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仲俊治(なかとしはる)
1976年 京都府生まれ/1999年 東京大学工学部建築学科卒業/2001年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了/2001-2008年 山本理顕設計工場勤務(主な担当:邑楽町役場庁舎(2005)、公立はこだて未来大学 研究棟(2005)、福生市庁舎(2008))/2009年 建築設計モノブモン 設立/2012年 株式会社仲建築設計スタジオに改組/2009-2011年 横浜国立大学大学院Y-GSA設計助手/2012年 『地域社会圏主義』(増補改訂版)(LIXIL出版)(共著)
主な作品:白馬の山荘(2011)、食堂付きアパート(2014)、知的障害者支援施設(入所)上総喜望の郷おむかいさん(2015)
〜仲俊治さんのご好意で、仲さんが設計した知的障害者支援施設(入所)「上総喜望の郷~おむかいさん~」を見学後に現地でインタビューを行いました。〜
おむかいさん見学風景。バーベキューができるように舗装の仕上げを変えたそうです。
—建築家を目指したきっかけについてお聞かせください。
手に職があるというのがかっこいい感じがして、医者や建築家っていいなと漠然と考えていました。
建築家に興味を持ったのは、祖父母が住んでいた大阪府の千里ニュータウンがきっかけです。そこでは鉄道、道路、高速道路や住む場所、お店が整備されていて、これを人が考えて提案し、実現しているということが、小学生の時から何か凄いなと感じていました。というのも自分は引越が多くいろいろなまちに住んでいたのですが、千里ニュータウンは全然違う質を感じたんです。あとから思えばですが、ビルトエンバイロメントというか、構築的環境に興味があったんでしょうね。親族が皆大阪だったので安藤忠雄さんの名前を小さいときから聞いていたことも覚えています。
一方で医者にも興味を持っていたのですが、1987年に利根川進さんがノーベル賞の医学生理学賞を受賞した時の記者会見で今後50年か100年で頭の中が物質レベルで全て解明できる、と言っていたのを見てしまったのです。医学という学問が人間が物質の塊であるということを解明していく作業なら、それはつまらないな、とどこかで思っていました。
それよりも、提案できるということの素晴らしさと、それでもわからないものが残る奥深さ、そういったものに一生かけて取り組むのが面白そうだと思って、建築家を目指すようになりました。
—東大に進学した理由や入学当時考えていたことはありますか。
東大は3年生になるまで専門に分かれないので、色々なことを学べるのは良いと思い入学しました。実は浪人しているのですが、その分徹底的に色んなことを吸収してみようと思っていたので、いろんな授業を選択してましたね。微積分が得意だったのでそれを用いた経済とか統計の授業は、こんなことに繋がるのかと、ビックリすることが多かったです。
—在学中はどのように過ごされていたのでしょうか。
建築を見に行ったり建築設計事務所にバイトに行ったりしていました。初めて行ったバイト先は北山恒さんの事務所でした。
バイトは建築以外にもいろいろしていました。引越とか家具組み立てとか。特に牛丼屋の経験が凄く面白くて、お釣りを1円間違えるだけでも凄く怒る人がいたり、フィリピン人や韓国人などの多国籍な同僚バイトが居たり、こうやって世の中動いているんだなと教わることばかりで、本当に楽しかったです。
—卒業設計はどうでしたか。
『風景を重ねる』というタイトルで、既存の市街地に何か別のネットワークを被せて点的に介入するという提案でした。川を埋め立てた場所を敷地にして、地域性をすくい取りながら建築にしていくというものです。当時既存市街地への点的な介入やネットワークの話は珍しかったし、今の自分の興味とも繋がっていると思います。でも数を沢山やろうとし過ぎて間に合わなくて、卒業設計での賞はもらえませんでした。あまりに悔しくて1週間くらい部屋にこもって文章を書いていました。自分の失敗は例えば形を作れなかったことだとか、どうしてこういうことを考えたとか、だけどこれはきっと何々に繋がるはずというようなことを書いていましたね。敷地が10個くらいあったので10個くらい文章を書きました。今でも持っていますが、絶対誰にも見せません(笑)
—卒業後の進路についてはどのように考えていましたか。
建築の設計の中でも、提案をして実現をする、という部分がたいへん気になって、そのメカニズムを学びたいと思いました。組織設計やアトリエ事務所のアルバイトも色々行きましたが、組織設計は違うなと思って、アトリエだけど大きなものをつくっている山本理顕さんの所に継続的にアルバイトに行っていました。
—なぜ山本さんの事務所に行くようになったのですか。
前提を疑う、という姿勢に憧れたから、ですかね。3年生の後期に山本さんが非常勤講師でいらしていて、「都市の特異点」という課題を出されたんです。そこで提出した設計案が凄く山本さんから褒められたんですよ(笑)山本さんの設計した建築も好きでしたし、書かれている文章も好きでした。山本さんの著作に『細胞都市』(INAX出版/1993年)という本があるのですが、小さなものの集積である規模のものをつくっていくという内容で、凄く面白かったですね。課題、作品、書籍を通して感じたのは、前提ってあんまり根拠ないぞという主張や、その結果つくりだされる建築に強さを感じて。それらがゲームではなく、これからの社会に対する提案につながっていて、見た目も美しいけれど中身も伴っている。バイタリティにも驚き、とにかくどうなってるのかと不思議で、中に飛び込んでみようと思いました。
—実際に山本理顕設計工場に入所してみて、山本理顕さんの印象は変わりましたか。
追加で驚いた、ということはあります。山本さんは頭で考えてつくる人だと思っていたのですが、プランや断面図をみんなで囲んで山本さんと話すと、「ここだと気持ちいんじゃない?」とか「風結構通るよね」とか「ここでビールとか良いよな」と、意外と身体感覚で物事を話したり決めたりしているのが新しい発見でした。自分の感覚・感性・皮膚感覚を大事している所に共感して、ますます良いなと思いました。また、一般社会や建築界とは違う業界に向けて発信しようとしている所も良いなと思いました。
—事務所時代に印象に残っているプロジェクトはありますか。
やればやるだけチャンスが貰えるので楽しかったですが、特に2年目に担当した群馬県邑楽町のプロジェクトは自分に大きな影響を与えていると思います。邑楽町のプロジェクトリーダーを任された時は嬉しかったのを覚えています。
これは町役場の庁舎と公民館が合体した建築で、住民参加を設計プロセスに採り入れることを前提にしたプロジェクトでした。
邑楽ユニットと名付けた鉄格子を、林檎の箱を止めるような鉄のバンドで緊結していって全体を作っていくというものでした。設備と構造が一緒になっているというユニットでしたが、それを60名ほどの住民有志と毎週議論をしながら、ユニットの組み方を変え続けていきました。
結局町長が代わってしまって建たなかったのですが、今やっているような住民参加や集合知というようなことは2000年代には一通り経験できたように思います。幸か不幸か、なぜうまくいかなかったのかということにも興味を持ち続けるきっかけになりました。
竣工した数で言えば僕は運が悪くて、関わったプロジェクトがことごとく止まったんですよ。「埼玉県立大学」、「公立はこだて未来大学」、「広島市西消防署」という山本さんの三部作に憧れて入ったのですが、僕はなかなか現場に行けなかったですね。
インタビュー風景。邑楽ユニットについて。
—建たなかったプロジェクトが多いという事ですが、独立前に福生市庁舎が竣工しました。どのようなプロジェクトでしたか。
横田基地のある福生市の市役所をつくるというプロジェクトでした。公園と庁舎が一体化したような建築です。日常時、非常時、イベント時の3つのモードに対応するようなことを考えた建築です。構造体は、プレキャストコンクリート、現場打ちRCのシェル構造から成る、複雑なものでした。ところが、国からの補助金の関係でなかなか自由につくることができない。それが凄く大変でかつ面白かったですね。例えば、防音のための補助金ということで、このサッシを使いなさいというような誘導が強いんです。でもそれは40年前に開発されたシングルガラスのアルミサッシで、型も格好悪い上に、プレキャストコンクリートの表現にも対応できないので、結局アルミサッシを開発する所から始めました。他にも不健康な苦労というのか、建築を純粋につくれないフラストレーションは多々ありましたが、協力的な人が不思議なタイミングで現れて、最終的にはうまくやることができました。制約的なことが多い中でも筋を通しながらやっていくことができたことは独立のきっかけになりました。
—邑楽町や福生市ではクライアントとの関わり方が重要だったように思います。二つの公共プロジェクトを通して学んだことはありますか。
福生市役所の場合は現場常駐していたこともあって議会答弁を僕がやっていたのですが、それはある意味で山本事務所で学んだことの集大成でした。山本事務所のモットーは<提案と実現>だったので、説明の仕方あるいは共感の得方を、在籍した7.8年間で学んだのではないかと思うんですよね。僕たちは「こうだったら良いのではないですか?」という、未来の生活のための提案をしたい訳です。その提案はまた、技術的にも裏打ちされていないといけないわけです。端的に言えば、信じることを真面目に話す、ということに尽きますが、専門家として共感を得るという所は凄く訓練された気がします。
—独立した時に、これから自分で設計をしていく上で指針に思ったことはありますか。
<プログラムと環境>ということですかね。プログラムといっても90年代にあったような用途のミックス、みたいなことではありません。どういうふうに使うのかという身体感覚からプログラムを考えたいということです。環境とは自然の力を利用しながら大きな循環の中に建築を位置付けられるのかということに興味があります。しかし初めの頃はこの二つの事を上手く交わらせる方法がわかりませんでした。そこが部分的にでも合致したのが「上総喜望の郷~おむかいさん~」のような気がしています。
〜ここからは「おむかいさん」で施設長をされている中村敏久さんを交えて、インタビューが続けられました〜
おむかいさん 全体平面図
—おむかいさんは、重度の知的障害者のための住宅であり、6人の超小規模な小舎制が3棟、分棟的に建っているというものですが、ここではどのようなことをチャレンジされたのでしょうか。
仲)先程話したように、<プログラムと環境>ということを具体的に結び付けられたかなと思っています。施設ではなくて住まいという所から「プログラム」を組み立てていって、一方で環境的な話から内でも外でもない中間的な場所として位置付けたデイルームを自然エネルギーで支えられないかと思い<傘ユニット>を考えました。
—<傘ユニット>はどのように生まれたのですか。
仲)ここに住む方々の特徴を知ったのがきっかけです。一つには、小さな居場所を好むということ。物陰とか、壁際とか、落ち着ける場所を見付けては、日がなそこで過ごす。そんなことをみづき会の方々から伺い、また自分でも泊まりがけで生活を拝見したんです。そこで、建物のつくりかたと、小さな居場所をつくる方法が連動することについて考えはじめました。もう一つには、特に冬の体温調節が苦手な方が多いということを伺いました。中庭があって開放的にしたいことと、寒さ対策をどうするかと言うことを共存させたいなと。スタディをするうちに、構造でもあり環境装置でもある傘ユニットに辿り着きました。
—<傘ユニット>による計画手法を少し詳しく説明していただけますか。
傘ユニットの柄の部分を列柱と呼んでいるのですが、溶接してつくった鉄骨の薄い柱が並んでいます。列柱は一方向にのみ並んでいるので、実は単独では傘ユニットは自立できません。列柱の向きを90度変えながら傘ユニットを連結していくことで、全体として安定した構造となります。そうすると自動的に、列柱がL字型やT字型に配置されたようなデイルームの平面形状が生まれます。全体を構成することと同時に小さな居場所が含まれるわけです。その列柱の本数は、4,6,8本のどれかになっているのですが、偶数本にすると上弦材・下弦材をバランス良く配置でき、屋根構造としては都合が良いことから、列柱の長さが3パターンに整理できました。一方で空間のサイズは、ベッドのまま避難できることを考えるとサッシの納まりを考慮して1400mmスパンということが求まり、この整数倍で整理されています。一見ランダムに見えるこのプランニングは、実は使い勝手のスタディの集積のようなものです。一方で冬対策の話ですが、これは断面に関係しています。天井裏に太陽熱で暖められた暖気を貯め、それを予熱された外気として取りこんでいます。晴天時には20度程度温かい空気として室内に取りこまれています。そのシステムを10時〜15時の間で使うには、500㎥の天井裏の空間が必要であることが解析によって分かりました。南側の屋根は低めに抑えて北側の屋根を少し盛り上げると全体的に光が当たりやすくなります。なので屋根の高さも軒桁からの高さで800,1000,1200mmの3種類作って、それを組み合わせていきました。
おむかいさん 断面詳細図
傘ユニット アイソメ
おむかいさん 配置ダイアグラム
—プログラムを組み立ていく時に、クライアントである「社会福祉法人みづき会」の方とはどのようなやり取りをされたのでしょう。
仲)みづき会の皆さんからと話し合ったりあちこち見学に行ったりする内に、「施設ではなくて住まいなのだ」という話に集約されていきました。福祉施設を施設たらしめている要素を見付けては、それを変えられないかと話し合う作業が繰り返されました。たとえば、お箸。僕たちは自分のお箸ってありますよね?お気に入りのお箸を買って大切に使う。でも普通の施設は、中央に厨房と食堂があって、そこに集められて食事をする仕組みなので、というよりも、そのようなことを前提として補助金の条件が決まっているので、給食の食器のように、みんな同じものになってしまうんです。やれること、やれないことはいろいろありましたが、施設と住まいの違いをいろいろ議論しました。だからキッチンがそれぞれの棟にあり、決して大きくないお風呂がそれぞれの棟にあり、さらに言えば、そのような自立分散型の建築に合わせて、非常時の電源も各棟にポータブル発電機を繋げば稼働できるようになっているんです。また夜になると職員の数を減らさざるを得ないと聞き、全体が繋がっていることで昼間は分棟として、夜は繋がる構成が良いなと思いました。さらに分棟形式でも全体としての一体感を持たせるために、欄間から隣の屋根が見えることは重要だろう、というようにプログラムを発展させながら考えていきました。
—設計をする上で難しかったことはありますか。
仲)事前の施設規模の検討の時間はありましたが、いわゆる設計期間は半年程でした。補助金申請の面からスケジュールが決まり、絶対にそのスケジュールに合わせないといけない、という状況に急になってしまいました。許される時間の中で自分が感じたことを形にするしかないと腹をくくりましたが、至らない所もあり、てんやわんやでした。なぜ腹をくくったかというと、スタッフの方々は日々のケアの傍らで設計打合せに出席することになるので、どうしても打ち合わせに出て来られない時もあるし、また、職員によって優先順位が異なったりするので、全部受け止めたいと思いつつも、情報の共有という点で難しかったからです。それにもまして今までと決定的に違ったのは、生活者である知的障害者の方々に直接お話を聞けないことも大きかったからです。
中村)知的障害のある方は意思の疎通が困難な人が多いのです。例えば病院に行ってもどこが悪いのか医師に伝えられません。歯の治療でも治療行為が理解できないので何をされるのかと必死に抵抗します。その際の抵抗力というのは4人掛かりで抑えて治療をしようとしても、抑えきれない程です。以前は、このような施設は市街地より離れた場所のコロニー的な大型の公営施設が多かったのですが、その後は民間の施設も増え、現在は街の中のグループホームに少人数で暮らすことが国から推奨され、これが「地域移行」と言われています。
仲)コロニーから地域のグループホームへということは昨今の流れなんだと言うこともみづき会の方々から学びました。その中でも特に大切だと思った課題は、居心地といったような生やさしいことでは無くて、「どんな場所にどのように住んでいるのか?」ということです。ノーマライゼーションということでたとえ街中でのグループホームが推奨されたとしても、鍵や塀ばかりの「施設」では結局コロニーと変わらないと思います。具体的な場所と生活に対する想像力を持たないと、ただの企画だけで世の中が動いていくと、不幸なことになってしまう。
中村)ここは市街地から離れておりますが勿論この施設の近くにも民家があり、「地域」です。以前は利用者さんが施設から出て地域住民のお宅にお邪魔してしまうことがありました。これは施設が利用者さんにとって住み心地が悪い場所だからではないか、それでは施設の居心地を良くしてみよう、と思いました。もし鍵や監視カメラやブザー等で管理しようとすれば、生活の場ではなく収容している様な状態となり、人の暮らしではないというか物を管理する場所みたいになり何か違和感がありますよね。しかし、実際には管理のためにこれらの設備を使っている施設は多いです。だからこそ私達は障害があろうとなかろうと、普通の生活を目指していきたいと考えています。
—おむかいさんを見学させて頂いた時も、施設らしくないというか、遊びがあるように思いました。
中村)例えば、中庭に雨水だけを流す水路がありますが、これは当初設計案にはありませんでした。今回このプロジェクトを計画し、県外の様々な施設にも見学して回りました。先ずは他を見る、聞くことから始めたのですが、その中で「こんな水路があるとおしゃれだね」というのを見つけ、その場で仲さんに電話しました。「今こんなのを見てるんですけど」って(笑)
仲)「水路に何か橋みたいな物を架けると良いじゃないですか~」って突然電話がありましたね(笑)
中村)「写メも送るからこんな感じで」と。「何言ってんだ今更」って仲さんは心の中で思っていたと思います(笑)
仲)いや、ハッとしましたね、あの時は。ついつい無意識でやっちゃうことってあるんです。例えば雨だったら土中で配水管を繋ぐ。そこに、「ちょっと待て」とならないといけない。そういうことに気付かせてくれた瞬間でした。
中村)それで雨水だけを流すための水路なので、「水路の真ん中にスペースを作り、そこに石とか埋めちゃおうか」と無理を言い、生コンをこねて石とかおはじきなどを入れて結構力作になりましたよね。私や仲さんも含めみんなで一緒に頑張りましたね。
仲)超炎天下の日にね(笑)
水路の自主施工風景
—中村さんと仲さんの関係がいい感じですね。
仲)いろいろ紆余曲折はありましたが、みんなで一緒に2,3年間やってきましたからね。
—そのあたりがうまくいっている理由な気がします。建築をつくる側の人と、使う側の人の間に、しっかり信頼関係ができていて、要望などを建築や空間に変換して実現できていることでうまくいっているような気がしました。施設計画分野の視点からも、施設と居住の間を考えたいという想いはあるのですが、具体的な建築のモノのイメージがなかなか掴めないため事例が進まないようです。
仲)おむかいさんや食堂付きアパート(2014年3月竣工の集合住宅。<小さな経済>をテコに、開かれた生活環境をつくることをコンセプトにしている。)では基本設計の前に「企画調査業務」という、何をつくるかを考える期間を確保させてもらったんです。
食堂付きアパートのときも初めは、商店街や下町というコンテクストの共有から始まって、食堂があると嬉しい住人って誰だろう?独立したての若者?という所から、インキュベーション型賃貸住宅というプログラムを組み立てていきました。おむかいさんでも何をつくるかというのは凄く重要で、みづき会の理念を伺いながら、かたちと共に具体的に考え始め、設計前の1年間をかけて意識共有をしました。
プログラムを一から考えたり、生活者として使い方を考えることは、フォーマットがないし手間がかかりますが、だからこそ重要なのかなと思っています。多分それは施設性を解きほぐし、日々の生活の楽しさや豊かさに繋がる建築をつくっていくことだと思います。
—食堂付きアパート以降<小さな経済>というワードが注目されることが多いと思うのですが、お話をうかがって、環境も経済も一緒になっているのを感じました。
仲)僕はおそらく、「循環」の中に建築や人の居場所を位置付けたいのだと思います。<小さな経済>は社会的な循環なんですよね。一方で環境の話は、自然、太陽、熱、雨とかそういうものにおすそわけをもらって、空間を支えてもらうということで、まさに環境的な循環を意図しています。両者の比重はプロジェクトによって違いますが、それらの循環のなかに建築を位置付けることで、心地よく、また、いろいろな意味で持続可能な生活環境をつくりたいなと思っています。あるいはその循環を強いものにしたり、目に見えるものにしたり出来れば、隣の人を知らないとか、暑いイコールエアコンとは異なる社会や生活の場がつくれるのではないかと思います。
循環という話と施設性の解体とは、多分結び付くのだろうという気付きをもらえたのが、このおむかいさんのプロジェクトです。今日は福祉施設の「施設性」を話していますが、普段目にする住宅もまた「施設」なんだと思います。このテーマは今後5年、10年と取り組んでいきたいと思っているところです。
—<環境と循環>ということを軸に考えてつくっていらっしゃる中で、仲さんがよくおっしゃる<中間領域>というのは何をつくるものなのでしょうか。
仲)僕は多分色んな場や存在を相対化したいんだと思います。多重的な関係性の中で居場所というのは空間化されていくのだと思っています。このおむかいさんが開放的でいられるのは、街中とは違うこの敷地を抜きにして考えられなかったように、ある空間はその周辺との関係の中で決まっていくのだと思います。
—上から何かを置いていくというよりは、空間を身体化するという内からの視点で考えているということでしょうか。
仲)両方です。列柱の間隔を決める時や仮定する時は、見通しがどうだとか、テレビを見るときに出っ張んないだろうか、といろんな身体的なことを考えて寸法を仮定します。一方で個室と中庭の間のデイルームが敷地にフィットするのかという全体配置のことも同時に検討します。部分のちょっとした寸法の差が、全体にものすごく影響するので、必ず同時にスタディしていました。だから両方だと思いますね。どっちが先ということでもないだろうし、僕はそのあたりをぎりぎりまで宙ぶらりんにしておいて、最後に一気に決めます。建築の設計は基本的に、材料と寸法を決めることだと思っていますが、鳥の目と虫の目の両法から考えるということは意識しています。
—最後に、建築を勉強する学生へコメントをお願い致します。
仲)あんまり偉そうなことは言えないけど、提案する、ということは、それだけでかけがえのないことだと思うんです。それがなぜ素晴らしいかというと、自分なりの未来へのこだわりや希望を見付け、形にするという素晴らしさもありますし、その一方で、提案をする相手がいるということも素晴らしいことです。社会の側の度量や時流の問題もあるからです。僕自身も、ひとりひとりが、自分はこう思う、自分はこう生きたい、ということが描ける世界を、建築を通して考えていきたいなと思います。
—ありがとうございました。
インタビュー構成:草山美沙希(M2) 古野咲月(M2) 金子摩耶(M1)、尾崎純一(M1)、石井優希(M1)、塚本安優実(B4)、水野泰輔(B4)
インタビュー写真:塚本安優実(B4)
プロジェクト写真等;仲さんよりご提供いただきました。