interview#051 栗生はるか


栗生はるか(くりゅうはるか)

1981年東京生まれ。2004年早稲田大学理工学部建築学科(古谷誠章研究室)卒業。2005年-06年ヴェネツィア建築大学へ留学し、2007年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程修了。2008年-12年NHKアート、2012年-15年横浜国立大学Y-GSAスタジオアシスタント。2015年より法政大学教育技術員。2016年より早稲田大学非常勤講師。文京建築会ユース代表。せんとうとまち主宰。Mosaic design ディレクター。文京建築会ユースとして「これからの建築士」賞、受賞(2015)。

 

今回は、まちづくりや建築に設計以外の様々な面から関わり、文京建築会ユース代表として地域に根ざして活動する栗生はるかさんにインタビューをしました。大学院時代のヴェネツィアへの留学、NHKアートへの就職、その後横浜国立大学Y-GSAスタジオアシスタントを務めるなど、異色の経歴をお持ちの栗生さんですが、お話を伺うと「都市を使い倒す」という一貫した精神が見えてきました。

 

—大学、大学院では建築を学んでいらっしゃいますが、なぜ建築学科を選んだのですか?

ものづくりが昔から好きで。でも美術大学ではなく総合大学で文系から理系まで、様々な人たちがいる中でバランス感覚を養いたい気持ちがあり、早稲田の建築学科を選びました。いろんな影響を受けたいと思ったのは大きいかもしれないです。

 

—大学院時代1年間ヴェネツィアに行かれて、修了後NHKアートに勤めるという、一見すると不思議な経歴をお持ちですが、どのように次の進路を選択していったのでしょうか?

ヴェネツィアへの留学は大きな転換点でした。建築、都市、地域に向き合う姿勢が変わった。元々イタリアが好きで影響は受けていたけれど、行って尚更、今後自分がどうそれらに向き合っていくべきかわかってきました。向こうは古代・中世から残る古い街で、東京みたいに建てたり壊したりがすぐにできる状況じゃない。その中で、仮設物を利用したり、生活スタイルを街にフィットさせたり、様々な方法で街を使いこなしています。都市空間や建築を活かしてすごしている、それが豊かだと感じました。日常生活もさることながら、年間を通した様々な催事で、同じ空間なのに全然違う表情に見せるスキルが素晴らしくて。日本の現代都市では、その空間を使いこなすスキルはあまりないと感じ、帰国後、周りのみんなが“建てる”仕事に就くのなら、私は“活かす”を極める方向に行こうと思いました。それで文化的なイベント・展示の企画デザインや施設の運営などを行う部門を持つNHKアートというNHKの美術の会社に就職したんです。NHKアートでは、大勢の多様な主体、職種の人々、場合によっては数百人が関わる現場を束ねながら、スピーディーに一つの出来事をつくり上げる経験をしました。

アイソメでのインタビュー風景

 

—ヴェネツィアで学んだことについて、もう少しお聞かせください。

ヴェネツィアでは、ほとんど大学には行かず、イタリア中を巡っていました(笑)。都市空間や生活の豊かさ、ともかく誰もが幸せそうに暮らしている秘訣が探りたくて、各地の「お祭り」を追いかけて回りました。幼い頃からお祭りが好きで、都市空間が一夜にして激変する様に元々興味を持っていました。そこで、多様な催事が街中で繰り広げられる様子に感銘を受けたんです。ヴェネツィアは島だから物理的な制限が多く、仮設物などで工夫することで、街を使いこなしているんです。伝統的なお祭りがある一方で、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」など国際的な現代のイベントもあるから、年がら年中街中でお祭りをやっています。その状況が、自分の興味と繋がってリサーチができました。

観光客も行き着かないような小さな山岳都市なども訪れましたね。そこでは、街全体が1日にして劇場になるようなことが起こります。お祭りのメインの時間帯はもちろん華やかで面白いのだけれど、都市空間をどう使っているのかが気になっていたので、前夜祭や後夜祭、設営の様子を見たくて、早めに訪れて、前夜祭の仲間に入れてもらい、街の人と一緒に食事をして……。住人が長い歴史の中、継承してきた思い、技術などを一緒に観察していました。

シエナの前夜祭

山岳都市スペッロのインフィオラータ 一晩中かけて町全体が装飾される

ヴェネツィアのカーニヴァル サンマルコ広場が劇場となる

 

—NHKアートを辞めて、Y-GSAのコースアシスタントになった経緯を教えてください。

“空間を活かす”修行としてイベントの仕事を選びました。商品ではなく、文化を発信していきたいという思いがあり、NHKアートの文化事業開発という部署に入りました。そこでディレクターとして、大型展示会や博覧会、例えば、日本橋架橋100年記念「日本橋お江戸舟運まつり」というまちを使ったイベントの企画から制作、当日運営までを担っていました。また、「そなエリア東京」という常設の建物の立ち上げから運営、展示の企画を行ったりしていました。仕事内容は面白かったのですが、ずっと続けていくのは大変だと感じて……。仕事柄公共的な側面も強く、万人受けも重要視されるので、なかなか尖ったこともしづらい。今となっては良い経験だったと思っているのですが、少し限界を感じていました。そんな時、Y-GSAのコースアシスタントのお話があって。Y-GSAでは、イタリア留学の経験を活かしてトークイベント『都市を仕掛ける「ヴェネツィアに学ぶ都市の思想と文化の仕掛け」』を企画するなど、3年間教育プログラムに携わりました。

 

—現在代表を務めている文京建築会ユースでの活動は、いつ始められたのですか?

文京建築会ユースは、会社を辞める1年程前からやっています。東京建築士会と日本建築家協会の文京支部が合わさって、文京区では一緒に活動をしようと母体である文京建築会が立ち上がり、その若手団体を作りたいと声がかかり、2011年に発足したんです。その当時は、今のようにここまで掘り下げて活動するとも思わず始めました。

 

—具体的にはどんな活動をしているのでしょうか?

現在は3、4人が固定メンバーで、あとは学生が出入りしています。文京区の在住、在勤者が多いけれど、関係ない人もいるし、建築家ではない人もいる、多種多様なメンバー15名くらいの有志団体です。

最初は、自分の身の回りの身近な魅力を掘り起こして発信するところから始まっています。といっても、何から始めたら良いかわからない……。そんな中で、路上観察で著名な林丈二さんに尋ねると「まずは狛犬」と言うので、素直に狛犬を調べて回りました。文京区だけで30箇所60体もあるんですよ。それを全部回って、胸囲や後ろ姿を記録したものを地域誌に載せてもらったり、背の順に並んだ絵葉書を作ったり。その絵葉書は文京区役所で販売していて、今もロングセラーです。でも1日で60体も調べて回る作業は大変すぎて、その日のうちに何人もメンバーが脱落しました(笑)。

狛犬の後は、区内のお団子屋さんを全部回って団子の硬さや個数を調べたり、最近では豆腐屋さんを調べたり。調べていると豆腐屋さんの近くには井戸があり、その近くには銭湯があるというような関係性がわかってくるなど、少しずつ地域が重層的に見えてくるようになりました。街歩きだけでなく、文京の面白い場所、自慢したい風景を絵はがきにする「文京・見どころ絵はがき大賞」(文京建築会と共催)の企画に携わったり、同じく地域で活動する地域団体の情報発信のための屋台「文京いんふぉ」を作ったりもしました。

近年は本郷界隈の旅館の調査をしています。「朝陽館」という、明治時代から続く大きな旅館が昨年閉じてしまって。40室以上の客室の天井が全部違う造りになっていたのですが、建物は戦後に再建されていて、戦争が終わって自由に生きられるぞ!という喜びがそのまま建物に表現されているような意匠でした。実はこの本郷エリアは、昭和初期の頃は東大の下宿屋から転じた旅館が120軒程もあったそうです。けれど、そもそもその事実すら、皆知らない。それがどんどん減っていて、「朝陽館」がなくなってしまった今、当時の面影を残す大規模な旅館は「鳳明館」しかありません。今年7月には、それらを紹介する展示「歓迎!本郷旅館街」も開催しました。

文京いんふぉ屋台 自分たちで地域の活動を発信する提案

[歓迎!本郷旅館街-100軒のおもてなしがつくったまち-」展文京シビックセンター/2017年開催

 

—文京建築会ユースは、「銭湯」のイメージが強くあります。

最初は銭湯のキッチュな風貌に惹かれてリサーチを始めたのですが、実際はソフト面でも大変魅力がある場所でした。まさに現代社会に欠けているコミュニティーの拠点がそこには未だ生き残っています。

都内では銭湯が計算上、1週間に1軒のペースで潰れていると言われています。今はもっとかもしれません。風情ある宮造りの銭湯からなくなって、コインパーキングや高層マンションなどに置き換わってしまう。昔は銭湯でお葬式をするなどまちの公民館のように使われる文化もありました。井戸水を利用し、地域の廃材を風呂炊きの薪にして使う様子はまさに地域循環型のエコシステムです。高齢者の未病や児童の見守りなど福祉的な側面も期待される地域のセイフティーネットとも言えます。最近は井戸水の活用から防災拠点としての可能性も見えてきました。銭湯は、いわば「地域の生態系」を支える拠点なのです。銭湯がなくなると近隣に風呂なしの空き家が増え、商店も同時になくなり、「地域の生態系」が崩壊するようなことが起こります。

なので、なんとか銭湯という場が残るよう維持や活用の提案もしますが、都会の中心で銭湯を残すのは至難の技です。そこで、少しでも銭湯の持つ記憶や価値、コミュニティーの拠点としての機能などの要素が、次世代へつなげられないかと「まちつぎ」と題して様々なアプローチをしています。実測や地域の企業の協力を受けた3Dスキャン、ドローンを飛ばして記録することもあります。それを、展覧会で1/1の再現や図面の展示をしたり、現場で見学会をしたり、冊子も作ります。他にも、有識者会議を開いたり、耐震診断をしたり。解体する場合は、ミュージアムやカフェなどで家具や建物の一部を引き取ってもらい活用してもらうこともあります。

保存運動というよりは、何をどう繋いでいくのかが重要だし、それ以前になくなってしまうことを防ぐために、住民の日常的な地域への向き合い方を育みたい。イタリアでは「一生この街から出たくない」と言う住民がいるくらい、地域愛が育まれています。現在の日本では、地域が育んできたものが大事だとみんなわかっていても、結局お金や数値で置き換えられてなくなってしまう。そこに隠れている私たちの一生よりも長いストーリーをスタイリッシュに可視化して、共有することで、少しでも結果が変わればと思っています。

実測日の集合写真_月の湯

「月の湯」ペンキ絵の引き取り

「ご近所のぜいたく空間”銭湯♨︎”」展 文京シビックセンター/2013年

「文京の銭湯」全12冊

 

—今回お邪魔している根津藍染町の「アイソメ」も、古い建物とお聞きしました。ここはどういったスペースなのでしょうか?

文京建築会ユースの活動がきっかけで、この場所が空いた時に活用しないかという声が掛かりました。ここは昔から藍染町という町会の神酒所として使われている場所。固定の店舗が入ってしまうと、お祭りの時に使えなくなるので、「地域サロン」として使い始めることで、町の拠点を維持していくことにしました。隣が薬局とケーキ屋兼ゲストハウスの築100年以上の6軒長屋の一角です。1階はレンタル可能な地域サロン、2階はシェアオフィスと住居として貸し出しています。増築が繰り返されている建物で、そうそうお金も掛けられないので、最低限の改修にとどめています。目の前の藍染大通りが週に1回歩行者天国になり、地域の広場として非常に豊かに使われるので、ここも引き戸を開けて道と一体化して使うことも考えて。特有の風情に馴染み、様々な世代が立ち寄り易いよう、おしゃれな空間になりすぎないことも意識したりします。

 

根津の地域サロン「アイソメ」 通りと一体化させて活用(設計/Mosaic Design+山村咲子建築アトリエ)

根津の地域サロン「アイソメ」 年に一度、神酒所となる

 

—栗生さんは設計事務所モザイクデザインの一員でもありますね。その肩書きが、「建築家」ではなくて「イベントディレクター」であることが面白いと思ったのですが、どうしてそう名乗るのでしょうか。

実は肩書きには困っています。心の奥底では、自分は建築行為をやっていると思っていて、これも建築家だと堂々と胸を張って言っても良い時代が来ると思うんですけどね。今のところ地域に関わる活動は仕事になっていないので、建築家とは名乗っていません。会社に勤めていた時の「ディレクター」という言葉は便利だと思って使っています。「活動家」と呼ばれることもあるけれど、それはちょっと過激そうだからやめてほしい(笑)。

 

—NHKアート時代からフィールドは変わったかもしれませんが、多くの主体を巻き込んでプロジェクトを進めていくという点では、一貫していますね。

今は、法政大学をメインに早稲田や東大などに出入りしているので、その授業の一環で建築や地域の調査を学生と一緒に行うことも増えてきました。アカデミックとフィールドをうまくつなぐことが重要で、自分の役割だと思うこともあります。街に興味を持つことの重要性をどうわかりやすく伝えるか。詳しく表現しすぎるのではなく、最初に面白いと思ってもらうきっかけをつくって、後から深めてもらえば良い。私自身、変わった分野を渡り歩いて来たので、専門性がないのですが、いろいろな立ち位置、分野を浅く広くやってきた自分だからこそできることを活かしていきたいと考えています。

 

—こういった地域のリサーチやまちづくりは収入になるのでしょうか?

なるべきだと思うのですが、今の時点で継続的な収入にはなっていません。結局ある特定のクライアントがいる訳ではないのですよね。誰にも要求されていない、けれどみんなが必要だと思っていることだったりするから、どこから経費が出るのか定まりづらい。クライアントは個人でも企業でもなく、「みんな」とも言えます。そういうものをどうお金にしていくのかきちんと考えないといけません。

一方、経済活動にのっかっていない分、お金を通してでは絶対出会えない人との出会いもあります。お金が発生しなくても思いだけで動ける熱意を持った人が集まることの価値はある。ただそれだけではお互いにやっていけないので、難しいところです。文京建築会ユースは学生や別の仕事を持つ人たちの集まりなので、今後は「せんとうとまち」という別組織を作って、そこでお金を生む仕事をしていこうかとも検討しています。

私自身は、法政大学、早稲田大学、モザイクデザインといろんなところに所属しているので、マルチインカムです。地域の活動の延長上で、大学の強みを活かせるケースは学生と一緒に、建築設計の強みを活かせるときがあったら設計側としても関わります。その都度選べる、わがままな立ち位置ですよね(笑)。

 

—Y-GSAのコースアシスタントを経験し、今少し離れた立場にいらっしゃる中、学生に向けての言葉があれば教えてください。

ぜひ、山から下りてきてください(笑)。

今までお話ししてきたように、私の個人的な興味としては、まず人ありきで、地域、都市があって、その先に建築があります。Y-GSAは建築家の養成に特化しているので、最初は少し抵抗がありましたが、都市と建築のあり方について先生や学生と一緒に考え抜く環境に身を置けたことは、本当に良かったと思いますね。それと、建築の基礎教育が生み出す社会への影響を、もっと寛容に考えた方が良いとずっと感じています。必ずしも建築家になるのが全てではなく、各々の得意分野で活躍すればいい。学生の皆さん、Y-GSAでの2年間を過ごせば、なんでもできますよ。

 

インタビュー構成:和泉芙子(M2)、金子摩耶(M2)、石原結衣(M1)、鈴木菜摘(M1)、水野泰輔(M1)、池谷浩樹(B4)

インタビュー写真:水野泰輔(M1)

イタリア・プロジェクト写真:栗生さんより提供

 


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