山本理顕(やまもとりけん)
1945年中国北京生まれ。1967年日本大学理工学部建築学科卒業。1971年東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻修了。東京大学生産技術研究所原広司研究室研究生を経て、1973年山本理顕設計工場設立。2007~11年横浜国立大学大学院Y-GSA教授。11年〜13年、16年〜横浜国立大学大学院客員教授。主な作品に「埼玉県立大学」「公立はこだて未来大学」「東雲キャナルコート」「横須賀美術館」「福生市庁舎」など。現在、スイスチューリッヒ国際空港隣接の複合施設「ザ・サークル」が進行中。
今回は、建築家・山本理顕さんへインタビューです。Y-GSAの校長を2007年の開校より4年間務めた山本さんは、昨年から教授に復帰し、再びスタジオを持っています。山本さんの自邸である「GAZEBO」の中庭にて、建築と向き合った学生時代から最新作を通じて考えていることまで、お聞きしました。
山本さんが設計した自邸であるGAZEBOでインタビューをしました。
———まずは、学生・研究室生時代についてお聞きしたいです。学部は日本大学、修士過程は東京藝術大学で学ばれた後、東京大学生産技術研究所の原宏司研究室に所属されています。建築を志したきっかけを含めて、そこまでの経緯を教えてください。
僕は、戦争が終わって2年後の1947年、2歳の時に北京から引き揚げてきて、この場所(現在GAZEBOが建つ場所)で育ちました。母親は薬剤師で、ここの1階で薬局を営んでいました。父親は引き揚げて来てから、すぐに結核になって亡くなってしまいました。母、弟、祖母と叔母の5人家族で、母が1人で働いていました。
建築学科へ進んだのは、当時は今とは違い建築土木が最大の花形だったからです。1964年に東京オリンピックがあり、日本は高度経済成長期。現在のIT関係に匹敵するくらい、当時この国の成長を支えていたのが建築だったんです。それで日大の建築学科に入りました。
1960年代の終わり、僕が大学院に進む頃に70年安保の学生運動が起こり、日大の紛争をきっかけに日本中に飛び火したんです。そんな中、藝大の大学院に進みました。1968年には、パリのカルチェ・ラタンで、今では五月革命と呼ばれる大きな紛争が起きました。大学が閉鎖されてしまうなど、すごく激しい動きだったんです。日本でも同じ頃に、明治大学、東京大学、横浜国大などでも大きな紛争が起こり、藝大でもありました。僕が所属していたのは、山本学治という建築史の先生の研究室。マルクス主義的な歴史観を持った人でした。紛争の時、山本先生は大学側の代表として学生達を懐柔する側の中心で、僕は反撃する側の中心だったんです(笑)。
大学院に3年間いて、修了後の就職をどうしようかなという時、同級生の何人かは槇(文彦)さんや磯崎(新)さん、大高(正人)さんの事務所に就職しました。でも、僕はなぜ就職なんかするんだと思っていた(笑)。なんで今まで自分が反抗していた当のところに所属しちゃうのかなと。僕は就職する気は全くなくて、当時、原(広司)さんが東洋大から東大の生産技術研究所に移って研究室を持ったばかりで、そこに研究生制度があるのを聞き、原研の研究生になりました。そこが、原先生と色々な建築の話をする最初の場所だった。建築を現実のものとして考えるのはそれからですね。
———原研究室では、どんな活動をしていたのでしょうか?
原研に入ったら、集落調査をお前が中心になってやれと言われました。現在槇事務所副所長の若月幸敏と、その後東大の教授になった藤井明の3人でコースを決めて、とりあえず海外の集落調査に行くということになった。明確な目的はありませんでした。当時、「SD」編集長だった平良敬一さんが取材費として100万円を出資してくれたんです。45年前の100万円って言ったらかなりの額ですが、十数人のチームだったため、その額では足りず、みんなでアルバイトして調査資金を稼ぎました。僕にとっては、それが初めての海外旅行だったし、初めて建築というものを一生懸命見た、とても衝撃的な旅でした。
―――最初の調査では、どのくらいの期間で、どこの集落へ行ったんですか?
すごくたくさんの場所にいきましたよ。最初はパリへ行って、プジョーを2台レンタルしました。道で偶然俳優のジャンポール・ベルモンドに会って「パリってすごい」と思ったことを覚えています(笑)。主に僕が運転してパリからスペインへ、そしてモロッコ、アルジェリアへ行って、チュニジア。そこからまたイタリアに行き、南下してトルコをまわって、モスクワ経由で日本に帰ってきました。1日2、300km走ったかな。それで1日2,3ヶ所くらいの集落を調査しました。
東京大学原研究室 集落調査〜中南米地域(1973年) ©山本理顕設計工場
———集落調査で得た衝撃や発見というのは、具体的にどういったものだったのでしょうか?
僕は大学院の時は住宅の研究をしていたんです。当時日大には、「個室群住居」という住居形式を提唱した黒沢隆さんがいて、こんなことも考えられるんだと学びました。それまでの住宅の考え方はリビングルームと寝室という、部屋の組み合わせだけだったんですよ。でも黒沢さんは、「住宅にはリビングルームと寝室があって家族が住む、その住み方自体が果たして正しいのか」、「家族という関係自体がおかしいのではないか」と提起して、僕はかなりショックを受けたんです。黒沢さんは父、母、子、家族全員に個室を与え、そしてリビングルームを加えて、住宅をつくった。家族を個室に分解したんです。でも子供や父親、母親という呼称は、家族という単位の内側でのことでしかない。黒沢さんはそこに、気が付かなかったんだと思います。僕もずっとそれに気が付きませんでした。
でも、集落調査に行ったら、住宅という形式そのものが存在しない。台所だって1住宅に一つじゃない。スペインは農業共同体の家父長制が割としっかりしているけれど、モロッコなんかに行くとどこまでが一つの住宅かわからない。「ここの家の人、集まれ」と言うと、わーっと子供達が集まってくる。「ここはお前のうちか?」って聞くと全員が「そうだ」と答える(笑)。調査していて、もう誰がどこの家の人かわからない(笑)。自分の家っていう概念が違う。近代的な住宅の成り立ちと全く違う住宅を調査していることに途中で気がついたんです。
僕は、大学院の時に「住居論」という題で、住宅のプランとそこに入る人格をひょうたん型図式に当てはめて、論文としてまとめていました。なので、どこに行っても住宅は全部そのひょうたん型の構造になっていると信じて、そのスキームを持って集落調査の旅をしていました。そしたら、自分が考えた仮設がうまく当てはまらなかったんです。でも、だんだん、1住宅ごとにその図式を当てはめようとしても合わないんだけど、集落全体とその住宅との関係を見ていくと、うまく当てはまることがわかってきた。
それで色々なことに気がつきました。住宅というのは「1住宅=1家族」じゃなくて、様々な単位が考えられる。小さい単位は大きな集合のただの部分集合に過ぎないのか、中心を持ったまとまりなのか、それは集落のつくられ方によって違うと気がつきました。それが原研究室での一番の発見です。大学院の時までは1つの住宅の中に閾のような空間があると思っていたけれど、住宅が集合した時に、その集合の単位に閾があるということがわかった。それで、「領域論」という論文を書いたのが26歳の時です。
―――その後、原さんの研究室を出てからご自身の作品を作り始めるまでの経緯を教えてください。
原研に入って2年経った頃、藝大時代の同級生が参宮橋で設計事務所を始めたんですよ。彼は、大きな開発会社の社長と懇意になって、設計事務所を作り、マンションの設計を始めた。儲かっている彼に僕はコバンザメみたいにくっついてね(笑)。その会社と僕も仲良くなって、僕に、その開発会社が持っている土地を有効利用しようというプロジェクトを依頼してくれた。それが独立のきっかけです。
当時の事務所経費は月10万円程度でしたが、それでなんとか生活できました。元倉(真琴)さんや他の仲間たちはまだ事務所に勤めていた頃で、僕だけ先に独立しちゃったから、何か計画したいという知り合いは、とりあえず僕のところに話を持ってきてくれて、ラッキーだった。1977年に竣工した「山川山荘」もそうした経緯です。
山川山荘(長野県) ©山本理顕設計工場
―――その後、元倉さんも槇事務所から独立されて、代官山の「ヒルサイドテラス」で事務所をシェアされていたんですよね。
はい。元倉さんが「ヒルサイドテラス」の設計担当だったこともあって、その一室を借りることができたんですよ。コアメンバーは、僕と元倉さん、飯田(善彦)さん、家具デザイナーの藤江和子さん、今名古屋造形大の教授の西倉潔さんたちでした。その頃は、仕事なんかそう多くないから、住宅の仕事が一つあると、永遠に設計をやっていました。だから提案を施主に持って行って、プレゼンが通らなくてまたやりなおしになっても、また設計できると思ってむしろ嬉しかったですね(笑)。
―――集落調査での気づきが、自分の建築の設計に生かされたことはありますか?
初期の住宅では、閾のような場所を必ずつくっていました。成功したものもあるし、失敗したものもあります。今では多少柔軟になったかもしれませんが、僕は他の建築家と比べれば相当図式的です。集落調査に行った時に、集落を図式的に見たんです。原さんは集落を風景として、僕は図式として見ました。原さんは、集落の風景が「大和インターナショナル」のような作品につながっていったと思う。
―――その後、個人住宅以外にもさまざまな規模のプロジェクトを手掛け、『地域社会圏主義』を始めとする著書も出されていますね。何を目指して建築を思考されているのでしょうか?
我々が設計を発注される時、「一つの住宅に一つの家族が住むように設計してください」と言われますよね。「隣に住む人は誰ですか?どういう人ですか?」とは聞きません。住宅は私的空間です。そういう限界が常にある。しかし、建築と周辺との関係をつくることが建築家の役割だと思います。建築単体でも常に周辺との関係を考えますが、もっと大きい範囲の中でそういう提案ができないかと考えたのが『地域社会圏主義』のきっかけです。
もう一つはハンナ・アーレントの本を読み始めて、彼女が同じようなコミュニティー単位について考えていること、そして彼女の空間的に思考するという独特の方法を多くの人が全くできていないことに気が付いたんです。多くの経済学者や社会学者にとって、空間は関係ない。経済学者はマンションを作るといくら儲かるかを考える。社会学者はジェンダーやそこでの住人のストレスについて考える。でも実は、空間とともに考えないと、人間の関係はわからないと思うんですよ。現在、『脱住宅』という本を仲俊治さんと共に執筆中で、そこでは建築を経済圏と一緒に考えた方が良いのではと提唱しています。
―――アーレントの空間的思考とは、どういったことでしょうか?
アーレントは、コミュニティーという空間の内側にいることがいかに重要かを説きました。人々の生活や考え方がいかに空間から支配されているか、それをよく知っていたからです。サルトルやハイデガーは、個人がいかに生きるべきかについて言及しましたが、アーレントはそうではなく人間の複数性、他者と共にいることに注目しました。「一人でいるのが自由なのではなくて、私が他者との会話に自由に参加できること、それが自由の本質的な意味」だと言いました。アーレントは、ハイデガーによる空間の考え方を逆転してしまったんです。それがだんだんわかってきて、『権力の空間/空間の権力』(2015年、講談社)を書いたんです。
―――山本さんが良いと思える建築や街についてお聞きしたいです。昨年行われたY-GSAのレクチャーでは、デンマークの「オーフス市庁舎」を挙げていらっしゃいましたね。
オーフス市庁舎に感動したのは意匠というより、中にいたおばさんに対してです。市庁舎の近くに住むおばさんが、手すりを磨いている姿に感動した。近所の人が「これは私たちの建築だ」と言える建築が、シンプルに良い建築だと思います。「作品」という時に、建築家自身の「作品」でなく、近所のおばさんも自分の「作品」だと思えるということがその本来の意味なんですよね。
作品であるためには、使う人達や周囲の人達がこれは作品だと承認してくれないと駄目ですよね。他者との関係が作品を作るのであって、建築家だけでただ作品を作れるわけではない。作品は「the work」という定冠詞です。自分で定冠詞を作るわけにはいかない。建築家は地域社会の人々に認めてもらう作品こそ作るべきです。
オーフス市庁舎(デンマーク) 撮影/編集部
―――しかし昨今、建築家がなかなか大きな建物を建てる機会が少なくなってきています。プログラムが住宅など小さな規模であっても、地域の中での関係性は作っていけるのでしょうか?
例えば、仲さんが設計した「食堂付きアパートメント」は良い例で、たかが4、5世帯の集合住宅だけれど、地域の中心になっている。放っておいたら、1階が普通の店舗になってしまうところを、施主と話をして、自分達で運営まで関わって。どんなに小さい住宅でも地域との関係性をつくることはできますよ。
これからは住宅を作ったら、そこで商売をするべきではないかと思っています。昔は家業があって住みながら儲けていたけど、20世紀に入り住宅は多くがサラリーマン専用になってしまったから、住むだけでは消費するだけで収入がない。現在、「GAZEBO」の1階も改装して、夜はワインを出すようなカフェにしようと施工中です。飲みに来てください。
GAZEBO (神奈川県)©山本理顕設計工場
―――建築の定義が広がっている、建築家の職能が変わってきていると言われることが多いですが、この点について山本さんはどう感じていますか?
建築はそれ自体であると同時にその周辺との関係を作るものであると思います。今後ますます建築は重要です。建築がないと関係性が作れないから、それは建築家の最低限の義務だと思います。IT業界の人々は、ひとつの計算式のまとまりをのことを「アーキテクチャー」と言います。それは日本語で言うと、おそらく「建築化する」ということなんだと思います。建築もコンピュータの中の「アーキテクチャー」も、英語だと同じ「architecture」なのに、日本語ではコンピュータ用語はカタカナ表記になってしまう。つまり、カタカナの「アーキテクチャー」は漢字の「建築」とは違うものだと認識してしまう。でも英語にすると同じarchitectureであり、英語圏の人達にとっては差がないものです。本質的に、建築は関係性を作るという意味を含んでいるんです。
―――現在、チューリッヒ国際空港の複合施設「ザ・サークル」が建設中ですね。そのプロジェクトを通じて、建築について新しく感じていることを聞かせていただきたいです。
このプロジェクトは、施主から「200年以上もつ建築を作って欲しい」と言われているんです。それは、空港側が「きちんと200年間メンテナンスします」という意味でもあります。日本の住宅の平均寿命は、マンションも戸建て住宅も含めて27年。それでは、街なんかできるはずがありません。でもスイスの街は500年間そこに存在し続けていて、200年という年月も控えめに言っているのだと思えるほど(笑)。でも、その200年間の途中で社会状況が変わって役に立たなくなってしまうこともある。改めて、「時間に耐える建築」ということを考えています。建築がそこに存在し続けるとはどういうことか。時間に耐える建築を作るためにはどうすべきか。
The Circle チューリッヒ国際空港施工現場(スイス)©山本理顕設計工場
―――そこでは、建築の外側との関係も重要なのでしょうか?
そう、外側との関係が最も重要です。街との関係をきちんと考えているかどうかです。
―――その時に建築の形は大事になるのでしょうか?
形は大事だと思います。外に対して訴えるのが形だからね。建築に対して「かっこいい」って思うことはやっぱり重要じゃないでしょうか。最近は「形のない建築」がもてはやされている傾向がありますが、「嘘つけ」って思っています(笑)。
―――「かっこいい」という指標には個人の好みが関係してくると思うのですが。
ある空間に共にいる人が、同じ形を見て同じように美しいと思う。同じものを見て同じように美しいと思うのは嬉しくないですか?それを「共感」と言うんです。その「共感」こそが共同体意識をつくるんだと言ったのがイマニュエル・カントです。共に同じものを見る、形があって初めて、人と自分が同じように考えているということがわかる。味や食感、匂いなど形のないものは自分にのみ固有のものだから、他者と共有することはできない。でも視覚で美しいと感じることは、自分だけではなくて、他者も美しいと思っているはずだ。カントはその美の判断を『判断力批判』という本で解説しています。アーレントはその『判断力批判』に食いつきました。「美しい」だけではなくて、自分が何かを判断する時は、きっと自分が誰かに対してその判断を正しいということを求めているはずだと、アーレントは気がついた。それが共同体の根本的な原因だと。つまり、”common sense”です。 それを日本語で「常識」と訳してしまったから、分かりづらくなってしまっていますが、”common sense”とは本来、「あなたも私も同じ気持ち」ということです。
―――Y-GSAを離れてから6年経って、再び教えようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
僕が信頼する建築家だった小嶋(一浩)さんが亡くなってしまったことが大きなきっかけです。小嶋さんをY-GSAの教授として呼んだのは、僕と北山(恒)さんだったんです。
―――当時、小嶋さんを呼んだのはなぜだったのでしょうか?
小嶋さんは、27、8歳の頃から、シーラカンスというチームで設計していました。設計する主体は誰か、何に向かって設計するのかを常に考えていた人だと思うんです。そして、シーラカンス自体が小嶋さんの作品にもなっている。そういう彼の設計に対する非常に真摯な態度みたいなものに共感していたからです。いい加減さというものが小嶋さんにはない。しかし、小嶋さんが亡くなってしまい、僕にも責任があると感じ、再びY-GSAでスタジオを持ち、レクチャーをしたいと思ったんです。
―――Y-GSAに戻って感じたことはありますか? 学生にアドバイスがあったらお願いします。
以前から言っていることなのですが、提案が途中で終わってしまっていることが残念です。最終プレゼンテーションのはずなのに、最終になってない。全体のコンセプチャルな考え方が良かったら、ひとつの作品に到達していないのに評価してしまう講評も良くないと思います。
これだけいろいろな建築家が先生として教えている学校なんて日本中、世界中探したってない。そしてこの状況は、そんなに長い間続かないかもしれない。今の時代を貴重だと思って全力で挑んだらいいんじゃないでしょうか。
―――ありがとうございました。
インタビュー学生メンバー:和泉芙子(M2)、金子摩耶(M2)、鈴木菜摘(M1)、石原結衣(M1)
インタビュー構成:
和泉芙子(M2)、金子摩耶(M2)、鈴木菜摘(M1)、石原結衣(M1)、水野泰輔(M1)、池谷浩樹(B4)、櫻井明日佳(B4)
写真:和泉芙子(M2)、石原結衣(M1)