interview#028菅井啓太


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菅井啓太(すがいけいた)/坂茂建築設計 ディレクター/1974年鹿児島県生まれ/1997年横浜国立大学工学部建築学科卒業/1999年同大学院修士課程修了/1999株式会社坂茂建築設計

 

 

―――では始めに、建築をやろうと思ったきっかけをお聞かせ下さい。

 

親が転勤族だったので、中学に入るまでに9回ぐらい引っ越しを繰り返していました。鹿児島で生まれ転々とし、中学に入るタイミングで家を建てることになったのです。その過程でショールームに訪れたり、工事現場もよく見ていたのもあって、建築家という言葉はまだ知りませんでしたが、建築の設計っておもしろそうだなという思いは小学校の時から漠然とありました。

 

―――横浜国大で建築を学び始めるわけですが、どのような学生生活を送っていましたか?

 

ぼくらのころは、建築家の書く文章に哲学などにまつわる難しい言葉がいろいろあって、勉強も少しはしたのですがあまり身につきませんでしたね()。一番役に立ったのは学祭での仮設建築ですかね。ただ作るというだけではなく、協賛を募ることなど、実際の社会と接する楽しさもありました。予算が限られているので、そのなかでどうやりくりするかという工夫がおもしろかったですね。具体的には、最初の方は先輩たちをまねて、足場を使った仮設を作っていましたが、学年があがると人も集まらなくて、ブルーシートの厚いものをミシンで縫ったりしてお金をかけない仮設をやりました。

 

 ―――そんな中、坂さんが横浜国大にやってきてどのような影響を受けましたか?

 

僕らの学年は直接坂さんの授業を受けていないんですね。坂さんが横浜国大に教えに来る前に大学に来て作品スライドを見せてくれたんです。そのときに神戸の震災に関するボランティアを募っているということで、三週間ほどボランティアに参加したのがきっかけで坂事務所と関わりを持つようになりました。ボランティアには最初は1週間のつもりで行きましたが、面白くて延長しました。作業も面白かったのですが、いろんな学校の学生がいて、建築について話している内容が新鮮でした。夜にお酒を飲んだりもするのですが、その席で年上の人たちが建築家の作品の話とかをずっと喋っていたんです。そのとき全然知らなくて、やばい勉強しなきゃと思ったりしました。

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坂事務所の震災ボランティアに参加していた学生時代

 

―――そうしたボランティアを経て坂事務所に入ろうと思った決め手はなんですか?

 

坂事務所ではいろんな構造ができると思っていました。紙だけじゃなくて、鉄骨だったりRCだったり木造だったりといった 基本的な構造が。事務所に入るということは「技を学ぶ」ということだと思っていたから、いろんなことやっている事務所がいいなと。そういう意味では坂さんのところがよかったですね。

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仮設の教会を施工するようす

 

―――ボランティア時は仮設だった鷹取教会が本設になったわけですが、詳しくお聞かせください。

 

震災から7年後の2007年に完成しました。教会のほかに、地域の街づくりや外国人の支援をするようなNGOの事務所なども入っていてコミュニティーセンター的な役割があります。ですから単に教会をつくるというよりは、地域の震災復興のしめくくりみたいなこともあったので、いろんな人の思いを汲み取ることに必死でした。教会側から要求されたことは、「開かれているけれど閉じてもいたい」ということでした。中庭を囲むように建物を配置し、各部から中庭に対して開ける計画となっています。竣工後最初のミサは、いきなり聖堂でやるのではなく、中庭でやることになったのですが多くの人が集まる一体感がすごくてその光景を見て「人が集まれば建築がなくても、場は成立してしまうなと思い、建築って大したことないな」と思いましたね。人が集まるということのほうが強いなと(笑)。ちなみに僕はそこで結婚式を挙げさせてもらいました。

 

―――建築が大したことがないというのを感じてしまったときに、その後の設計に変化はありましたか?

 

建物というのは人が集まるきっかけにはなると思っているんですけど、そういう人が集まる場のきっかけを作ることは設計において非常に大事だと思っています。やっぱり使ってもらわないと建築はどうしようもないなという思いがあります。けど本当にこれだけの人が一度にわーっと集まって使ってくれている姿を見るのは最高に楽しいというか、自分としてもいいものができているなあという実感がありますね。

 

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カトリックたかとり教会(2007年/竣工記念イベント)

 

―――菅井さんは約15年坂事務所にいらっしゃいますが、長くいることのメリット・デメリットをお聞かせ下さい。

 

デメリットから話すと、先日の円錐会イベントで北山恒さんのレクチャーがあったじゃないですか。確かに大学院を卒業してもやっぱり北山さんの影響ってずっと受け続けていたのですが、久しぶりに聞いてふと思い返すと、いまは段々忘れてるなと思って。北山さんや横国の考え方があり、また坂さんのところで働いていると、ちょっとずつアプローチの違うところがありますね。両方のいいところを取ることが自分の理想ではあるんだけど、正直いま坂さんの方が強くなりすぎたなぁって思っていますね()。長くいることのメリットってむずかしいけど、小さな仕事から徐々に大きな仕事に関われているので自分と事務所の成長にズレがあまりなかったのがメリットであり、続いている理由だと思います。あと、強いて言えば、プリツカー賞の授賞式に行けるとか(笑)。6月にオランダに行きますよ。

 

―――(プリツカー賞の受賞は)他人事じゃなくて自分のことになる感覚ですか?

 

自分のことではないけれどそういう風に思えるようになりました。前は所詮、坂さんのことだよねって距離を感じていました。例えばプロジェクトの記者発表やオープニングなんかも自分とは関係のないプロジェクトなら行きたくないっていうタイプでした。みんな結構行くのだけど、一人残って仕事をしていましたね。今は坂事務所の仕事に対して、自分としても自信があって、喜べるんだと思います。

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坂氏と共に参加したプリツカー賞受賞式

 

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―――坂事務所の仕事の進め方はどのようなものですか?

 

まず、最初のコンセプトスケッチは坂さんが描きます。最初にちょっとしたリサーチをみんなでして、ピックアップした情報を共有しその中でつくっていきます。みんなで案を出しあう感じではありませんね。ものにもよりますが、プログラムから解かなきゃいけないものは所員から始めたりもします。坂さん自身が細かいところまで自分で見たい、自分の責任は自分で取ろうっていうタイプの人なので、世界中どこからでもメールでスケッチが飛んできます。

 

―――15年同じ事務所にいると、独立を考えたくなると思うのですが。

 

年数だけ聞くとすごい長いなって思います。でもあっという間だったと自分では思っているんだけど。プラスだと思ったことはやっぱり、スタッフが5、6人だった時から、今は20人くらいになっていて、そうやって段々大きくなって、やっている仕事も大きくなっていることでしょうか。最初は住宅ばかりだったのが、ちょっと大きな建物になって、いまは公共の建物をやっているように、常に自分の中でステップアップしていっている感じがしているからここでまだ働いているわけです。正直、もう辞めようと思うこともありました。リーマンショックのときに仕事がなくなって、コンペばっかりずっとやって、現場があんまりないような時期があったんです。とにかく新しい仕事をとるためにコンペをやり続けていた状況がしんどいという時期があって、そのときさすがにもう一回も勝てないんじゃないかと思って、辞めたいと言ったことがありました。ただそのときに坂さんに言ったのは、自分としての次のステップは公共だと思っているということだったんです。その約1年後に大分県立美術館の仕事が取れたので、それがあっていまも独立せずに頑張っています。

 

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15年竣工予定(まちに開かれたアトリウム)

―――大分県立美術館のコンペで考えたことについてお聞かせ下さい。

 

敷地が大きな幹線道路に面していて、向かいにはホールがあります。このホールと美術館をペデストリアンデッキで繋ぐというのがコンペの要項にあり、それ以外にどう二つの文化施設が対面する立地を生かすか提案を求めていました。そこでいかに「つなげる」かということで、二つの建物の間の幹線道路を歩行者天国にしようと提案したんですね。ちょうど近くにもう一本幹線道路があったので車は迂回させれば、歩行者天国にすることができると。あといままで何度も使っているガラスシャッターでオープンできるようにしました。そうすれば建物は前面が道に開いて内外が一体となったイベントができます。普通の美術館として使っている状態が道に開いて、広場のような歩行者天国から人が入ってくるんです。それが強い提案でした。美術館というのもいろいろなタイプの美術館がありますが、大分県立美術館では街なかにあるから自由に、気軽に行き来できる、美術館を目的にしていない人でも来られる場所にならないかなと思いました。美術館を開け放してどんどん外に広がっていく、街全体の施設というのを強く出した提案になっています。

大分県立美術館は1万7千平米もある大きな美術館なのですが、意識的に木を使っています。この準防火地域の街中にこういう木のものができるっていうのは日本ではなかなかないと思いますし、いかに公共建築のなかで木をどう使っていくかということは今後の課題だと思っています。

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現在進行中の大分県立美術館

 

 

―――先日、富士山世界遺産センターのコンペにも勝ちましたが。

 

そうですね。敷地はとても難しい場所で、実は富士山から近いというわけでもないので、上にあがらないと富士山が見えないのではないかという見解が我々の中でありました。ところが富士山本宮浅間大社の高さを超えてはいけないという制約もあり、事務所内で話をした時に皆漠然としていてどういうスタンスでアプローチするのか決まりませんでした。なにか周りとの関係があまり感じられないので、むしろシンボリックなものにしないといけないのではないかとなって話し合いは一旦終わったんです。そしたら坂さんが新幹線で移動中、富士山を見ながら「ああ」って思ったらしく逆富士のスケッチを送ってきたのです。その絵を見ながら、螺旋状のスロープで登山体験ができるというのはどうかとなりました。周囲とのつながりが希薄なのでどう富士山という存在に繋げていくかということで、富士山からの湧き水を利用し前面を水盤にし、そしてその水が今度は空調に使われたり、最上階のカフェでは、ポンピドゥーセンターメスのようにピクチャウィンドウを使って刻々とかわる富士山の様子を絵画のように見せたりと、一つのスケッチから、たくさんのにアイデアにつながっていきました。

 

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富士山世界遺産センター

 

―――坂事務所はコンペに勝って仕事を得るほかに、積極的に被災地にも出向いていますね。長く事務所にいる中で、社会の求める建築家像に変化は感じられますか?

 

 坂事務所が時代によって変わっているかというとあんまり変わってないかもしれませんね。

ただこれからも新しい建物をつくりつづけることが建築家の職業であり続けるかといわれるとそれはちょっと分かりませんね。日本は特に、ヨーロッパと比べて建築がすぐに入れ替わる。新陳代謝がすごく早いから、新築を建てるという建築家像があるかもしれないけど、それは今後変わっていく可能性があると思っています。坂事務所がどうかといわれると、逆に王道をいっている、非常に古典的な設計事務所だと思います。ただし、震災に関わるとかはやはり新しい話だと思います。ただ、それはある技術を持った人間が、人として、何をできるかを考え、行動しているだけでもあります。

 

―――これから設計を始める学生や建築の仕事に就こうとしている学生に一言お願いします。

 

 自分もできていなかったのですが、建築はその時代の生活や技術と密接に関わることなので建築雑誌をみるのも大事だけど、世の中を知るという意味で新聞を読むことはちゃんとした方がいいと思います。なかなか読めなかったなと自分でも思っていて、新聞って意外と建築を考える上でのきっかけになることがたくさん載っていますよ。あとは海外に留学することですね。僕はしていませんが、坂さんも頻りに言っています。人生相談なんかしたらとにかく留学しとけと。英語を手っ取り早く学べるので、その後、いろいろな世界に出て行きやすいと思います。

 

―――最後に菅井さんの今後のビジョンをお聞かせください。

 

せっかく大きな規模の建物まで経験しているのだから、やはり多くの人が使うようなものをやりつづけたいっていうのはあります。なかなか難しいことだけど、建築家の夢だよね。そのためには、コンペをやり続けないとダメですね。

 

―――ありがとうございました。

 

 

インタビュー構成:藤奏一郎(M2)、室橋亜衣(M2)、山本由加里(M1)、住田百合耶(B4)

インタビュー写真:梯朔太郎 (M1)

 


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