《卒制2020》9/15-乾久美子-


 

 

《卒制2020》9/15 -乾久美子-

 

 

《卒制2020》インタビュー掲載企画、第六回は、乾久美子さんです。

乾さんは、三年後期の建築デザインスタジオ、卒業設計においてお世話になりました。改めて乾さん自身の卒業設計や当時の時代、Y-GSAでの教育について、お話を伺いました。

 

 楽観的に未来を捉えている

 

奥野 まず、乾さんが講評会で吉原賞に推薦した作品について「未来が見えてくる感じがすごく批評的に感じられ、また、その未来が軽やかにやってくる感じがあった。」とおっしゃっていたんですが、それについてもう少し具体的にお聞きしたいと言うのと、卒制が持っている批評性とかについてもお聞きしたいと思っています。

  卒業制作が社会的にどう意味があるかということですが、皆さんにとっては訓練ですよね。また、卒業するための乗り越えなきゃいけないハードルです。大学は職業訓練学校ではなく、学生の営みを通して何か新しい価値を研究しているような場所だと思いますが、そうした次元で、アカデミックには、思考の実験を行う場としての意味づけがあると思うんです。
 建築科の卒制は、学生にとりあえず今思うこと、感じていることを全部形にして下さいっていう、やや乱暴ともいえるやり方をしているわけですが、そうした中で皆さんが手探りで課題を見つけて、それに対してさらに建築の提案として回答するわけです。学部の4年生ですから、いろいろな意味で手探りだし、技術的に未熟なので、あまりうまく解決できないこともありますが、課題の見つけ方は大抵が面白く、何か先鋭的なところに触れていることが多いように思います。それは皆さんが優秀だということもあるし、若い目でいろんな疑問なり満足なりを社会から受け取りながら考え続けているから出てくるものだと思いますが、いつも面白いなと思って見てます。
 特に今年は、皆さんが、社会について、するどい視点から疑問を感じているようなところがあり、しかもそれなりに建築的な課題に消化され、さらに建築の作品にまで消化されてるようなところがあって、それがまず素晴らしいと思いました。

金子 未来が向こうからやってくる感じみたいなことをおっしゃっていて、それが余計にその未来が見えてくることの現実性を強めているみたいな感じが「軽やか」ってことなのかなと思ったんですが…。

  いい意味で皆さんが楽観的に未来を捉えていることを軽やかさと言ってしまったのかもしれません。楽観的っていうのは考えてないっていう意味ではなくて、それなりに重い課題を考えているんですよね。社会の矛盾とか、普段であればなかなか解決できないようなことだったりしますが、それに対して意外な側面からそれが解けるんじゃないかっていう楽観的な想いみたいなものがあることが、軽やかさに結びついていたような気がします。

 

 時代に対する違和感

 

奥野 乾さんが学生時代に卒制で感じていたこと、また乾さんご自身の卒制についてもお聞きしたいです。

  私は一九九二年に卒業しているので、二八年前ぐらいですね。バブル経済が崩壊したといわれる時期です。崩壊して変化が見え始めたんだけど、そのことを感じている人とそうでない人が分かれていた。なので、学生のプロジェクトも能天気なものが結構まだまだ多かったです。巨大開発プロジェクトとか、巨大な美術館や空港みたいな…。

金子 今の中国みたいな感じですか。

  そう、建設万歳みたいな感じのプロジェクトが9割ぐらいあって、なんとなくおかしいんじゃないかなって思っている人が1割ぐらいいるっていう、そんな感じですね。
 私は実家をサイトにしました。宝塚で、もともといい温泉街だったのですが、温泉が枯渇し、大阪や神戸の郊外のひとつへと変化しつつあった時期で、環境が簡単にかわっていってしまうことを実感として感じていたので、それについて考えたいなというふうに思ってやったのが卒制でした。

金子 乾さんは9割の人ではなくて、1割の人だったっていうことですね。

  そう。だからあんまり伝わらない。評価する側も9割の方にいる先生の方が多いから、問題を共有できないという感じがありました。

奥野 9割じゃなくて1割っていうことだと、形の問題というよりも、そういう地域の特徴とかネガティブな部分にフォーカスしてどうしていくかみたいなことですか?

 温泉街って面白くて、旅館もあれば、芸者さんもいれば、温泉客もいれば、ラブホテルもある。すごく多様な世界なんですよ。それがすごく好きでした。何かみつ実な世界がある、という感じがしたんです。それがマンション街になると均質化していくんですよね。それが、残念で、おかしいなって思うんだけど、変化は止められません。そこで、マンションとか住宅とかと無関係の何かをそこに投入することにしました。今や当たり前の選択肢かもしれませんが、アートです。当時は地域的なアートといえばドクメンタ★1ぐらい、あとビエンナーレとかですね。有名なヤン・フート★2による、表参道のまちをつかった「水の波紋」展よりも前です。自分なりにビエンナーレとドクメンタを勉強して提案したのですが、それも全然伝わらなかった。ドクメンタってなに?みたいな感じだったんです。

金子 乾さんは、マンションが建って街が均質化していくことに対して違和感とか危機感みたいなのを多分感じたから、そういう提案になったと思うんですけど、私もそういう均質化とかについてはなんか変だなと思うことがあるんですけど、それがどういう動機から来るのかというのが自分はわからなくて。乾さんはなんでそういう違和感が生じたんでしょうか?

  バブルとの時期と学部時代が完全に一致してるんですよ。なので、いろんなものが壊されていくのを見ながら学生時代を過ごしました。いいな、おもろいなと思ってた街が巨大な開発のためにどんどん壊されていくのが日常だったのです。東京都内は特にそうで、おもろい思っていたところが、突然、仮囲いで囲われてアクセスできなくなっていく。誰でも変だなって思うじゃない。現在のグローバリゼーションへと繋がっていく流れですが、当時は、その意味を明確に理解できてません。しかし、生活者として本当に変だな、まずいなと思いました。

奥野  そういう違和感と大学院で海外にいくということは関係しているんでしょうか?

  それは関係していますね。不勉強もあったとは思いますが、日本だと、なんとなく開発志向の言論しかない感じがしていました。この国に今ずっと居続けると、危ない人になりそうだなっていう感じがした。藝大ということもあったのかなあ。

金子 それは乾さん自身の感性とはそぐわなかったからですか?

  そぐわないっていうか、感じている問題が違うというか。 自分が感じている問題点と大学が評価することにずれがあって、ここにいても学べない感じがしました。拙速な性格もあり、日本の他の大学ということはあまり考えず、とりあえずもう海外ですか、みたいな感じで行動しました。日本のバブル経済期は本当に狂っていたので、常識そのものがおかしい。おかしな服を着て、おかしな踊りをすることを容認する空気の外に出て、この国を相対的に見なきゃいけないと思った。
 あと、妹島さんが登場して間もない時代だったこともあるかと思います。日本の建築史の中で妹島さんの登場は歴史の転換点だと思いますが、当時は、妹島さん以前の建築というか、重くて、若者の心に響かない建築しか見えてこなかったのです。だから、デザインそのものも勉強も、このまま続けられる感じがしなかったのです。

金子 実際にアメリカのイエール大学に行かれて、どう日本を相対的に見ることができましたか?

  アメリカやヨーロッパで経済が崩れていたのが衝撃でした。日本がバブルエコノミーで浮かれている時に、彼らが下がり続けていた・・・。

金子 今の中国と日本みたいな。

  そうかもしれませんね。日本とは全く違う問題点が議論されているんですよ。アメリカは激しくて、街が本当にゴーストタウンになっちゃうんですよね。イエール大学の周りにも、完全にゴーストタウンになったエリアが多数ありました。大学のエリアから一歩出ると本当に危ないというように、生活にも直接影響がありました。ニューヨークもまだまだ危ない時期です。経済の不調や産業の変化によって街がおかしくなり、そこから、どうやって再生できるのかというような議論をしている。そうしたところにいきなりいくのは、かなり衝撃的でした。経済によって環境がこんなに変わるんだっていう。実際、日本がそうなると全然その時は想像できなかったので、対岸の火事みたいな気持ちもありましたが、大変だなあって思った。

 その中で、イエール大学はニューアーバニズムの考え方を実践、研究する先生が多かったので、まちづくりと建築デザインを同時に議論するようなベースがありました。それがおもしろかったです。ニューアバニズムの造形言語は面白くないので「これやりたくないなー」みたいな感じなんだけど、議論してる内容は正しいんです。どうやって、建築プロジェクトがまちづくりに寄与するのか、そのことを真面目に積み上げている感じで、信頼できるなと思いました。結果として、将来の日本を先に体験してきたという感じがします。

 ただ私はアメリカで働かずに帰ってきたんです。産業構造の変化でもがくアメリカという国の問題が大きすぎて、入り込めなかったからかもしれません。例えば、今の中国からの留学生に近いかもしれません。彼らは、今、日本で木密やってるような事務所に行かないと思うんですよ。自分が引き受ける問題としてとらえられないからです。また、アメリカは、当時、景気がかなり悪く就職が難しいタイミングだったということもあります。

 あと、入学している3年間の間に妹島さんの作品が明確にみえてきて、青木さんも登場する時代が来て、建築デザインは多分ここですごく変わるだろうという予感があり、それを経験しないとまずいという感じもありました。まちづくりとかとは違う話なんですけどね。

藤井 帰ってきて日本でやるとき、また環境が変わるじゃないですか。その時に実施設計を通して学ぶというか、やっぱり日本ってこういうところあるなみたいな、さらに分かったことはありますか?

  実務は、学生がやっていることとすこし次元が違うし、責任も違う。特に当時の青木事務所は本当にほったらかしだったので、基本、全部やんなきゃいけないから、建築プロジェクトの全部をやらせてもらった感じがします。あと時代が今よりも良かった。 二〇年前はまだまだおおらかで、間違ってもリカバーする余地があった。間違っても、とにかく謝りまくったらなんとかなるみたいなところがあったんですよね。アトリエ事務所も若い人にいろんなものを任せることができていた時代なので、その恩恵を受けたなと思います。

 今は、なんでもかんでも責任のなすりつけあいじゃない。国が全体が内向きの志向になっていて、責任逃れをするために、みんな必死で書類を積み上げている。建築実務は、残念ながら、モロにその影響を被っています。訴えられることを前提に仕事しなきゃいけなくなっている。今、皆さんが社会に飛び出した時に、失敗してもいいや、みたい場面がすごく少ないのです。気の毒だなと思います。

金子  実務と卒制は大きく違うとは思うんですけど、その実務家としての視点からどう見ていたのか気になります。

  現実の中で仕事をしていると、予算やら法規やらの枠組みの中に仕事を当てはめていかなきゃいけないので、それだけで手一杯になっちゃう、その範囲を超えて何かを提案することをやってる時間がすごく少ないのです。
 卒制はそういう枠組みは無視してよいゲームです。それは皆さんが単に現実を知らないっていう側面もあるけれども、しかしながらその現実の多くはつまらないことで決まっているので、改めて「ああそうか。こういう枠組みの外し方を考えれば、なんか違った世界はできるのかな」って思わせるっていう気づきがあります。

 

 

──インタビューの続きは、こちらにてご覧いただけます。→PDF記事:インタビュー誌面_乾久美子

 

 

★1 ドクメンタ…中央ドイツの都市カッセルで4年もしくは5年に一度開催される国際美術展。通常6月から9月にかけて100日間開催されるため、「100日間の美術館」という通称を持つ。

★2 ヤン・フート…Jan Hoet (1936/6/23 – 2014/2/27) ベルギーの現代美術キュレーター

 


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