《卒制2020》10/15 -霜田亮祐-
《卒制2020》インタビュー掲載企画、第7回は、霜田亮祐さんです。霜田さんは2年次にランドスケープデザインの授業でお世話になりました。ランドスケープの視点から卒業設計・建築についてお話を伺い、普段知ることのできない霜田さんのルーツに触れるインタビューとなりました。
見立てるということ
奥野 よろしくお願いします。
まずお聞きしたいのが、「審査会でランドスケープアーキテクトは見立てるということが重要である」と言う話をされていて、それについてもう少し具体的に教えていただきたいです。
霜田 建築とランドスケープの違いっていうのは授業の中でも少し紹介したと思いますが、建築は、ある空間に対して明確な機能が要求される性格があります。ランドスケープの場合はそれとはちょっと違って、ある空間があっても様々な見え方をするという可能性があるということです。例えば、大きな石が目の前に置いてあるという時に、それを景石として見る場合もあれば、何か人が座る場所として見る場合もあります。そのような、一つの空間・物体に対する多面的な見え方があるのではないかという意味で使いました。京都の龍安寺の石庭において、その庭に砂利が敷いてあって複数の石が置かれている状況をイメージしてください。あれをただ単に石と砂利っていう風に見ちゃうとそれまでなのだけど、そこに何か別の世界が投影されているという風に見ることが、「見立てる」ということですね。建築で言えば複数の建築物があって、それとの関係性を何か違うものにみるということができるとか。あるいは単体の建築物であっても空間があって、そこを目的外目的で使うというものもあると思います。青木淳さんの『原っぱと遊園地』でも触れられていますが、遊園地的な建築というのは空間があってその使い方には明確な目的があるのだけれど、原っぱ的な建築というのは何か空間があるんだけどそれが別のものに使われていたりとか別のものに見えたりとか、そういう可能性はあるんじゃないかと思うんですよね。だから、それらはあらかじめ計画してできるものではないのかもしれないけども、卒業制作っていうのはある程度求められる機能や社会的要求に対応する何かつくるっていうよりかは、むしろ時間的にも空間的にも、一般的な見方より遠くのものを見据えた上での提案だと思うので、そういう意味で私は何か違うものに見立てることによって地域のランドスケープになっている、そんな見方ができる作品を評価していたと思います。
奥野 見立てるって言うものは比喩みたいなものなんでしょうか。
霜田 比喩とも言えるかもしれない。実空間に対する多面的な見方・人間のイメージと定義できる。だからそれもある意味専門的な技術なんですよ。あるいは引いた視点、立ち位置と言うか。その場所をどういう風に見るかとかというどういう距離感で眺めるかと言う、そういう幅広い視野でもってみた時に何か別のものに見えてくるという感じでしょうか。星空みたいなものです。空に無数の星があってその中に星座をイメージするじゃないですか。それも見立てと言うことなのですよ。それは国や地域によっても違うと思うし、だけど星座ってある程度ユニバーサルな見立ての仕方かもしれません。蟹座って言われてもぱっと見、蟹の姿ではないんだけどそこに蟹を見立てるっていうのがすごいなと思う。ある意味それは経験則的に人間が培ってきたものなのかもしれない。
横国の卒業設計
霜田 後は横国の学生の特徴として、特に都市のプロジェクトを見て感じるのは、ある地域や街区の中の建築の密度が高すぎてほとんど余白がないものが多いことです。
奥野 余白というのは。
霜田 建築を建てすぎているということ。尾藤さんの提案(P60~65)もそんな印象を受けた気がする。 久原くん(P98~105)のも似たような施設が多い。という印象を持ちましたね。鷹野くんは尋常ではないデカすぎる駅が提案されていました(P144~149)。なんか細かく分散してもいいのではないかなと思うんですよね。伊波くんの提案(P38~45)は面白かったよね。バス停の家。マイバス停みたいなやつをつくっちゃうっていう。
奥野 僕らの中ではバス停とかの案をランドスケープ的な視点から見る議論はなくて、霜田さんの言葉ではっとして、これもランドスケープなんだと思って面白いなと思いました。
今年の感じだと風景みたいなことを結構言っている人が多いという話が。
霜田 作品タイトルからそういうのを感じる提案が多かったなと。
尾藤 作品を見て風景をちゃんと考えられているわけではないということですか。
霜田 タイトルはそういうのが多くて実際聞くとそうでもないなというのが結構ありました。林くんの提案(P4~9)は尾道だから当然坂道があるわけで、あまりに建築の中で完結しすぎちゃった。高低差をどう移動するかそこが一番楽しいところなのに、というのは感じました。瀬川さんのロードサイドの提案(P10~17)は結構評価高いね。最初私はなんとなくピンと来てなかったんだけど今思い出せば面白かったか。珍しいよね、ああいうのが評価されるのかと思って。避難経路だよね。郊外の大型店舗の、建築的にはどうでもいいようなプレハブみたいな建築に階段を取り付けて脱出する非常階段ではなく、地域の「高台避難経路」としての道をとりつけることで劇的にロードサイド型店舗の見方が変わってくるっていうことだよね。どういう道に行くんだろうか、この人。
岡村 進路はYGSAです。YGSAでも価値の逆転をやりたいって言ってました。
霜田 都市デザインとかもいいかもしれないね。あと印象に残っているのは…藤井さんの提案(P118~125)は高く評価したんだけど、私ぐらいしかいなかった。寒冷地の風景において、地面に降る雪と建築の屋根に降る雪って違うものなんだよ、意味が。雪は物質としての意味は同じなのだけど、どのような場所に積雪しているかで人間の視点からは違うものに見えてくる。そのような違いを理解しているのではないかなと。確かに施設自体は長大な屋根が展開しているからあれは本当にそうなのかって感じはするのだけど、それが既存の工事がストップしてしまった土木的に作られた土手に建築を差し込んで、そこに雪が降ることによって一つの風景が完成するっていうことは、土木・建築スケールを横断する提案ということで印象的でした。
あと卒業設計って言うとどうしてもひとりで完結するじゃないですか。他分野の人と共同で進めるような制作があってもよいかもしれないね。それぞれでアウトプットは異なっても構わないので。
岡村 早稲田みたいに三人一ペアとかになるとか。構造と設計と計画で1ペアかな。
霜田 そういうのだったら専門性が少し微妙に違って協働するのはありかもしれない。
岡村 金子さん(P92~97)はもう一人であれは作っていました。一三〇人にアンケートして生物多様性から建築はつくれるのかっていうような案でした。
霜田 覚えています。アプローチは確かに面白いよね。他の人にはない設計のアプローチだと思います。国際学生寮っていう設定も今的だし、多種多様な人たちが集まる人の居場所みたいなものをどう設計できるかっていうことは、どうプログラミングするかと同義なんだよね。
岡村 横国で建築計画の先生は毎年おっしゃっていますが、横国の卒制はプログラムに対する興味があまりないと言うか。
霜田 都市空間を扱ってる人が多いのに関わらず、あまり活用する人が少ないですね。人の動きとか風の動きとかでもいいし、そういうのをシミュレーションして、新たな解釈で建築を設計しましたっていうのもありだと思いますよ。
時間軸を考える
岡村 今年の代は見立てるという手法がすごく多くて、横国全体でもそのような手法が多いと思うのですが、他の大学も見ていらっしゃる上で、横国の卒業設計で見立てる以外の手法で物足りなかったりとか可能性があるんじゃないかと思った手法はありますか。
霜田 時間軸をどう捉えるかはもう少し検討の余地があったかもしれません。先日、乾さんも一緒に奈良女子大の卒業制作のオープンジュリーに参加しましたが、時間軸を強く意識した作品が多いんですよね。時間軸って言ってもなかなか漠然としていてそれをどう考えるかっていうのは難しいところではあるのだけど、奈良女子大学は生活環境学部住環境学科の学生で、主に人が生活する住宅や、集落単位での提案があり、基本的にそれぞれの提案が人の営みや生活と絡んで行くものが多いです。今の世代の人たちのための空間をつくるというよりかは、何世代にもわたってその場所が使い続けていくということが強く意識された作品がいくつかあって、その時代時代において今の時代に計画したものが次の世代にとってまた別の意味を持って見られていくというようなストーリーを考えている作品があり、そういう作品は高く評価しました。印象に残ったのはTwitterでも紹介しているのだけど、津波の防災施設かな。数十年以内に津波がくるような地域なのだけど、防災のために高く長大な堤防を建てるっていうことはしないで、集落の中にパーソナルな避難タワーをつくってそれが日常的には小屋として使われているという提案で、それが数世代にわたって使われ続けることによって地域固有のランドスケープとして地域に展開していくストーリーだった。このような分散型の提案は良かったですね。横国の提案はどんとでっかい建築物が多いじゃないですか。それはそれでひとつのスタイルだと思うのだけど。
領域をはみだす
奥野 西沢さんなどがおっしゃっているような建築の持つ物質性と言いますか、空間が持っている力を前に出していく方向性が一つあると思っていて、一方で、ランドスケープは授業でも地域性を大事にしているように感じるのですが、そのようなことに関してはどう思われますか。
霜田 西沢さんが言っている「建築はマテリアリズム」というのは共感できます。ただし、これがランドスケープと対立する概念かというとそうでもない。ひとつの空間は建築・ランドスケープに関わるものなので、そこには日常性であったり、社会性みたいなものは建築であってもランドスケープであっても共有されるべきものだと思います。これらが積層し地域性を伴う都市が形成されていくのではないでしょうか。
岡村 それは共有している部分はあるけれども身体化していく経過みたいなものは違うと思っていて、ランドスケープにおける身体化と建築における身体化、二つの違いをどういう風に感じていますか。
霜田 身体化っていうのは身体スケールの空間ってことでしょ。もちろんランドスケープの設計なんかにもそういうスケールは当然あるのだけど、要は建築的スケールってなんだってことかな。建築って人が使う場所がほとんどだから人のスケールに合わせてつくるべくものだとは思うのだけど、ランドスケープの場合はもう少し横断的だよね。だから建築的スケールのことも考えるし、あるいはもっと大きい土木施設のスケールも考える。さらに地域のスケール、広域のスケールも横断的に扱う特徴はあるんじゃないかと思います。
岡村 最近の建築家がいろんな領域にはみ出した仕事をしていて段々建築家の仕事がランドスケープに寄ってきているのかなという風に感じるんですけど、実際に乾さんと仕事をしていて、ランドスケープアーキテクト単体でやっている仕事と、乾さんたち建築家と町をつくるという時に何が違うというふうに感じますか。
霜田 建築家とランドスケープアーキテクトは対立せず、むしろその空間が目指す方向性を共有するべきなのでしょう。実際、建設プロジェクトにおいて予算的には建築の方が多いわけですよ。ただ、ランドスケープの方はイニシャルでは安くつくってそれを育んでいくということもできる。そのため、見ている方向性を同じにしないと対立してしまう。それだと無駄なお金が使われることになってしまう。だから業種に分けると建設費の大小はあるんだけど、見ている方向を同じにすることにより、一体の空間としてつくり、育むことができるから、それは大事なことなんじゃないかと思いますね。
奥野 今年の卒制で乾さんにインタビューした中で「枠組みを超える」ということが話題になりました。だから建築の卒業設計だけどランドスケープにも手を出すとか、まちづくりにも手を出すみたいなことがあっても良いと思ったんですが、どう思われますか。
霜田 出した方がいいと思う。例えば乾さんとやった釜石市唐丹小中学校のプロジェクトでは、学校で行われる教育っていうのは教室の中だけじゃなくて、毎日日常的に行く通学路とそこから見える風景なんかも大事であるという考えを共有して進めた。だからそういうのを一体的に考えないといけない、当然だと思いますが、通常のプロジェクトだと、建築家が建築単体をぼんと建てて終わることも多い。だから考えるのは中で何を行えるのかプログラムなのだけど、それだけではないよね。だからそこに至るプロセスも含めて考えなきゃいけない。ただやれることは限られているので。我々は通学路の周辺の植生を回復させていくことにチャレンジしています。津波で浸水したり、大造成されて傷ついてしまった大地と植生をいかに再生させることができるのか。毎日子供達はそこを通うわけだからその人たちの原風景になり得るわけですよ。大事な仕事だと思います。建築なりランドスケープが今後社会性を獲得するために必要な姿勢なのではないでしょうか。
──インタビューの後半は、こちらにてご覧いただけます。ぜひご覧ください。→PDF記事:インタビュー誌面_霜田亮祐