interview#031 西沢大良


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西沢大良

1964年東京都生まれ / 1987年東京工業大学建築学科卒業 / 1987年入江経一設計事務所入所 / 1993年西沢大良設計事務所設立 / 2013年芝浦工業大学建築工学科教授着任

今回は、建築家の藤原徹平さん、大西麻貴さんも交えて、西沢大良さんの事務所にお邪魔してインタビューを行いました。

—西沢さんが建築を目指されたきっかけを教えてください。

建築家になろうと決意したことはないんです。中学や高校の教師や友人たちから、お前は天才数学者になるだろうと言われていたんですが、高校2年生の夏に自分より数学のできる男に初めて出会って、数学は無理かなと思うようになりました。でも、数学以外にやりたいことがなかったです。理工系の分野は、物理とか機械みたいに数学の出来損ないみたいなものが多いから。でも、建築はもしかすると違うかもと思って、東京工業大学の建築学科にいちおう入学しました。幸い東工大には2年生にあがる時に他学科に転科ができる制度があるから、1年間かけて数学科に進むかどうかを悩もうと思ったんです。でも、1年経っても決心がつかなくて、もう1年考えるためにわざと留年しました。だから1年生を2回やっているんですよ。

2度目の1年生の4月に、東工大には数学を捨てて建築家になった教授がいる(篠原一男さん)と知って、すぐに本屋に行って篠原さんの作品集を見ました。バッとページを開いた瞬間に、「こういうのは知っている、こういうのはよく分かる」と思いました。

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                      建築へ進むきっかけとなったSD『篠原一男特集』

—「知っている」というのはどういうことでしょうか?

建築の知識はゼロだったんですが、どこにクリエイションがあるのか、どこを強調してどこを無視しているのか、何が美術や彫刻と違うのか、などが一瞬で分かったということです。建築というのがどういう規則でできているのかが分かりました。ただし、本には図面と数カットの写真だけしか載ってないので、ちゃんと細かいところを見たいと思って、実物を見に行くようになりました。当時は建築マップなんてないので、「何県何市」までの情報と写真の背景を頼りに探しにいき、見つけると「学生です」と交渉して中を見せてもらっていました。そうやって、篠原一男、清家清、吉村順三、増沢洵、伊東豊雄、坂本一成…とたくさん見ました。だんだん知識もついてきて、建築が面白くなっていきました。

—建築学科に進んだ後の活動についてお聞かせいただけますか?

僕の学年は、篠原さんに製図や設計を教えてもらった最後の学年でした。それで3年生の4月に、あと何回篠原さんと話せるだろうと数えてみたら、25回くらいしかないと気づきました。これは少ないなあ、何か良い方法ないかなあと考えて、篠原研のフロアのトイレで毎日待ち伏せをすることにしました。トイレブースに本を持ち込んで、毎日本を読みながらそこで待ち伏せをして、篠原さんが来たら必ず質問をしようというわけです。25回話せば1年分、50回話せば2年分ですからね(笑)。篠原さんは、意外と若い人と話すのは嫌いではなさそうだったので、そんなことをしてました。

—どのような質問をなさって、それに篠原さんはどのように答えていたのでしょうか?

3年生だから稚拙な質問ばかりでしたけど‥‥例えば「先生は『日本のモダニズム』を批判されていますが、僕はまだ『日本のモダニズム』なるものがよく分かりません、何を見ればわかりますか?」とか。これには「菊竹清訓と丹下健三の仕事を『ちゃんと見なさい』」と言われました。「ちゃんと見る」ってどういうこと?って思ったけれど、トイレだからひと言くらいしか聞けないんですよね。だから、とにかく図書館で古い雑誌を何度も見返して、実作も見に行くようにしました。あるいは固有名について毎日一つずつ聞く、というのもやりました。例えば「ピーター・アイゼンマンについてどう思いますか?」とか。これは反応が悪かった。無言で出て行ってしまった。「アルド・ロッシのガララテーゼはどう思いますか?」と聞いたときは、珍しく雑誌を手にとって、「彼は私と似ているところがあるかもしれませんね」と言って、慎重に言葉を選んで話してくれました。その反応を見て、僕はその後ロッシについて丁寧に見るように心がけました。ちなみに、その日の篠原さんは話しながら機嫌がよくなっていって、「お昼ご飯でも食べに行きますか」と喫茶店に連れて行ってくれました。ただ、篠原研究室では「学部生が篠原先生を喫茶店に誘ったらしい」と騒ぎになっていて、助手の有泉さんとか院生とか10人くらいが後から喫茶店に押し寄せてきて、ゆっくり話し続けることはできなかった。なかなか独占できないんです、トイレの外だと(笑)。

篠原さんだけではないけれど、生身の人間というのは、膨大な情報を発散していると思うんです。例えばどんなスピードで話すのかとか、何秒くらいで学生の作品を判断しているかとか、雑誌のどこを見るのかとかです。そういうことは作品集や講演会では分からないことで、生きた人間と出会わない限り得られない情報だと思うんです。そういう生きた情報については、僕は全部覚えています。

 

interview

 

—その後学部卒で、入江経一氏の事務所に就職されましたね。

3年生の終わり頃、施工系の雑誌にある建築家のインタビューが載っていて、現場用語だけで設計主旨を説明をしていたんです。合板が3×6だからこのプランにしたとか、額縁のチリはどうのこうのとかです。僕はその建築家の作品を全部知っていたつもりだったんですが、全く内容が理解できないことに衝撃を受けました。このまま大学にいても現場のことは分からない、分からないのに建築をつくれる訳がない、と遅まきながら気がついて、大学院は受験せずに就職しようと思いました。真っ先に現場に行くには人数の少ない事務所が良い、つまり若い事務所にしようと考えました。

でも当時の「若手」というのは伊東豊雄さんや坂本一成さんといった40代後半の方たちのことでした。伊東さんたちの事務所も規模が大きくなりつつあって、数年経たないと現場に行かせてもらえないような雰囲気でした。だからもっと若い人を探しました。でも当時は20~30代の建築家の情報なんて皆無で、雑誌にも載らないのです。そこで篠原坂本研究室の年長者たちに、「20~30代の注目しているOBGはいませんか?」と尋ねると、坂本さんを始めみんな入江さんの名前を挙げたんです。それでオープンデスクに行って、そのまま入江事務所のスタッフ第一号になりました。入江さんが30代半ばの頃で。その後7年間半くらい働いたと思います。

—入江事務所に入った頃のことを教えていただけますか?

 当時の入江事務所の仕事の比率は、1/3が建築、1/3がプロダクトデザイン、1/3がインタラクティブアートという割合でした。僕より後に入った所員は、4~5年間はプロダクトやインタラクティブアートのスタッフばかりでした。しかもみんな外国人で、建築担当は僕一人だったので、僕だけ変な仕事をしているような感じでした。最後の1年間だけは公共の博物館を設計しないといけなかったので、建築担当の部下を3人入れてもらったんですが。

プロダクトやインタラクティブアートも面白そうではあったんですが、僕としてはやっぱり建築の現場をやり尽くしたかったんですよね。数学をあきらめた経験があったから、早く決着をつけたかった。自分に建築の才能があるのかないのか、1日も早く知りたかったんです。だから大学で褒められたくらいでは、何の意味もないと思っていました。大学時代には褒められると腹を立てていました。中学高校で数学教師に騙された経験があったから、二度と騙されるかと思っていました。

自分の人生はこの所員時代に決着がつくと本当に思っていたので、アイディアも100%出すし、どんなくだらないことでもやって、後悔だけは絶対しないようにしてました。事務所内ではやや孤独だったけれども、そのかわりに事務所に来る建築の仕事をすべてできたので、充実していました。幸い建築は持久戦だから、一挙に形にしなくても良い。お金のことを考えたりいろんな条件を考慮しながらちょっとずつ決めていくことになりますよね。事務所内の3部門のなかで唯一建築部門なら、他の人に勝てるなと思いました。

—入江さんの設計は独特のエレメントがオブジェ化していくという感じが印象的です。

例えば、専用住宅を設計するときは、レンジフードみたいな細かい立体もデザインすることになるわけですよね。施主からオープンキッチンを求められた場合は、レンジフードが空間の中でオブジェとして目立つから、デザインすることになる。入江事務所のレンジフードは大抵僕がやっていて、「レンジフードの魔術師」とか言われました。まあそんなこと言われてもあんまりうれしくないですけど(笑)。

大学時代は壁と柱と床でしか建築を考えていなかったので、室内の家具やモノの存在をほとんど意識していませんでした。けれども、それこそが住宅にとって重要だというのを、さんざん叩き込まれたのが事務所時代でした。

—『室内風景論』で論じられた視点は、入江さんの事務所時代で感じたことなのでしょうか。

入江さんが言っていたわけでは無いのですが、インタラクティブアートやプロダクトデザインの隣で建築をやっていたことが、多少影響したのかもしれません。ともかく、自分としては、この問題を誰も言ってないなと感じていて、それを言語化したらああいう文章になりました。

また時代的な条件もあるかもしれないです。僕の少年時代は60~70年代なので、近代化のまっただ中なのです。その時代は、とにかくモノの種類が少なかったんです。モノの数は多かったけれど、種類は少なかったのです。近代という時代は「少種多量」なんですよね。1種類のものを大量に集めるときれいになる、というのが建築のモダニズムのデザイン手法だし、1種類の商品を大量に製造するのが近代産業ですからね。

その後、バブルが終ったあたりから、近代とは別の時代が始まったと思うんですが、設計手法はあいかわらず1種類のものを大量に並べるというモダニズムの手法しかないですね。僕らの幼少期のように、車が1種類しかなかった時代であれば、駐車スペースを幾何学的に並べておけば自ずと駐車スペースの景観もキレイになった。でも今は車の種類がたくさんありすぎて、幾何学的に整列させてみたところで景観的にはスクラップ場のようなスペースになるだけです。かといって、どう並べたら良いか分かっていない。駐車場であれ屋内スペースであれ、モノがごちゃごちゃして見えるのは使い手が悪いのではなくて、デザイン手法が未熟だからだと思うのです。そういう話を室内風景論に書きました。

—西沢さんは『室内風景論』を始め文章をたくさん発表されていますが、書くようになったきっかけはありますか?

建築を勉強し始めた時から、建築家の文章は文章として、作品とは独立してちゃんと読むようにしていました。ただし、見る前に読むことはしないようにしていました。一度もしたことがないです。自分が作品を見に行って考えたことを、後から作者の書いた物を読みながら自己評価するときに読むようにしていました。後から文章を読むと、いろんなことがわかります。違う作品の解説みたいな話をしちゃっているなあとか、肝心のことを言い当ててないなあとか、この程度のことしか考えてなかったかとかです。もちろん良い文章もありましたけど、がっかりしたものも多かった。

良い建築をつくるデザイン能力と、良い文章を書く能力は、ちがう能力なのです。それぞれに別の訓練がいるのですね。自分としては、良い建物を作ったらそれを上回るような良い文章を書けるようになるぞと思っていました。

—その後、独立して、すぐに仕事はあったのですか?

バブルがはじけた直後に独立したので、全然仕事はありませんでしたけど、やたらと燃えていました。やりたいことがあったんですよね。入江事務所時代はいつもプロジェクトの対案を出すと、入江さんがどちらにするかを選んでくれていました。それを7~8年続けると、あのとき選ばれなかった案を発展させていったらどうなっていたのだろうと、気になってくるんですね。だから独立した直後は、気の済むまで全部独りでやりたいと思っていました。当時はユニット派という言葉が流行った時代で、塚本由晴くんにしても曽我部昌史くんにしてもチームで設計していたんですが、それでいいなら独立する意味がないと僕は思っていました。とにかく自分のジャッジだけでやれることが嬉しくて、実現までいかない仕事でもすごく楽しかったんです。そうやっているうちに幸い住宅の仕事がきてね(『立川のハウス』)。独立してから処女作ができるまで4年くらいかかったと思います。でも自分の能力がわかっていたから、やる気は衰えなかったです。

自分の能力がわかっていたとは言っても、超売れっ子にならないことだけはわかっていました。そういうことは、高校くらいで気づくでしょう。自分の好きなものを見ればだいたい分かる。中学高校の時に好きだった音楽とか映画で、大ヒットするメジャーなものを好む人と、商業的にはヒットしないコアな作品を好む人がいますよね。僕はいつも後者でした。だから、自分はメジャーな作家になることはないだろうけど、少数の人が注目する重要な仕事をすることになるだろうと、昔から思っていました。

—西沢大良設計事務所出身である畝森泰行さんのインタビュー*に「西沢さんに怒られたことがすごく勉強になった」とあったのですがそのエピソードについて教えてもらえますか。

彼にとっては最初の現場で、しかも最初に姿を現わしたのがその地下階のコンクリート打放しの躯体でした。型枠を外したらかなり汚い施工だったから、よかれと思って綺麗に打放し模様に修復してもらうように業者に交渉したと言うわけです。僕は現場でそれを聞いて、その考え方を叱ったわけです。そういう美しい打ち放しを目指しているわけではない、この建築は坪50万円以下の見るからにローコストな建物なのに、地下駐輪場だけ高級マンションのエントランス空間にするみたいなことはしてはいけない、と。この躯体を局所的に白セメのモルタルで象眼する程度でいいんだ、と。美学を優先するのでは無く、事実に自分の美学を合わせろと言ったと思います。

コンクリート打ち放しにも、種類があるのです。所謂デザイナーズマンション風の無駄に美しい打ち放しもあるけれど、他方で打放しが本来持っている魅力、躯体なのか仕上げなのか分からないというような美しさがあるわけです。後者はお金がないっていう現場の事実もよく表すから、この場合は前者みたいなビューティフルさを目指してはならないわけです。もちろん手抜き工事はダメだけれども、無意味に綺麗にしたら作品としては最悪だぞ、と説明しました。

—一番リスペクトした人はいますか?

特に誰をということはないです。リスペクトっていうのは前例主義みたいなものだと思うんです。でも建築は、むしろ飛躍的な進化の連続だと思うんです。作家の作風が変化するといったレベルの話ではなくて、人類史的・文明史的なレベルでイノベイションが連続していくのです。リスペクト主義とか前例主義とかにとらわれていたら、いまだに人類は竪穴式住居に住んでいるみたいな話になってしまうよ。リスペクトする暇があるのなら、今の建築のどこにイノベーションが必要で、どこから飛躍的なアイデアが必要なのかを、考えた方がいいと思ってきました。

近世数学の最後の巨人にガウスという人がいます。彼は弟子のリーマンが発表した非ユークリッド幾何学を、実は既に一人で開発していて、日記につけていたんですが、死ぬまで公開しなかった。非ユークリッド幾何学、つまり近代数学の可能性を知っていたのに、近世数学のままでいてほしかったというメンタリティを持っていたんでしょう。でも巨人ガウスが何と言おうと、近世数学は近代数学にとって変わられた。クリエーションやイノベーションを考える時、僕はいつも数学の進化のことを思っています。人類の知の体系がねじまがるくらいのイノベーションを、数学者たちはやってきたから。

もちろん近代建築が登場した時もイノベーティブだったわけで、鉄とコンクリートで建物をつくることが革命的だった時期がありました。でも今はそれから150年くらい経っていて、むしろ鉄やコンクリートがたんなる前例主義になっている。今ゼネコンが作っているものはその手の近代建築ですが、いつか人類は、そうではない建物をつくり始めると思います。50年後なのか100年後なのかわかりませんが、そういう飛躍が必ず起こります。そうなった時、今自分がやってることが「いい気なもんだよな」と言われてしまうのか、あるいは「この屍があるから次が出たんだね」となるのか。僕は後者じゃないと、死ぬ時後悔すると思ってね。だから後者の可能性を考えているのです。

—西沢さんが建築を建てる時の敷地や土地の見方についてお話ししていただけますか。

 昔から敷地オタクなんです。僕は建築を始めた時から、建築と彫刻の違いという事にこだわりがあって、いわば彫刻的なものはやりたくないと思ってきたわけです。では建築と彫刻の違いは何か。普通は機能があるかないかをあげると思いますが、僕はそれは間違った証明だと思った。機能のある彫刻もたくさんあるから。それやこれやを考えていくと、最終的に行き着いた答えの一つが、敷地の種類の豊富さ・多様性は、彫刻にはないな、と。基本的に建物は地球上の至る所、至る地形に接地しているわけで、彫刻の立地の種類に比べて数桁豊富だと思ったわけです。仮にそうだとすると、この問題(敷地の種類の豊富さ)を設計手法の中に位置づけられない理論は建築理論ではなく、彫刻理論にすぎないということになります。いずれにしても、敷地の存在というのはよくよく重視しないといけないなと思ったんです。

建築って、必ず周囲と一緒に目撃されますよね。周りにあるありとあらゆる立体と一緒に目撃されることになる。まあベッドタウンとかであれば、向こう三軒両隣くらいと一緒に見られることになる。その場合、向こう三軒両隣を見えないものとして扱う、という態度が一方にあります。でもそれは、彫刻的眼差しだから良くないのです。他方、周りと一緒に見た方が面白くなる場合があって、その考え方の方が建築としてはレベルが高いのです。と、そんなことを考えていたら敷地オタクになっていました(笑)。

—向こう三軒両隣りという、関係性を考えれば考える程ジレンマになっていきませんか?

関係性に拘ると、コンテクスチャリズムになってしまうでしょうね。コンテクスチュアリズムっていうのは間違った思想なんですよ。先程の言い方で言うと、前例主義ですしね。あるいはリスペクト主義ですね。そんなことでは竪穴式住居のままになってしまう(笑)。周りにある建物が全部間違っている敷地環境というのは、日本ではザラにありますね。日本で周辺環境を問題にするのであれば、突然変異を肯定するような設計理論でないとダメなのです。コンテクスチュアリズムには突然変異の契機がないわけです。

僕が「向こう三軒両隣」と言うのは、むしろネアンデルタール人とホモサピエンスが並んでるみたいなことですよ(笑)。僕の設計した『昭島のハウス』という住宅があるのですが、建物の立体は周囲と似ても似つかないんですが、引き違いのサッシの色をブロンズにしていて、周囲と同色にしてるんですね。ブロンズサッシなんていうものは、篠原さんは使わなかったですし、篠原スクールも使いませんでした。みんなシルバーサッシでした。でも周辺と一体の作品にしようとしたらブロンズのほうが面白い。環境全体で見た時に僕も混ぜてくれって言ってるような状態になりますからね。しかも引き違い窓っていうのも大事なシグナルで、彫刻ではなくて住宅だということをひと言で示してくれますからね。敷地環境やビルディングタイプというのは毎回多様なので、その中の何を抜き出して何を捨てるか、ということが大事だと思うんですね。

 

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                                                        『昭島のハウス』 提供:西沢大良建築設計事務所

 

ちなみに、建築デザインというのは空間デザインなので、ボキャブラリーを目的にしない方がいいと思うんです。ボキャブラリーに注目しすぎると、隣がミッキーマウスだからこちらもミッキーにするみたいなことになる。本来は、ミッキーの姿形が見えないのにミッキーを思わせるようにした方が、建築デザインとしては良いものになると思います。形というのは侮れないんだけれど、なるべく形が見えないようにデザインした方が、空間デザインとして面白いものになると思います。

—敷地オタクとして、敷地を読み解いたことがどのように設計に繋がるのでしょうか。

お施主さんの要求や敷地の要求というのは、全然オーダリーではないわけで、矛盾に満ちた大量の要求が押し寄せてくるわけです。そういう矛盾は、ロジカルに考えていたら解けないです。ではどうやって解くかというと、矛盾をすべて身体に染み込ませるように、色々な案をつくり続けるのです。最初から全てを解決することはできなくても、案をつくればつくるだけ、矛盾どうしの色々な組み合せを味わうことになります。そうすると、次第に想定外の突破口が見えてきます。だから最初になるべく多くの矛盾を頭に入れる様にします。

—役に立つ、立たないは関係せず、すべて一度染み込ませるのですね。

ええ。最初に取捨選択しないということね。「立川のハウス」のときは、要求された延床面積が小さかったから、お施主さんの持ち物をすべて最初に採寸して、スケッチで3面図を起こしました。手でスケッチする理由は、その方が染み込み方が深くなって、忘れられなくなるからです。だから嫌なものほど手を使って、身体と頭に染み込ませておきます。

たくさんの矛盾を1カ所で突破するには、人間の脳に勝るものはありません。自分の脳から想定外のアイデアを引き出すには、手や身体を使うのがベストだと思います。論理的に解こうとしたらダメです。論理というのは言葉だから、こと矛盾に関しては歯がたたないのです。

僕は矛盾があった時の方が燃えますよ。それは凄い解答が待ち構えているということだから。すんなり解けないものこそ好物です。簡単に無矛盾に解けるものはやる気が起きない。ものすごい矛盾を持ってきて欲しいわけです(笑)。

 

プリント『立川のハウス』設計の際の綿密な敷地サーベイ

—教育することについて、どうお考えなのでしょうか?

言い方は良くないけれど、教育するってことは、ひと言で言えば馬鹿を治すってことですね(笑)。中学くらいの知能の人に建築のどこがすごいのかをズバっと言うのが、理論の力でしょう。知性というものの本当の威力は、利口な人を相手にするときではなくて、馬鹿を相手にするときにはっきりするのです。そういう場面になると頭の調子が良くなるから、僕はわりと教えることが好きですよ。ああ、今日はうまい比喩を言ったなあ、良い認識を言ったなあと、しばらく幸せでいられます(笑)。

去年かな、北山恒さんが皆さんくらいの年の頃の立衛くんの話をしていて、学部3年生なのにレム・コールハースのことを知っていて驚いたと言っていたんですが、横浜国立大学に限らず当時の工学部の建築学科というのは、そんなことで驚くような教育環境だったんですね。情報の貧しさっていう致命的な問題があったわけで、当然知っているべき事例を知らずに建築を教えていたのです。たまたま僕の通っていた東工大には、清家さんが置いていったすごい蔵書があったり、篠原さんが現役の建築家を非常勤講師で呼んできていたり、篠原さんに会いにジャン・ヌーヴェルとかベルナール・チュミとかピーター・クックとかも来たから、自然と色々な情報を接する環境が出来上がっていました。それで立衛君の大学を見て、これはまずいと思って、最初に買い与えたのが雑誌AAのOMA特集でした。情報に接してさえいれば開花できるのにそれをさせない教育機関をつくってしまうのは、マズいと思うんですね。厳しく言えば憲法違反みたいなものだから。教育の平等生とか知る権利とかが保証されていない。今もそういう教育機関はどこかにありそうですが、不当なことだと思います。

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                                                          西沢さんが立衛さんに最初に買い与えたOMA特集

—最近はツイッターを始められましたよね。

ちょっと考えがあってね。実は今年から、芝浦工科大学で1年生の担任をすることになって、学年124名もいるんですが、彼らの知的活動の管理人が僕ということなんですね。彼らは周囲に膨大な情報がある中で育ってきて、情報の選別能力を磨く間もなく大学に入ってきます。僕の学生時代は、情報ツールが限られていたから、自分で判断できない情報については信頼できる人間に会って善し悪しを判断していました。逆に今ではLINEだネットだのあらゆる情報ツールがあるために、直接会って意見を確かめるという最も基本的なことをしなくなっている。だから、どうやって自分の勘違いを修正したら良いか分からないまま、大学生になってしまう。そういう情報環境を一方で与えておきながら、他方で彼らに頑張れとか、知性を磨けというのは、ちょっと酷だと思うのね。彼らには情報の羅針盤が欠けているわけで、情報のクリティック能力が足りないのです。それでツイッターを始めたのです。だから基本的には学生向けで、彼らが日常的に見聞きする知的事柄について「どう考えたらいいんだろう?」と思った時、検索できる教育ツールにしようと思ってる。当初は芝浦1年生だけでブロックしようとしたんですが、他の人からも公開してと言われて、今の状況になっています。

—どういう情報を読んだらどういう事が分かるか教えるということは教育上、重要な事ですよね。

バックナンバーの読み方までツイートしましたよ(笑)。前の号とか後ろの号とかもちゃんと見て、当時の読者の情報環境を知った上で、その作品を見てくださいという事です。生まれて初めてバックナンバーを見るなんて、どれを見たら良いか分からないですよね。そもそも本を開くだけでヘトヘトでしょうからね。

—最後に学生に一言メッセージをお願いします。

人生に悩んだら、私のツイッターを見てください。

—長い時間インタビューさせていただき、ありがとうございました。

インタビュー構成:寺田英史(M2)、柳田里穂子(M2)、江島史華(M1)、山田裕実(M1)、草山美沙希(B4)

写真:江島史華(M1)、一部西沢大良建築設計事務所より提供


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