interview#044 大村紋子


 

大村紋子 Ayako Omura

株式会社納屋代表取締役、プロジェクトマネージャー/1969年生まれ/1994年横浜国立大学大学院工学研究科修了 MSc、1999年英国ヨーク大学大学院戦災復興開発学コース修了 MA/専門:プロジェクトマネジメント、サステナビリティ/郵政省技官・研究官(1994~2002年)、JICA(国際協力機構)ジュニア専門員・アフガニスタン村落開発省専門家(2002~2005年)、レンドリース・ジャパン株式会社(2005年~)/一般社団法人グリーンビルディングジャパン理事

 

本インタビューは大村紋子さんが主宰する株式会社納屋の事務所2階で行われました。事務所は鎌倉駅から徒歩5分の場所にあります。到着後、鎌倉を案内して頂き、散策してからインタビューを開始しました。その模様はこちらから御覧ください。大村さんは経歴にあるように、様々なお仕事に関わられてきました。それぞれのお仕事をどう捉えて、どのようなきっかけとめぐり合って、どんな決断をしてきたのかを中心にインタビューしました。

 

注1)       プロジェクトマネジメントとは

建築の企画、設計から施工、運用段階にいたるまでのデザイン・コスト・スケジュールについてのマネジメントを行う。F施主の要望をくみとりつつ建築の専門家として助言を行い、適切なチームを編成し、状況を整理したり、関係者間の調整・連携を行って満足度と価値を高める仕事。

注2)       株式会社納屋とは

主に企業向けのサービスであるプロジェクトマネジメント業務を「建物に関わることよろず相談」までブレイクダウンし、人とまちを、社会と建築をつなぐ良き触媒となることを目的に設立した一級建築士事務所。

 

まず、横浜国立大学の建築学科に進まれたきっかけを教えて下さい。

はじめは「設計技師」にあこがれていました。小学校3年生の時に、好きな飛行機の図鑑があり、「飛行機ができるまで」というページでドラフターに向かって図面を描いている人の絵姿を見て、かっこいい!この人みたいになりたい!と思いました。それを誰かが”建築家”という言葉に置き換えてくれて、建築家という職業を知りました。横浜国大は入試科目に物理化学の代わりにデッサンなどの実技を選べたので、これは実技でとろう、と思って受験しました(笑)

 

学部では都市計画研究室、院では意匠設計研究室に進まれています。

設計は大好きでした。イマジネーションを伸ばしてくれる国大の課題も私には合っていました。ただ、あまり考えず仕上げた課題の評価がよくて、真面目に取り組むとつまらないと言われ…その基準がわかりませんでした。図面らしくない絵みたいな設計が面白いと1階のEVホールの前に飾られても、どこか気持ち悪さを感じていました。修士は意匠系の8講座を受験するとして、卒業設計はサーベイや手法を別の研究室で学びたいと考えました。都市計画系の6講座だった1学年上の中川建さんの卒業設計の発表がおもしろかったので、6講座に入りました。当時の6講座は間口が広く、卒業設計だけでなく、修士に進んでからも先生や先輩方にしょっちゅうアドバイスをもらいました。

 

インタビューは大村さんが代表を務める株式会社納屋の事務所二階で行われた。

 

卒業後は進路としては一般的な設計事務所やゼネコンではなく、郵政省に勤められた動機はどのようなものだったのでしょうか。

私の同級生はアトリエ系の設計事務所へ行く人が多かったのです。みんなアトリエに行ったら、みんなボーカルみたいな感じじゃないですか(笑)。学生時代から都市と建築のつなぎあわせのようなところをやりたい気持ちがあり、一方で実際に図面を引くとか現場監理といった実務経験に漠然とあこがれていました。郵政省では自分で図面を引けるのは基本設計までで、現場常駐もないことはわかっていましたが、でも、郵政省でできない経験は自分のがんばりでフォローすればいいと考えました。

M1のとき、北山恒さんが横浜市の都市デザイン室の北沢猛さんとの飲み会に学生たちを連れていってくれたことがあって、その時に公共建築に関わりたいと言ったことを覚えています。公共建築なら都市と建築の間のあたりに関われそうだと思ったのですね。すると北沢さんが「発注者の側にいることは良いことですよ」と言われました。例えばバリアフリーにしようとか、手すりが必要だとなった時に、「大事だと思ったことを発注者の側から言えるから」と。その言葉が印象に残っていました。当時はあまり分かっていませんでしたが、その後入った郵政省建築部はインハウスエンジニア組織でもあり、設計事務所とは大きく違った最初の一歩だったなと、今になって思います。

 

横国卒業後は郵政省で働かれて、その間に英国ヨーク大学の戦災復興開発学科に留学されています。「郵便局の設計」から「戦災復興学科への留学」はどのようなきっかけがあったのでしょうか。

働き始めて1年目、1995年に阪神淡路大震災が起きました。そのときまで建築は「つくる」のが普通で、「壊れる」というのはバブルで壊されていく建物ぐらいしか考えたことがありませんでした。みなさんは阪神淡路大震災・中越地震・東日本大震災と小さいころから建物が壊れていく姿をたくさん見てきた世代だと思いますが、私達の世代は1970-80年代にあまり大きな災害を経験していないんです。25歳になってようやく「都市ってつくるだけじゃなくて、壊れたら直さなきゃいけないものなんだ」と気づきました。

これがきっかけでヨーク大学に留学しました。戦災復興開発学科は、オランダ、カナダといった支援国、ボスニア、アフガニスタンなどの被災国出身者が両方いる小さな新しい学科でした。修学旅行のようにしてアフガニスタンに行ったのですが、実際に戦争で壊れた街を見て、阪神大震災で壊れた街との違いを知りました。帰国してから留学の経験を活かしたいと、郵政研究所で調査研究をしました。郵便局が地震や災害時の生活インフラの窓口になるのではと考えて、地震や豪雨災害、火山噴火に直面した郵便局の局員、近隣住民の方、行政関係者にヒアリングを行い、郵便局の可能性を広げる方向性を探りました。

 

その後郵政省を離れ、JICA(国際協力機構)で三年間復興支援活動を開始されました。

留学からの帰国後、JICAや日本赤十字社の人と知り合う機会があり、コソボ紛争やトルコ地震後の支援のため、建築職の人材を探していることを知りました。私でも役に立てるのかもしれない、と、今から考えると妄想のような動機で、国際協力の世界で働くことを考えました。郵政省は休職を希望しましたが難しく、辞めることにしました。その数か月後に9.11が起こりました。

 

アフガニスタンでの衛生教育ワークショップの様子

 

アフガニスタンで活動している大村さん

 

2002年、ジュニア専門員という3年間の契約社員のような形でJICAに勤めました。募集にはなかった「復興支援」というカテゴリーを自分で作って応募したのですが、当時アフガニスタンは、9.11後に一気に復興のための支援が入り始めた時期で、アフガン赴任希望者を受け入れてもらいました。アフガニスタンでは建築とはまったく関係ない「組織づくり、仕組みづくりを支援する仕事」を担当し、田舎の井戸水、小さな橋、道路等を整備する村落開発省という小さな省庁に毎日通っていました。職員の人たちと一緒に村落調査の練習をしたり、女性のチームをつくって衛生教育のプログラムを広めるとか…ひとつずつ手探りでやっていきました。本当はアフガニスタンにもっと長くいるつもりだったのですが、2年目の途中で帰国しました。

 

お話を伺っていると、震災や災害が決断のきっかけになっているように感じます。東日本大震災時も、震災前後で私たち自身も考え方に大きな変化があったような気がして、震災・戦災はターニングポイントになることを感じています。

1995年に阪神淡路大震災が起きたとき、郵政省の先輩たちが一斉に神戸に駆けつけて、郵便局や宿舎を全部まわってチェックして、「これはOK」「これは補強」といった調査や手当てをしている姿を就職したての一年生だった私は指をくわえて眺めていました。その時見た現場力みたいなものは、ぜひ身につけたいと思いましたね。

 

—JICAの任期終了後、レンドリース・ジャパンに入社され、現在も引き続いてメインのお仕事とされているプロジェクトマネジメントを始められたんですね。

JICAでは、プロジェクトで成果を出すためには「専門家」だけでなくチームのなかに「調整役」が入るプロジェクトマネジメントの進め方が重要、といわれていました。それが建築の世界でも広がり始めていることを知ったのは、アフガニスタンからの帰国後、JICAでの残り1年の任期で配属された学校やインフラ施設の発注支援を行う部署でした。当時、日本政府の支援で建てる学校は高額で時間もかかると批判を受けて、発注方式の議論がありました。任期が終わる2ヶ月前、引き継ぎの関係で空いた時間を使って、発注方式について調べてJICAに卒業研究として提出しようと、公共団体やゼネコンへヒアリング調査を行いました。そこでCM(コンストラクションマネジメント)方式、PM(プロジェクトマネジメント)方式の仕組みの概要を学びました。

民間会社の建築職につくことを考えたのは、スマトラ沖地震で被災したモルディブに赴任したときです。任期は終了していたのですが、JICAとの契約で、3ヶ月間、津波復興プロジェクト支援と調査を行いました。モルディブはアフガニスタンとは大違いの、リゾート地でもあり、発展途上国を卒業する間際の国です。そういう国でこれから求められるのは政府間協力ではなく民間企業の力だと感じました。でも私はそれまで民間企業で働いたことがありませんでした。そんな時、出張の飛行機でたまたま隣の席の人がリゾートホテル開発の建築の人で、話して、ああ、こういう仕事もあるのだな、そろそろ建築の仕事に戻ろうかな、と。

そういうことで、JICAの「卒業研究」をしている時に知ったボヴィス・レンドリース・ジャパンというPM専門の会社に入社しました。PMの会社は、設計事務所や施工会社のバックグラウンドをもつ建築の人や設備、ITの専門性を持つ人、さまざまな人がプロ集団として仕事をしています。お客さんに説明できるように、わからないことや勘所を様々なエキスパートに教えてもらいながら仕事をしていくと、建築の奥の深さにびっくりして…数年したらアフガニスタンに戻るつもりだったのですが…郵政省では発注者側の設計だけ、本当にごく一部の世界しか知らなかったんだなと感じました。直面する問題をチームで補いながら乗り越えていって、そこに+αを見出せるような場面を作るのがプロジェクトマネージャーという仕事だと実感しました。

 

—PMのような手法は元々興味があったのでしょうか

郵政省の頃もPMのような関わり方をしたことがありました。ヨークからの帰国直後に、環境配慮型モデル郵便局の設計を担当しました。今と違って情報も少ないですしCASBEEといった基準もなく、ほうぼう見学して、知識をかき集めて設計しました。設計しながら郵政省本省に予算配分を説明したり、メーカーの人と圧縮木材の実験をしたり、「デザインする仕事」と「プロジェクト全体を調整する仕事」の2役をこなすのが大変で、自分がもう一人ほしいと思いました。

そのあと、横浜中央郵便局の窓口を改修する話が来ました。これはひとりで設計もプロジェクトの調整もやったらパンクするなあと思ったので、設計は信頼できる別の人に頼みました。自分はPMのような役割に特化したところ、すごくうまくいったという達成感がありました。

 

横浜市中央郵便局窓口改修(2000年)竣工時 画面奥にかけての敷地境界線上に複数段差があり、現状復帰可能な木製デッキをかけることで段差を解消した。

 

横浜中央郵便局の前庭はバリアフリーなデッキになっていますが、その下に側溝と段差があります。横浜市と郵便局とJR東日本の敷地にまたがっているためで、関係者と協議して後から外せるデッキを越境させて造りました。都市と建築の隙間のあたりをやるっていう仕事がようやくできたという気持ちでした。

 

現在は、レンドリースの会社のお仕事もしながら、独立されて納屋という事務所を立ち上げられています。

大きい会社で仕事をするメリットとか小さい会社、個人でのメリットって両方あると思うのですが、どっちもあり、どっちかしか所属しちゃいけないっていうことはないと感じていますが、どうでしょうか? 学生の時には、大きい会社とアトリエ事務所、あるいは役所と民間は対立関係にあるものだと思い込んでいました。私の頃はアトリエ事務所から郵政省への転職はできないものだと思っていましたが、先日、アトリエ事務所出身で今は横浜市の都市デザイン室に勤める桂有生さんという方にお目にかかりました。今の時代、そういう行き来もあっていいのだな、と思います。

建築って「無理に急がなくても良い分野」だな、と私の年になったら思えるんです。金融やITの世界はスピードがとても速く、世の中全体も急がなくてはいけないように感じてしまいます。建築の分野でも、大学を卒業してすぐ設計事務所を開く人も多いので焦るかもしれません。私には、研究所時代を含めて5年、建築の仕事のブランクがあります。郵政省を辞めるとき、私は建築の世界を離れるつもりでした。決めたはいいけど、とても不安でした。でも、郵政省での近隣説明の苦労がアフガニスタンで役に立ったり、PMの仕事をしながら「この人はさしずめムジャヒディン(地方の豪族)だな」と思うと相手を理解しやすかったり(笑)…どの仕事もなにかしら繋がります。そして、悩んでいるときは導いてくれる人、支えてくれる人、背中を押してくれる人がいました。それでも20、30代の頃は、なかなか手ごたえが持てませんでした。建築はそもそも時間のかかる分野です。コンクリートひとつとっても固まるまで4週間かかります。1物件の設計から完成までを経ることで、やっと失敗したり、悔しい思いができて、それが骨身にしみます。非常に地道で泥臭い分野だと思います。

 

いままでお伺いしてきた活動を経て、なぜ納屋という形での活動がスタートしたのでしょうか。

大規模なプロジェクトでなくても、建物をちょっと直したい時、建築に関わることだけど誰に頼んだらいいかもわからない時ってありますよね。あるいはお施主さんと設計者と、もうひとりいたら関係がやわらぐのにな、と感じるときとか。そこを繋げていきたいと考えたんです。もうひとつ、「こうやって改修すれば建物を壊さずうまく住めますよ」というモデルケースを自腹でやってみて、そこを会社にすれば相談しやすくなるかな、というアイディアと合わさって、建物探しをはじめ、株式会社納屋になりました。PMはまだ一般的な職能として認知されていないので仕事の仕方にこだわらずに、ケースバイケースで納屋からNASAまでの「相談おばさん」になれたらと思っています。

現事務所は2014年の10月にオープニングとして8講座の1年先輩である本田忠敬さんの写真展をしました。昨年は、外壁を塗り直し、風が通るように2階の床の一部を抜きました。今年は物干し台を直しています。

 

納屋のオープニング本田忠敬氏写真展(2014)1階元店舗部分

 

納屋事務所の吹き抜け改修作業を2階より見る

 

 

関係性の中でのPMの重要性と、バランスの良い関係性の中で立ち上がった建築のリアリティを感じます。一方で、建築家の名前が先行する事例では、建築は一人のスーパースター建築家が主導して造っているようにも見えて、実務とのギャップを感じます。

すべてをひとりでカバーするんだ、という気概は誰にとっても重要です。しかし実際には施主がいて、施工者、建材メーカー、設備設計、構造設計、建物を使う人、管理する人、地域の人…ありとあらゆる人がいます。もし、大勢の関係者によって建築が作られるという自覚のないまま、争ったりほめあったりしているとすれば、それはおろかなことだと思います。ひとりでは出来なくてもチームで取り組むことで、より高いレベルに到達できることもあります。チームで取り組むにあたって、建築家が自分の中から出てくる尖ったもので勝負する姿勢は実は非常に重要なんです。誰よりも場所をよく読み込んで、考え抜いて、一番深いところまで到達している建築家と一緒に、「おぉ~こうやってつくったのか!」と学びがあるような建築を作りたいですね。

一方で、「みんなの意見」を取り入れたとしても、つまらない建築になってしまうことがあります。例えば、新国立競技場の設計プロセスが迷走したように見えたのは、発注者側のつくりたいものが定まらないまま、設計者側も引き受ける範囲があいまいになってしまったことが原因のひとつだと感じます。PMとしては、発注者と設計者のあいだにしっかり風通しのいい関係を作って「その先の建築」を実現したいものです。

他にも、「みんなの意見」に市民目線が入りすぎるといいものが作れないという人がいます。確かに、大勢の意見が反映されればされるほど、建築家の持ち味が薄まってしまう危険はありますし、専門家に任せてほしい、という人の気持ちもわかります。でも、使い手、住み手の普通の人が建築を見る目はどんどんシビアになっています。専門教育を受けていなくても建築の本質的な美しさや問題を見抜ける人はたくさんいます。両者がおたがいに敬意を払える関係を結べるよう、私も精進せねば、と思います。

 

−−−今まで色んなことに挑戦されてきたと思うのですが、今一番興味があることについて教えて下さい。

最近、建築にとっての「原寸」というものに、興味というか問題意識があります。葉山にある加地邸見学会をきっかけに知り合った建築家の奥村まことさんとお手紙をやり取りし、その際吉村順三事務所では窓の大きさは原寸で決めていたと伺ったことから、原寸の仕事をする機会が昨年は3回あったことを思い出しました。

 

奥村まことさんからの手紙 文中の「遠山さん」は笄町の遠山邸のこと。

 

一つは京都の仕事で、ベニヤに描かれた原寸図の上を歩きながら大工さん、設計者、施工者が納まりに知恵をしぼって、それぞれが全体の理想像を求めて考えている、という瞬間を経験しました。その後、書店の改修の仕事で本棚のモックアップを造り、構造強度を実験し、シールの打ち方などの施工方法を検討し、書店員さんと本の陳列方法を確認しました。最後はグルジアのホテルの中庭に日本庭園を造った時です。ホテルの部屋で庭師さんと打ち合わせするうちに「下りて行って中庭でつくりながら考えよう」という話になって、原寸で中庭にテープを貼ってコケ庭の形を決め、そのままの勢いで石を据えてつくばいもつくりました。

 

米子市の「本の学校今井ブックセンター」改修(2015)本棚のモックアップ検討の様子

 

グルジアの避暑地ボルジョミのクラウンプラザホテル中庭 日本庭園(2015)。現場で施工しながら形が決まった

 

これらの経験を経て、本棚のようなインテリアや庭園は考えながら作ることができるのに、建築の領域は原寸感覚から遠くなっているな、と思いました。建築は普通、スケールの異なる図面や模型で考えていきます。スピード感が乏しいですし、知らぬ間につくることをどこか別の世界へとアウトソースしてしまっているような気がします。どうしたら「全体に関わっている」というリアルな感覚を取り戻せるか。関係者それぞれが分業して部分を担当しているだけの感覚になってしまうとまずいのです。プロジェクトマネージャーは関係者の力を統合して、足し算を掛け算にしていると言いながら、実はぶつ切りを推進して、それぞれのパワーを削いでしまう危険もあります。これからの課題です。

 

最後に学生に一言お願いします。

ぜひ「学問」してください。言い方として変かもしれませんが、自分の問題意識をあたためて、次の自分にどう生かそうかと考えるような学生生活を過ごしてほしいです。誰かのためのスキルは社会人になったらいくらでも求められてやるようになるので、今から身につける必要はないと思います。自分の信念、興味のおもむくままに、面白そうなところに好きなだけずぶずぶ入っていけることが学生の一番の特権です。自分のアンテナに正直に、美しいものに触れて、想像を広げて行ってください。

 

ありがとうございました。

インタビュー構成:草山美沙希(M2) 古野咲月(M2) 石井優希(M1) 金子摩耶(M1)

インタビュー写真:古野咲月(M2)

プロジェクト写真等;大村さんよりご提供いただきました。


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