interview#035 千鳥義典


千鳥 義典(ちどり・よしのり)1955年東京都生まれ/1980年横浜国大大学院工学研究科修了/1980年日本設計事務所(現日本設計)入社/2012年取締役兼専務執行役員兼国際代表。主な作品に「渋谷マークシティ」「山口県きらら元気ドーム」「長崎県美術館」「国立新美術館」「中国・天津泰達MSD複合開発」「中国・無錫総合交通ターミナル」など。

 
—まず、建築学科を選ばれた動機を教えてください

 高校二年生まではどちらかというと理数系が得意だったので高校三年生の時に理数系のコースを選んだのですが、三年生になってみると実は歴史とか文学の方が興味があるということを覚って、大学では理系の中でも歴史や文化に関わることができる分野に進みたいなと思い始めました。建築は比較的そういうことも満足させてくれるのではないかと思って選んだのですが、当時は建築の設計をどうやるのかということさえ全然わかっていなかったわけですから、実のところは「建築に興味がある」という感じでもなかったんでしょうね。でも、中学3年生の時に大阪万博があって、友達と一緒に見に行きました。当時の万博はすごく迫力があって、いろいろな有名な建築家が活躍されていました。いま思い返してみると万博を見て触発されたというのは、多分あったのではないかと思いますね。

—当時の横浜国立大学はどんな様子でしたか?

 私が入学したのは、学生運動の一番激しい時期が過ぎたころ、少し下火になってきたころです。今の学生には思いも及ばないでしょうけど、高校受験の時にロックアウトがあったり、警官隊が門前に立っていたりした時代です。私は横浜国立大学の当時の3箇所のキャンパス全てを経験していて、1年生の前半が清水ヶ丘キャンパス、後半が現在の常盤台キャンパス、そして2年生からの工学部は弘明寺キャンパス、当時まだ工学部は弘明寺にありました。そして大学院は再び常盤台キャンパスと全て経験しています。当時は常盤台キャンパスの一番高いところに立つと、あたりを見渡しても校舎しか建っていませんでした。20数年ぶりに訪れたら、全く違う空間になっていて本当に驚きました。建物は昔とほとんど変わらないんだけど樹が生い茂ったことで、全く違う空間に来たという感じで、自然の偉大さというものを改めて感じましたね。

—設計課題にはどう取り組んでいましたか?また、建築の勉強はどのようにされていましたか?

 設計課題には、初めのうちは一生懸命取り組んでいましたね(笑)。だんだん色々な迷いが出てきて、それからは何をやっても空回りということもありましたが、それでも設計だけは一生懸命でした。三沢浩先生にフランクロイドライトの空間について徹底的に教え込まれました。ライトを入り口に、だんだんほかの建築家にも興味を持ち始めて、コルビュジェ、アアルト、カーンといったいわゆる巨匠の作品について作品集を見ては課題の参考にしていました。やっぱり巨匠は上手いですよね(笑)。当然学生なんか太刀打ち出来るわけがないので、ただ形だけ真似たようなものもありました。あとは、実物の建築作品もいろいろ見ました。当時はお金が無かったから海外は行けなかったんですが、国内だと村野さんの「世界平和記念聖堂」は空間や材料の使い方に感銘を受けましたね。今みたいにインターネットなんてない時代ですから、やっぱり雑誌や本は出るたびに買って勉強していましたね。実家に帰ると古い『新建築』や『都市住宅』、『SD』、そういう昔のものがたくさんあると思います。

学生時代、卒業設計時の千鳥さん

—就職される際は、日本設計以外の他の選択肢も考えていらっしゃったのでしょうか?

 当時はオイルショックの後で、大学に入学するのは難しく卒業するときは就職が無い、という時代でした。卒業設計が終わってから、それを持って廻って、運良く「今スタッフがやめたところだから」というところに遭遇すると雇ってもらえるとか、そんな友人もいました。そういう時代だったんです。僕は大学院への進学が決まっていたので学部での就職活動はしませんでした。大学院の2年を過ごしている間に、企業の方もようやく新卒採用を再開し始め、日本設計も同様で、私の大学院の修了する年に正式に入社試験が再開されました。たまたまその話が研究室にきてと言うわけです。ですから他に選択の余地はなかったんです。当時は、比較的アトリエっぽい建築事務所でのアルバイトばかりやっていたので、実は日本設計という名前を知りませんでした。「どこにある事務所だ?」と同級生に聞いたら、天気のいい日に建築学科棟の8階の研究室から新宿の超高層を指して「あそこだ」って。そんなところに設計事務所あるの?と思いました。日本設計を知らないで入ったと言ったら、今の会長には大変驚かれましたけど(笑)

 

—入社してから関わった、転機になったプロジェクトについて教えてください。

 最初でそして最後の経験でもありましたが、「松山市総合コミュニティセンター」というプロジェクトで現場に常駐しました。ちょうど30歳を挟んで前後の2年半です。今でもそこでの経験がその後の私の全て建築人生の糧になったのかな、という気がしています。3階建てのコミュニティーセンターで、ホール、図書館、会議場、プラネタリウム付きのこども館、展示場等々があって、様々な用途が複合した非常に規模の大きいコミュニティーセンターでした。それが一斉に建ち上がっていくんです。高い建物だと下から順番に図面も上がってくるんですけど、3階建てですから施工図もいっぺんにあがってくるんですよね。その図面のチェックを繰り返す毎日でした。この現場でひとつの仕事に没頭するという経験をしました。建築のデザイン的な部分は一人で全部やっていたので、本当に勉強になりましたね。会社にいると、こっちの仕事も、あっちの仕事も、と平行でいくつか進むということがあるのですが、現場に行くとそのひとつだけをできるんです。ですから、現場のどこで何をしたかというのを今でも覚えているんですね。20年後に建物診断調査に行って、当時の施工者の主任クラスの人と調査してても、あのときこういう風に考えて、こういう風にしましたねって言う話を、全部みんな覚えているんですよ。

松山市総合コミュニティセンター
photo : 村井修

 もう一つは、49歳のときに初めて海外の仕事を担当したんです。中国の仏山市というところで「仏山新聞中心」というニュースセンターのコンペがあったのです。会社から仕事先に電話があって「来週から夏休みなんだけど、悪いが中国に行ってくれないか」と当然言われて。そのときに初めて中国に行って、カルチャーショックを受けました。ひとつは、一緒にコンペをやっていた中国のローカルな事務所のスタッフが、彼は35歳前後くらいだったと思うんですけど、めちゃくちゃ優秀だったんです。中国にもこんなに優秀なやつがいるのかって。当時私は文化大革命当時の中国、それもニュースでしか知らなかったからそれは驚きでした。もうひとつは、物のスピードの速さ。すごく速くて、我々の二倍三倍くらいのスピードで仕事が進んでいく。それに中国の技術者が対応しているところをみて、こういう世界があるんだって感じましたね。中国で仕事をする時の心構えで私が考えた「3つのお」というのがあるんです。何があっても「驚かない、怒らない、怒らせない」。日本人とスピード感が全然違うので、彼らは大声でまくしたてるわけですね。そこでまず、悠然として驚いたそぶりを見せてはいけない、無茶を言われてもけっして怒ってはいけない。そして、相手を怒らせないと仕事がうまく運ぶんです、もっともこれが一番難しいことなのですが。そのようなことが中国で仕事をする秘訣だと言ったのが、いつのまにか社内に広まってしまいました。でも、これは日本でも当てはまるものですよね。

「新聞中心」をやっているうちに続けてもう一つコンペが獲れて、しばらく日本と中国の仕事を両方担当していました。そのうちに日本設計に国際部門を作ろうという話になり、51歳のときに責任者をやることになって、昨年まで国際部門の責任者を務めていました。当時、中国ではフランスやドイツ、アメリカなどの欧米の事務所が結構活躍していたんですが日本の事務所はあまり活躍していなくて、なんで日本はいないんだ、という忸怩たる思いもありましたし、たまたま日本の仕事の区切りがついたこともあり、ちょうどいいタイミングでした。海外の仕事が経験できて、世の中の見方や仕事の仕方にもいろいろな刺激を受けて、本当に良かったと思っています。

仏山新聞中心
photo : 深市匠力撮影設計有限公司 陳勇

—設計をしている立場から、会社を経営する立場になられて、設計に対する考え方の変化はありますか?

 あまり変わらないですけど、頭脳の使う部分が少し違いますよね。右脳と左脳とか。設計を見ていると当然楽しいので、口を出したくなります。けれど今の立場で何か言うと、直接的にいろんな作業を発生させることになる。社長が言ったからこうしなくちゃいけない、といった風に。そう思うと、あまり言えないこともありますが。でも、ほどほどに言っています。これまで積み上げた物が壊れてしまうということもあり得るから、必要なことだけに留めています。マインドはやっぱり設計者・建築家なんでしょうね。

—組織設計で可能なこと、個人の事務所で可能なことの共通項や違いはありますか?

 個人事務所で「先生」と呼ばれるような人が、「こうだ」と言う体質の下では、ある程度の規模や複雑なプログラムの建物になるとなかなか難しいと思います。1人の天才ではなく、3人の知能が集まってみんなで知恵を出し合えば天才をも凌ぐことができる、という考えで、霞ヶ関ビルを設計していたチームが中心となって山下寿郎事務所から分離独立し、1967年に日本設計が創立されました。したがって、そういう理念が日本設計にはある。チームはいろんな意見を持った人の集まりだから、一つに意見がまとまるには時間がかかるけれど、それでも一人の人間が考えるよりは多くのことを考えることができて、実現できるのではないかという当時の考えがありました。いろいろな分野の人が身近にいるので、何か分からなければすぐに聞けたり、打ち合わせできるというメリットがあります。そのようにいろいろな知見や情報を持った人が近くにいるという事を意識して、それを活かしていかなければいけない。その意味では、組織事務所でなければできないような仕事に取り組むことは、我々の使命のひとつであると考えています。それは、規模の問題だけではありません。なにか新しいこと、新しいものへの挑戦といったこともそうです。日本設計では日本初、と呼ばれるものをたくさんやってきました。

 さらに、私たちの仕事は10年20年と長く続く仕事です。長い時間が経つと、当時のことを知っている人はほとんどいなくなっていたりしますが、社内でバトンタッチをしながら、思想を受け継ぎながらやっていくことが、組織設計だとできるということです。また、私の経歴は公共建築などの比較的単体の建築を扱うことが多かったのですが、仕事の幅が広いということも大きな事務所の特徴だと思います。一方で、アトリエ事務所は、深く物事を追求していくことが、大きな事務所よりも可能性が高いと思います。一つのことを繰り返し繰り返し提案し、考えやデザインを研ぎすましていくことができるでしょう。しかし、基本的にはどちらもものづくりをするという点では全く変わらないと思います。

—チームでやっていくものづくりでの工夫はありますか?

 人の意見に耳を傾けるということはもちろんですが、自分の意見をはっきりと主張することが大切です。そして議論はいつまでも戦わせるのではなく、最終的にはチーフがまとめたことに従うこと、その基本的なルールはわかっておいてほしいと思います。日本設計が昔とちょっと違ってきたのは、私が入ったころは人数が350人くらいだったのが、今は850人を超えて人数が二倍以上になっています。300人位だと皆の顔と名前って全部一致するんですよね。ところが500を超えていくと段々分からなくなってきたりして。最近コミュニケーションが不足しているような気がするんです。そこで、昨今では社内でコミュニケーションの機会を設けるということをやっています。今年の四月から毎月一回、星座の会というのを開いています。誕生日一月分の人たち、若い人からベテランまで参加できるわけですよね。集まってただ単に雑談するだけという催しなのですが。昔は仕事が終わったらお酒の好きな人は自分のテーブルで呑んで、意見を戦わせるということがあったのですが、最近では会社の中でお酒を呑むのもまずいという空気になってきて、なかなかそんな機会がつくれないということで、毎月開催しています。

水瓶座の会の様子

—千鳥さんの今までの設計人生を振り返って様々なプログラムに関わられていますが経緯などお聞かせいただけますか。

 日本設計では今までに30件ぐらい設計してきて、日本設計の中では一番多く設計をしているほうだと思いますが、どの仕事にも思い出がありますね。たまたま自分は公共建築に携わることが多かったんですが、入社当初の20代の頃の日本設計には公共建築の実績があまり無かったのです。プロポーザルで図書館の仕事を取ることができたんですが、設計資料もほとんど無く、いくつもの図書館に調査に行って書架やその間隔を地道に実測して廻ったことを思い出します。図書館のあとに、新潟県立美術館のコンペが取れたのですが、ここでもまたいくつもの美術館に行ってリサーチをする、という感じで、実績を積んでいくことで、関わるプログラムが段々多様になってきました。美術館では、最後に黒川紀章先生と国立新美術館を一緒にやらせていただいて幸運だったなと思っています。先生の近年の作品の中ではあれが一番良いと思っています(笑)

国立新美術館

photo : エスエス東京

 パビリオンに関しても、20代のときに筑波で国際科学技術博覧会があって、そこで富士通のパビリオンを設計をしました。大阪万博を見ていたのでこれはいろんな建築的な挑戦ができるなと思っていたら、科学博ですから主題が建築から科学の方へ移っているわけですよ。中の科学的な展示がメインで建物はとにかく安価に、という時代になっていたんですね。でも、その科学博の実績が糧になって愛知博の日本政府館で竹籠のパビリオン、さらに上海万博での日本館と、それぞれの時代のパビリオンと関わることができました。

左から 科学博 富士通パビリオン、愛知博 日本政府館、上海万博日本館
      photo : 川澄建築写真事務所

 あとは渋谷マークシティ。超高層ビルの直下に京王井の頭線の渋谷駅と銀座線の車両基地が入っています。鉄道施設の上に建物を造ったハシリですね。これもまた面白くて、建物としては一体なんですが、4階までは土木で4階から上は建築という考え方で設計を進めたんですが、ここで土木と建築との違いをいくつも経験しました。建築だと建物の位置を敷地境界線から何m、と表しますよね。でもそれを何回施主に出しても突き返されるんですよ。なんでかなあと思ったら、土木はポイントを全ての緯度経度で表すんですね。さらに図面は南北も逆になっていて北が下になっているんです。鉄道は起点を左に描くということで、京王井の頭線は渋谷を起点として西へと向かうので、平面図は南北逆さまになってしまうんです。それから地下の掘削のときの山留めの構造計算は建物は人命に直接関わるからなのか、建築のほうが厳しくて土木のほうが緩い。土木と建築で、いろんなところでなかなか調整がつかないんですよ。役所でも、土木は道路課などがやっていて、建物は建築指導課が見ているとか。なんとなく簡単に見えるようなものが、いろいろな制度の制約や管轄の違い等があって、非常に難しいんですね。諦めてしまえば、役所のこういう法律があるから駄目です、ということで終わってしまいますが、その壁をどうやって打ち破るか、がこれから必要になってくると思いますね。今までは建築は建築、土木は土木と棲み分けていたのが、その垣根が段々無くなってきていて、建築と土木を一緒に考えることによってより良い空間や環境ができるということであれば、テリトリーにこだわっている必要はまったく無いと思いますね。

渋谷マークシティ

photo : 東京エスエス

—現在スクラップアンドビルドのフローの時代からストック活用の時代とも言われますがその先のお話もお聞かせいただけますか。またグローバル化の中で固有性というものに対してどのようにお考えですか。

 日本で言うと、スクラップアンドビルドは今後も進むし、必要だとも思っています。特に東京を見ると、まだまだそういう形で整備をしていかなくてはいけない地域が多いと思います。ただ経済の動きと共に当然建設投資には波があって、ビルの上から見ててもクレーンがある時期と全くない時期があったり。クレーンが全くないときなんかは私たちの仕事はもうないんじゃないのかなって。しかしいつのまにか経済が活発に流れていってたり。そういった動きを見ていると東京はスクラップアンドビルドの動きはまだまだあるんじゃないかなと思います。一方で、少子化や人口減少は日本社会にとって大きなインパクトがあります。ストックを活用とするという時代の流れは当然だと思います。建築家としてはストックを活用しようが新しいビルを建てようが自らの役割は同じと考えて、その中で自分の創造力をどう発揮できることかということが重要じゃないかなと思います。

グローバル化という意味でいうと、情報と経済の問題、この2つの側面でますます国境は薄くなりつつあることを実感します。いまでは情報は一瞬にして行き渡るし、また今までにないスピードで物流が動くようになっているので、当然国境という垣根は下がってきています。私が会社に入った当時は、手紙のやり取りで仕事をしていたものです。施主である松山市へ手書きの図面筒に入れて航空便で送る。向こうでそれを見て電話がかかってくる、電話代が高いからあとは手紙で要求や修正事項が送られてきて、それを読んで図面を直すといったように。書類やレポートは活字で印刷する時代から、そのあとワープロが出てきて、それからパソコン、今ではスマホが出てきて、いまやITの時代です。TV会議で海外とも会議ができる。30年で仕事の仕方がどんどん変わって、前よりどんどんスピードが速くなっています。

経済の面で言えば、例えば日本のどこかの村にいい景観があって、そこに新たに建物を作ろうとするけれど、その村で使われている瓦は以前は近くで作っていたものだったのに、今では外国から輸入した瓦でつくらないといけない、となると風景も変わってくる。建築の固有性といったときに、このような経済との関連から、建築の固有性というものがだんだんと失われ、同質化が進んでいくと思うのですが、一方で同質化が進めば進むほど非同質化ということが逆に叫ばれて、そのせめぎ合いが起こるんじゃないかなと思います。しかし、大きな流れは同質化の方向に向かっていくことは避けられないだろうと思います。

—先ほどのマークシティのように都市規模のプロジェクトを手がけられていますが、都市に対する視座をお聞かせください。

プロジェクトの規模が大きくなればなるほど、複雑になればなるほど、関係する人、ステークホルダーが多くなります。その調整というのが設計事務所にコンサルタントとして求められるのですが、これにはすごく膨大なエネルギーが必要です。それができるということは、それなりの規模の事務所であり、経済的な裏付けがある事務所でないとなかなか難しいということがあります。そういったところで日本設計は仕事をしていて、複雑なステークホルダーの調整をしながら、大規模で複雑で長期間かかる仕事を進めてきています。そしてその時、その根底にあるものは人間、ヒトであると私たちは考えています。都市の中で営まれている人の生活だったり、活動だったり、建築をつくるにしても都市をつくるにしても常にこのことは視点として持っていなければならないと思いますね。

—最後に、学生へ、また若い社員へメッセージをよろしくお願いします。

若いということは財産です。段々若くなくなっていきますからね。僕が羨ましいのは、当時学生の頃は意気地が無くお金も無かったのもあって、海外には行ったことは無かったんですけれど、いまはそういう環境や制度も整備されてきていることもあって、今の学生はどんどん色々なところに出て行ける機会がある、留学している人も沢山増えていますよね。そういう経験をできることが若いということだと思うので、いろいろなことに挑戦してそれを財産として大切にしてほしいですね。そして、なるべく幅広い視野でモノをみる、そして相反するようですが、同時に集中する、ということも大事だと思います。逆にひとつのことに没頭しすぎて周りが見えなくなってしまう人もいるんですが、是非両方バランスよくやってほしいですね。

—ありがとうございました。

インタビュー構成:寺田英史(M2)、浅井太一(M2)、柳田里穂子(M2) 、江島史華(M1)、曲萌夏(M1)、草山美沙希(B4)、板谷優志(B4)

インタビュー写真:板谷優志(B4)


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