Interview#048 林要次


林要次(はやし ようじ)

1975年神奈川県生まれ。1999年芝浦工業大学卒業。2001年横浜国立大学大学院修了後、フランス政府給費留学生として渡仏。ヴェルサイユ建築大学博士課程DPLGコース在籍、2004年パリ第8大学建築学際群博士課程D.E.A.「建築・都市設計」コース修了。帰国後、北川原温建築都市研究所に勤務。東京藝術大学大学院教育研究所助手を経て、再渡仏。ピエール・デュ=ベッセ+ドミニク・リヨン建築設計事務所(フランス。パリ)協働。2008年よりyoji hayashi+a.d.s.共同主宰。2010年文化庁新進芸術家海外研修生、2015年9月『近代日本におけるフランス建築理論と教育手法の受容-中村順平の理論と教育を中心として-』にて博士学位取得(横浜国立大学大学院都市イノベーション学府)。2016年大阪歴史博物館客員研究員。

今回は、一昨年横浜国立大学意匠系の初代教授である中村順平さんについて博士論文を書かれた、林要次さんにお話を伺いました。明治維新の後、ほとんどの大学がイギリスやアメリカの建築教育を手本にする中、横浜国立大学だけはフランスのエコール・デ・ボザールに日本人として初めて修了した中村順平さんを基礎として誕生しました。当時の建築教育とはどのようなものだったのか、横浜国立大学の建築学教育の歴史はどのようなものなのか。林さんご自身が博士課程に在籍しながら、2回渡仏した経験も交えながら、お話を伺いました。

芝浦工業大学工学部の建築学科を卒業後、横浜国立大学大学院の8講座(設計意匠講座)に入学したということですが、なぜ横国を選択されたのでしょうか?

大学院進学を考えたとき、他の国立の学校で設計教育を重視している学校にいってみたいと思い、どういった先生が過去から現在までいたのか設計教育の歴史的な流れを受験の前に調べました。東大・東工大・東京藝大も調べていたのですが、僕自身、横浜で育ったこともあって、特に横国の建築教育を調べていました。調べる中で、横国建築の前身である横浜高等工業学校の先生であった「中村順平」さんは全く聞いたことがなかった。作品もあまりなく、どういった設計をしていた人なのか、また、現在までの系譜が全くつかめませんでした。それを知りたいと思ったのが横国を受験するきっかけです。

大学院を修了後、渡仏されています。ヴェルサイユ建築大学と、パリ第8大学に通っていた時の話を聞かせてください。

フランスでは、2つの全く異なるコースにいました。ひとつは、ヴェルサイユ建築大学のフランス政府公認建築家資格を取得する設計教育を受けるコースで、もうひとつは、パリ第8大学が管轄する建築と都市の理論と実践を結びつけるための研究を行うコースでした。このコースはかなりアカデミックなものでした。
設計コースでは、Y-GSAのようにいくつかのスタジオが用意されていて、僕自身は都市デザインをランドスケープ的に考えるスタジオを選択しました。担当する先生が実際に携わっているパリ郊外の都市デザインプロジェクトを考えるものでした。

一方の理論コースでは、水辺都市の都市デザイン研究をやっていました。このコースは、パリ近郊の5つの建築大学と1つの大学付属の都市研究所からなる学際群で運営されていて、学生は必ずその中から研究所をひとつ選択する必要がありました。僕自身、日本でほとんどやらなかった建築や都市のインフラストラクチャーを考えたいと思い、これもヴェルサイユの大学にあった研究所を選択しました。

あまり中村研究とは関係ない研究をやっていたんですが、ヴェルサイユの学校は中村順平さんが留学時に師事したジョルジュ・グロモールの流れを汲んでいるんです。ヴェルサイユにある資料に中村のルーツが残されているのではと思って通っていましたが、結局ルーツらしいものはわかりませんでした。でも、図書館にはグロモールさんのアトリエの判子が押された書籍などがあって、それを見て一人で興奮していました(笑)。

その後、帰国されて北川原温さんの事務所で働いていらっしゃいますが、実際にどのようなことをされていましたか?

北川原先生の事務所には、大学3年の夏から通っていました。現場に常駐する「常駐バイト」をしていて、日々変化する現場を見ながらの設計していく作業が楽しくて仕方なかったです。大学・大学院の頃は、よく北川原事務所に出入りしていて、留学直前や一時帰国の時も大変お世話になっていました。

2004年末に帰国してすぐ北川原事務所に勤務しました。北川原事務所では、建築設計やプロポーザルはもちろんですが、トヨタの自動車の70周年記念モニュメントや新国立劇場での舞台美術など幅広いデザインの仕事を担当しました。また、北川原事務所の作品集がつくりたいとアルバイト時代から思っていて、営業ツールとしても使える企業ブローシャー作成を北川原先生に提案し、まとめました。

この北川原事務所にいた期間は横国の博士課程にも一応在籍していて、常に中村研究のことが頭にあって、在籍限度の2008年が近づくにつれ、その後どうしようかと悩みながら、結局、設計の実務をやっていました。

その後大学院に在籍されながらもう一度渡仏されています。

フランスではどのようなお仕事を担当されていたのでしょうか?

そもそも2度目の渡仏は、中村研究のためのフランス語文献の読み込みが目的でした。フランス語文献を読み込む中で辞書に載っていない専門用語の理解に苦労していて、理解するには何がいいか考え、手っ取り早いのは設計事務所での実務だと思い、パリの設計事務所にアプライしました。幸い、パリのピエール・デュ=ベッセとドミニク・リヨンが共同主宰する建築都市設計事務所が受け入れてくれて、コンペや実施設計に関わりました。そこでは、主にモロッコ・タンジェの「フェリーターミナル」(2007年、2等、正式名称:Gare maritime de Tanger)やロン=ル=ソーニエという南フランスの街の「メディアテーク」(2012年竣工、正式名称Médiathèque – Cinémas à Lons-le-Saunier)のコンペやブルガリアの黒海湖畔のソゾポルという小さな街の「別荘」(Maisons privées Sozopol)の実施設計を担当しました。

タンジェ・フェリーターミナルは、モロッコのタンジェ・メッドという新港に計画されたフェリーターミナルのコンペで、フランスの建築家のジャン・ヌーヴェルがマスタープランを行っていて、その一角に建設するものでした。建物自体は、薄いフラットな建築を提案したのですが、ファサードの検討にかなりの時間をかけました。所長のドミニク・リヨンと何度もイスラム圏の雰囲気をだすためのモチーフを何にしようかということを議論しました。その結果、六角形をモチーフをファサードとトップライト部分に適用しながら全体を構成したのですが、その際、色々な角度や都市的なかなり離れた距離からファサードの検討はかなり新鮮でした。結局、このコンペは2等で終わってしまいましたが、六角形のモチーフはロン=ル=ソーニエのメディアテークに引き継がれています。

こうした設計活動に触れることで、ようやく建築理論用語が理解できた気がしました。

今のお仕事について教えてください。

現在、設計自体は細々と続けていますが、研究では日本とフランスの近代の建築理論や建築教育の教科書を対象とした分析も続けています。博士論文とのつながりでいえば、大阪歴史博物館の客員研究員として「中村順平のスケッチブックと図面類の画題・作画時期解明に関する研究」という共同研究をしています。現在、大阪歴史博物館には、中村さんのボザール留学期の図面やお弟子さんたちが持っていた資料などの多くが保管されているのですが、お弟子さんたちの手で大切に保管されていた資料は、その内容を含めどういったものかよくわからないものが多いんです。制作年代の不明な中村さんのスケッチブックなどがあって、この共同研究は描かれたスケッチ群からその制作年代を解明することからスタートしています。僕自身は、この制作年代を明らかにする作業だけではなく、横浜の学校とのつながりのある中村さんが出題した設計課題の整理も並行して行っていて、その内容を報告書としてまとめようと思っています。すごく贅沢ですけど半分設計・半分研究ということができたらいいなと思いつつも、研究のための調査や執筆も結構体力を使う作業で、若干研究ベースになってきている感じです。

中村順平さんの研究について聞かせてください。

エコール・デ・ボザールや当時の建築教育はどのようなものだったのでしょうか?

教育における技術の転換点に着目するとボザールの転換点が1860年代の教育改革にあるんじゃないかなと思います。

フランスだけではないと思いますが、幾何図学は特権階級の秘儀として伝承されて、例えば、大砲をどの様に飛ばすかなどを推測したり、軍隊の様々な陣営をつくるために必要とされていました。それが18世紀終わりのフランス革命によって、一般教養として幾何図学が人々の手に落ちてきました。幾何図学は、当初はボザールの様な芸術系の学校ではなく、むしろ技術官僚を養成するフランスの国防省が管轄するエコール・ポリテクニクという学校で教えられていて、このポリテクニクの設立には、画法幾何学を確立したフランスの数学者、ガスパール・モンジュが関わっていたくらいなんです。幾何図学がボザールの建築教育カリキュラムに入ってくるのは、ボザール教育を問題視した19世紀のフランスの建築家で建築修復家としても知られるヴィオレ=ル=デュクなどによる教育改革が行われた1860年代になってからで、ポリテクニクに導入されたもっと後なんです。このボザールの変革期前後にアメリカからボザールにきた留学生が、国に帰って、ボザールの教育をアメリカの教育に導入したりしています。また、明治の日本でも、図学は重要な基礎科目として教育の中に取り込まれていいました。フランスのように日本の軍隊でもしっかり教育されていて、陸軍などではフランスの教科書を翻訳して使っていました。今では取り組まない学校も増えていると聞きますが、図学教育は建築の立体的な形状をイメージして、その特徴を把握し、図面化するための基礎力を養う上でも重要な科目だと思います。中村さんがいた頃の横国でも図学は重視されていて、ボザールで使われていた色々な時代の図版やテキストが引用されていました。

中村さんの講義では「幻灯機」と呼ばれる今のプロジェクターのような機械が使われていました。この手法は中村さんがボザールで受けた教育に由来していますが、1940年代に学生時代を過ごした人に聞いたところ、他の学校ではやっていなかったらしく、中村さんは変わった方法で講義をしていたようです。相当強烈な光をあてる幻灯機では、写真だとめくれてしまうので、写真を厚紙に貼って順番に写しだしていました。講義の時に学生たちに見せていたのは、例えば日本の古建築、フランスの彫刻家の最新作のレリーフ作品だったり、新聞に掲載された芸術祭の風景などで、それらは今でも残っていて、建築学棟の図書館に飾ってあるルーブル美術館にあるヴィルロワ城の暖炉が描かれた中村さんのボザール留学期の作品も厚紙に張られたものが残されています。

また、この写真帖のように中村さんは優秀な学生たちの作品を一枚一枚写真におさめて保存していて、優秀作品はしっかりアーカイブされていました。

(当時の学生の作品)

林さんの論文を読んでいくと、横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身)だけがフランスへ留学した中村順平さんの教育の下で誕生し、多くの他の大学はイギリスの建築教育に習っていた点がとても不思議でした。

当時の建築学会に対抗してできた日本建築士会の流れからできた可能性もあるのですが、偶然が偶然をよんだ、突然変異だと思いますよね。だからではないですが、北山恒先生はすごく喜んでいました。その異端的な感じが良いって(笑)。

北山さんご自身が、横国の建築教育の説明をする時に「ボザール派」とおっしゃることがあります。北山さんとは、中村順平さんに関する論文を通してどういうやりとりがありましたか?

修士から博士課程に進む際、まだ、漠然としていましたが、中村さんの理論を切り口としてフランスの建築理論に関する論文を書きたいという話を北山さんにして受け入れを快諾していただきました。何度か相談しているなかで、僕自身、フランスばかりに目が行きがちだったのですが、北山さんは世界の流れの中で中村理論やその教育がどういう位置付けになるのかをとても気にされていました。相対化するには横国の建築教育の流れだけだと不十分で、その他の学校との違いも詳しく調べたら面白いのでは?ということを何度かアドバイスされ、試行錯誤を繰り返しながら博士論文をまとめていきました。

中村さんの教育には色々な特徴があるのですが、卒業設計がなかったのは特徴的ですね。

(資料を鞄から出しながら)

これは中村さんがフランスのボザールで習った時の「Construction」という科目の教科書、「建築・建設土木講義」(Cours d’architecture et de constructions civiles)です。中村さんはこの科目に着想を得て、卒業設計をさせなかったようです。

中村さんが「構造」と訳していたこの科目は、いわゆる構造計算とはちょっと違って、建築を構築する流れを把握する科目で、ニュアンスとしては構法に近い授業でした。週に2回くらいあって、中村さんの日記を読むと足しげく通っていたことがわかります。この授業の最終試験では構造設計で、構造設計図の提出が求められていました。

最終試験を受けるために、事前に5巻組のこの教科書の挿絵、全部で300枚くらいをトレースしなくてはならなかったんです。この教科書の1冊目の挿絵には、ボザールの建築理論の歴史が凝縮しています。これらの挿絵は、ボザールで行われた設計課題とも関連が深く、ボザールの設計作法が描かれていて、中村さんの留学期、建築設計課題を出題する先生が行う「建築理論」の講義が休講だったこともあって、中村さんはこの「構造」の授業からボザールの設計作法を吸収したのだと思います。2、3巻目に行くに従って、基礎構造の配筋図や色々な人名のついたスラブ配筋図、鉄骨階段のディテールとどんどん詳細になっていって、さらに最終の5巻目には、この講義を担当した建築家のエドワー・アルノーが実際に設計した建物の設計図まで収録されています。そして、講義の後の最終的な課題が設計課題で、一般的な設計課題に構造設計図の添付が求められたものでした。この課題をクリアしないと、上の過程に進めないという授業だったため、後々、中村さんが、インタビューでこの科目が一番大変だったと言っています。中村さんは、この大変だったトレースまでは導入していませんが、構造設計課題を付与した課題のスタイルを横浜高等工業学校の卒業設計課題として導入し、学園生活最後の課題としていました。

また、建築図画と呼ばれる図面は中村教育の特徴としてよく知られています。建築学教室の図書館にも飾られていますが、西洋建築や日本建築を1枚にレイアウトした図面です。西洋建築は、模範となるボザールの図集を参照して描かれていますが、同じような体裁の日本建築の模範図はありません。日本建築は実測なども行っていて、細かく骨格まで描かれています。木の軸組の成立を学びながら断面まで描いているところに中村さんの建築図画教育の独自性が現れています。

こうした課題に加え、即日設計のようなものもありました。この即日設計は、学生だけではなくて卒業生もやっていました。中村さんは銀座に事務所を構えていたのですが、その事務所を私塾として開放して、社会人の卒業生は、昼間、普通に事務所で働いて、夜は課題をやりに中村さんの私塾に来ていたようです。そこで卒業生も現役の学生と同じ課題に取り組み、学生も社会人も皆フラットな状態で評価される不思議なシステムが出来上がっていました。

卒業生に対してオープンにしているというのは、その時代性なのか横国ならではなのか、どちらでしょうか?

こうした取り組みは中村教育の特徴ですよね。卒業設計をやらせなかった中村さんは、3年間の高等工業の課程を終えた学生に対して卒業生という呼び方はせず、継続的に社会人教育を行っています。ある意味では、大学院の研究室のような組織を自ら立ち上げ、広く門戸を開いていました。中村さんの課題で評価が高かった人たちは将来にわたっても活躍していて、戦後の日本の建築設計界、特に組織設計事務所を牽引した方が含まれています。例えば、現在の松田平田設計の一時期パートナーとして活躍した坂本俊男さんや山下設計には何人かの卒業生が就職していたのですが、山下設計から日本設計の立ち上げに関わり、その後日本設計の代表を務めた添田賢朗さんや戦後、山下設計の大阪支店長を務めた方などもいました。

横浜の建築学科開設から10数年間就職先でみると、時代風潮から満州へ渡った人も多いのですが、例えば渡辺節さんの事務所のように歴史意匠を取り込むところ、高島屋に勤めてインテリアに携わった人などがいたり、一方で官公庁に勤めた人もいました。多くの卒業生は、中村さんの尽力だけではありませんが、現在のゼネコン各社に就職しています。中村さんの建築家教育が浸透していたのかというと、時代状況もあるかもしれませんが、設計事務所に行った人は年にひと握り程度でそこまで多くはなかったようです。

論文には書き方があります。その書き方に従って進めることが基本なのですが、僕の設計意匠講座で書いた修士論文は、論文の作法に則って書けていなかった。フランスの理論系のコースで論文の書き方をしっかりと学べたことは、その後を考えるといい経験でした。在籍したコースでは、雑誌などの記事の書き方をまず学び、その実践が最初の課題でした。この課題をクリアすると次は研究の道筋の立て方を叩き込まれました。一番叩き込まれたのが、まず問題提起をして、仮説を立てて、分析する対象とその分析方法を述べるという研究では当たり前の骨格です。僕自身、設計をする際、多くに可能性をスタディし、そこから絞ってシンプルにする癖があったのですが、論文の場合、いきなりここからここまで100%やってしまおうと思うとすごく難しい。研究は積み重ねが重要で、テーマを絞って検証を進めなくてはならず、この点が大変でした。
博士論文を書く際、こうした経験を意識しながら書き進めていましたが、やはり色々拡散した気がします。なかなかまとめることができず半ばあきらめていた時期もありましたが、論文としてどういう風に書くと成立していくのかということを意識しながら、2012年から約3年かけて論文を書きあげました。この3年間で、一番過酷だったのは、通称「黄表紙」という日本建築学会の論文集に載せるための査読論文でした。

審査が厳しいということでしょうか?

査読論文は、外部の人が審査するので温情措置がまずないと思います。当たり前ですが、査読していただくためには、きちんと論文の体裁を成しているか、はじめの問題提起をちゃんと分析した内容になっているのか、そういった点をうまく筋道を立ててやっていかなくちゃいけない。特に一つの論文に全部を詰め込むのではなく、あまりテーマを広げすぎずに集中して一つの論文を書き、それを継続的に発展させていくことが大切です。作家性の強い建築設計では、色々なスタディを繰り返しながら結果として一つの建築として全てを表現しようとして、どうしても色々なものが詰まった主観的なものになる場合があります。一方で研究の場合、客観性が重要で、結果的に出来上がる全体像をある程度想定しつつ、小さな目標を何度もクリアして、方向性を都度調整しながら次に繋げなくてはならない。その地道なプロセスを踏みながら、断片を評価にさらしていく感じです。こうした断片をきちんとしたプロセスで説明し、既往研究との比較などを通じて明らかにしたい事象を考察するというごく普通の研究論文の作成スタイルを体に叩き込むことが大変でした。特に半ば中村順平という個を対象したこともあり、客観性を与える行為がなかなか難しかったですね。

当時中村順平さんが使っていた教材や資料はどうやって集めたのでしょうか?

中村研究のスタートは、多くの卒業生に当時のお話を伺うことでした。昔の水煙会報を見ればわかると思いますが、中村さんのお弟子さんたちが中心となって立ち上げた「桧の会」という同窓組織があって、僕が大学院のころ勉強会を年4回行っていたんです。そこを訪れて様々なお話を伺いながら、中村さんに習っていた当時の色々な教材や資料を見せていただきました。こういった資料は「桧の会」からお借りしています。

中村さんという個人を中心とした論文を書いていたからだと思うのですが、所縁のある人たちからこういう資料を持っていると声をかけていただいたり、教え子の間ではなくなったとされていた見たこともないようなカラー図面の資料を何枚か持っているという人たちに出会えたり、様々な広がりが生まれています。

この集まりの中で中村さんの未定稿原稿を預かったことが博士論文を纏めるきっかけで、この遺稿の所々に散りばめられたフランス語を手掛かりにその元となる本を調べることがある意味ライフワークでした。未定稿の原稿から見えてきたのは、中村さんがボザールだけではないフランス語圏の色々な学校の教科書を使用していたことです。横浜の教育でそれらを紹介していたことは、日本近代の建築教育史では重要だと思います。この経験が、現在のフランスや日本の過去の建築理論書や教科書を分析するということにつながっています。

こうしたつながりで得たことは大変貴重でありがたいことでしたが、ただ、資料だけはどんどん集まっていくけれど、それをどう分析していいのかが初めは全く見えなかったんです。資料が増えれば増えるほど、博士論文として纏めるためにはどうやって研究したらいいのか悩むことが多かった。

(左)檜の会の方からお借りした当時の学生の作品(右)檜の会の記念バッジ

論文を書く、残していく、未来へ伝えてゆくということは、社会的使命のようにも思えます。 

集めた資料が膨大であったことで責任が大きくなり、論文はその資料を見せていただいた方への恩返しという感じでした。もらった、借りた、もうやるしかない、と。未定稿のよくわからない原稿から参考文献を探しあてて推理をする人もいなかったし、中村さんの教育の特異性を語り継ぐ人も減ってきた。桧の会の方々も皆さんお年寄りで、中村さんに教育を受けた方でも最年少で88歳くらいで。僕がここで中村さんの研究を続けないとそれらの資料が永遠に葬り去られるのではと思って続けていましたが、研究を進めていてもやっぱり時期が遅かったなと思いますね。

個人的には、どこの学校でもそうですが、学校としてどういった先生がいてどのような教育を行ってきたのかという情報を保存することは今後重要になってくると思います。教育は常にフィードバックしながら前進していくものだと思うんです。僕は横国が近代以降の日本の建築教育史的な観点から見ても教育に情熱を込めた優れた学校だと思っています。特にその設計教育への情熱は横国の設計意匠講座の伝統のような気がします。
戦後、横国の設計意匠講座の祖となる、かつてバウハウスの流れを汲んだウルム造形大学で学んだ河合正一先生は、実は建築教育研究者としての側面も持っていました。その後の山田弘康先生はアメリカのイェールの大学院を修了されていますが、教育制度や資格制度についての発言もなされていました。また、一時期講師を務めていた三沢浩先生は、アメリカの教育スタイルの導入を図ったりした。中村さんから考えれば、フランスとドイツとアメリカといった世界の建築教育との相対化が図られていて、それらが複合的に融合して教育システムが意図的に構築された可能性もある。こうした多様な教育観を融合して醸成していく伝統を北山さんが引き継いで、AAスクールやオランダの教育システムとともにさらに複層的に現代的に昇華され、総合的な分析の結果、Y-GSAのスタジオ教育につながっていったように思います。

実験的な教育を行ってきた伝統はある意味研究論文さながらで、それこそ横国の教育をこうした過去から現在まで含めて一つの大きな筋をつくって考えていけば、数十年後も横国の建築教育が常に革新的なものとして生き続け衰退することはないでしょう。僕は戦前の中村教育部分だけをまずはしっかりやれればいいかなと。多くの方からいただいた資料や教えていただいた情報をまとめていくことで、たとえ、直近では役に立たなくても100年後に誰かの役に立てばいいなと思っています。

最後に学生に一言いただけますか? 

設計と同じくらい文章を書く練習も大切だと思います。学生の時から設計の説明を文章化して、世の中の一般の人が読んでもわかるように客観化する。文章の構造を意識してまとめることを繰り返すと、将来何かを説明する時に非常に有用になります。学生の皆さんも、自分の作品を正当化する言葉と説明する流れを身につけることで、自分たちのやっていることをもっと社会に対して発信していくことができるのではないかと思います。

学生の頃を振り返ると、設計は好きで図面を書いたり模型をつくったりすることのは楽しかったんですが、それをうまく説明する「言葉」がなかった。学生の時にバイトで設計の実務を垣間見て、プロポーザルなどではすごく文章力が必要とされていて、それも世の中に伝える文章を書けなくてはいけないと思っていました。そんな問題意識をもってフランスで研究の仕方や論文の書き方を体得したことで、説明するための文章構造の大切さがようやく理解できたような気がします。言葉や文章は建物ほど壊れる心配がなく「伝えていく」「残していく」ことができる気がします。そういったものも書き留めて残していけたらなと思ってここ数年論文を書き続けています。

 

 

ありがとうございました。

インタビュー構成:板谷優志(M2) 住田百合耶(M2) 坪井曜子(M1) 諸星佑香(M1)

         井原賢士(B4) 鈴木菜摘(B4)

インタビュー写真:井原賢士(B4)


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