どのように先生方と関わっておられましたか?

早間)私は学生時代、非常に迷いの時代した(笑)。とっても駄目だったんです。ポール・ヴァレリーからはじまり文学書を乱読していました。人生というのが正直分からなかったんですね。救いは前川先生の神奈川県立音楽堂で、そこで音楽を聞いた経験が素晴らしく、前川事務所に入りたいと思ったわけです。学生時代は建築学科に入った女性だけの会を結成してというポ・ド・コ Po-Do-Co(エスペラント語 思考し、討論し、創作する) 雑誌をつくっていました。は日本女子大出身の林雅子さんと中原暢子さんや東大の富田玲子さんなどがメンバーでした。雑誌の取材で, 好きな建築家に会いに行ってインタビューをしましたが、前川先生との初めての出会いもこの雑誌がきっかけです。当時はこっちも子供でしたのでからかわれていました。今だったら色々と申し上げたいと思うんですがね(笑)。前川さんの優雅さや建築を通して社会をよくしようという凄みをその時感じることができました。私は大学でビリでも成功するということを皆さんにはお伝えしたいです(笑)。私は成功しておりませんが、成功とはプルーヴェではありませんが熱意と執着心。そして出会いというチャンスを逃さないことですね。

質問者3)建築を勉強中の大学2年生です。ジャン・プルーヴェの形についてのお話がありましたが、デザインを決めていく時にどういうものをヒントにしたのでしょうか。

早間)-ジャン・プルーヴェはエンジニアですからアーキテクトと一緒に仕事をするのですが、彼の描くものは全て美しいため、出来た作品はアーキテクトではなくジャン・プルーヴェの作品になってしまいます。例えばフランスのベルシーには土手の上に屋根が架かっているスポーツセンターがあります。エンジニアはジャン・プルーヴェ、アーキテクトはアンドロ+パラです。このデザインのはじまりはプルーヴェがトレッシングペーパーにアイデイアデッサンを描いている。こうした建築のアイデイアによって生まれました。プルーヴェは、ごく自然に形がテクニックと共存し、そこには美しいものが棲みついている。才能もあるけれど美しいものを追及する習慣と努力です。彼の場合16歳まで絵描きであるお父さんや仲間の役者たちに囲まれて過ごしたのち、経済的な理由もあり大学には通わず彫刻作品大家である鋳鉄工に奉公しに行きます。そこで一打一打鉄を打ちながら肉体を通して美の感覚を養っていったのだと思います。この辺りの感覚は経験の少ない学生さんにはまだわからない。これから頑張ってください(笑)。

質問者4)Y-GSA修士2年の学生です。僕はこの春からインターンシップでドイツに行きます。自分は今のところ日本に戻ってきてから事務所を開きたいと考えているのですが、フランスで事務所を開こうと決意をした要因は何だったのでしょうか? 

早間)私はフランスで事務所を開設することに迷わなかったんです。何故迷わなかったというと、先ほどもお話した通り当時の日本で女性のアーキテクトにどこまで仕事がくるのかという思いがありました。前川事務所に入ったら女大工とはどんな格好をしているのかってゼネコンさんが見に来るわけです(笑)そういうことにも懲りていましたしプルーヴェの助言もありましたので。一心不乱に前を向いてフランスで仕事をして、1976年に事務所を持った時には既にフランスで東京銀行パリ支店の3,000㎡のインテリア新装のご依頼がありました。その後、在日のデユプイさんという物理学者からフランスの住宅を受注しました。この方は丹下健三、坂倉準三、篠原一男、吉村順三の、自ら建て自ら住む住宅を見学され、未だ前川國男の住宅は見ていないので紹介して欲しいというような方でした。デユプイさんは、既に数人ののアーキテクトに自邸を依頼され、アーキテクトのハシゴをされて私のところに行きついた方です。こうして、私は、独立して最初の建設に携わりました。このような状況で有無を言わさず当初は自宅で事務所を始めることとなるのです。若い人はあんまり悩まない方がいい。直感でバサっとやるのがいいと思いますよ(笑)。ドイツでコレッと思ったら真っすぐ前を見るべきだと思います。

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住宅;デュプイ邸:日本のエスプリをフランスの材料で表現

北山)早間さんのお話を伺っていると運をつかむのがうまいんだなと感心します。

早間)フランスの最高裁長官で女性の方がいらっしゃるんです。たまたま隣で食事する機会があって、「成功する条件はなんですか?」と伺いました。すると「もちろん才能がないといけない。執着心がないといけない。で最後はチャンスだ」というんですね。チャンスが来たときにこれを取り込む猫の手とでも言うんでしょうか(笑)。そのためにはいつも観察していないといけないわけです。チャンスとは色々とあるのです。パリでペリアンと協働している時、ホセ・ルイ・セルトに出会いました。コルビュジェの弟子で前川先生の盟友、当時、ハーヴァード大学建築家主任教授です。彼は自分の事務所に来るよう誘ってくれましたが英語は忘れました と申し上げれば、ハーヴァード特別奨学金も出すとのこと。しかしその時私は既にプルーヴェのもとで働くことが決まっていましたので丁重にお断りしたわけです。このようにヨーロッパにはいたるところにチャンスがあるわけです。それが来たらパカッとかぶりつかなきゃいけない(笑)。

 

北山)今年はもう一人Y-GSAからパリのラカトン・ヴァッサルのところに行く学生もいます。横浜国立大学にはヨーロッパでチャンスを獲ろうという学生が毎年います。是非彼ら後輩をサポートしてください。私たちにとっては伝説のOGでした。まだまだお元気でありこちらが力を頂きました。チャーミングなお話をありがとうございました。

早間)私にできることがあれば是非。

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Photo by YUKAI


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