–鈴野さんは東京理科大学から横浜国立大学院に行かれています。建築を学び始めたきっかけ、学生時代について教えて下さい。
僕は反町に住んでいて、横浜は元々なじみの深い場所でした。中学時代の頃、家庭教師の先生が横国の建築学科の学生で模型をよく持ってきていました。ぼくは図画工作が大好きで、大学に行っても同じように工作ができるのかと思い、興味をもったのがきっかけです。大学院時代は山本理顕さんの事務所に2年間通っていて、家と学校と事務所の間をバイクで行き来していました。当時事務所でははこだて未来大学や埼玉県立大学など大きなプロジェクトがたくさんあり忙しく、バイトで中村竜治さんが一緒だったり、迫慶一郎さんがコンペを取って新人でやり始めていた頃でもあり、多くの刺激を受けていました。大学時代は菊池宏さんと同級生で仲がよく、西沢立衛さんに勧められたこともあって、何もわからないままスイスに旅行したりしていました。当時は情報がほとんど無かったのでa+uのコピーを大量に持って、迷いながら建築を見て回り、見たものから捨てていくという感じでした(笑)。理科大は意匠系がなくて計画系の研究室だったこともあり、そうやって海外に行って実際に見た建築に多く影響を受けていました。授業で教えられるというよりも、体感して感動して建築の力に興味をもっていきました。
–その後、シーラカンスで働かれています。
当時シーラカンスはコンペをたくさん取っていて、僕は彼らが勝った国立公園内の鳥取砂丘の博物館がやりたくて入所し、それを担当させていただきました。2年間関わりましたが、”ハコモノ行政”に対する反発や知事も変わったりなど多くの紆余曲折があり、結局止まってしまいました。地元の人とワークショップをしながら建築の完成を楽しみにしていた一方で、行政と環境庁との調整がうまくいかないことで思ったように進まないという状況で、施主である行政とその上の環境庁という相手の顔が見えない、誰に対して作っているのがわからないという状況にストレスを感じていました。
その後に小さい住宅を担当したのですが、クライアントと話しながら建築を作ることができたことが大きな経験になりました。頻繁に現場に通いつめ、楽しみながら設計することができました。
—オーストラリアで働くことになった経緯を教えてください。
メルボルンに設計事務所をもつナイジェルさんという方が、シーラカンスK&Hに入所し、一緒に働くことになりました。すでに豊かな経験を積んでいて、とても優秀でした。所員時代に一番刺激を受けた人ですね。
事務所に入って4年が経ったところで、住宅を一つ設計したということもあり、区切りをつけようと思い辞めました。そのとき何をしようか考え、オーストラリアに帰国したナイジェルさんと一緒にプロジェクトができたらと思って、日本のコンペをもってオーストラリアに渡りました。
—どのような生活だったのでしょうか。
3週間ほど、もうこれ以上ないってくらい集中してコンペをやりましたね。結果を待つまでゆっくりすることができて、そこではじめてオーストラリアの自然に触れました。 変な植物たちがキラキラ輝いて見えて、「何だここは!?」っていう感じで気に入ってしまって、日本と全然違ったゆったりとした豊かさにもっとこの場所にいたいと思うようになりました。
その後ナイジェルさんに紹介してもらった設計事務所で働けることになり、一人で担当したコンペが一等を獲得しました。基本設計までを担当して、帰国しました。オーストラリアの滞在期間は1年程ですが、毎日夕方に仕事を終え、そこから何をするか考えながら一日を終える生活で、まるで10年居たような密度の濃いゆっくりとした時間体験でした。
––帰国後はどのような経緯でトラフの活動がはじまるのでしょうか。
大学時代の後輩から、クラスカで客室の設計の話がきました。とても面白くなりそうで、働き始めた事務所を辞め、青木淳さんの事務所を出たばかりの禿を誘いました。続いてクラスカの屋上の話も来ました。トラフの活動はその延長という感じで、禿と「トラフをやろう」なんて言わないまま7年も続いているという感じです。(笑)
—現在の事務所の様子について教えてください。
僕たちの事務所は共有テーブルを挟んでグラフィックデザイナーの事務所とシェアしていて、下の階には家具デザイナーの藤森泰司さんの事務所があります。いつでも情報交換したりアイディアを見せて客観的な意見をもらったりできるいい環境です。全然良い条件じゃなくてもやってみて面白い仕事だったものもたくさんありますから、領域を決めず千本ノックみたいな感じでやっています。けどだんだん大きな仕事が増えてきて事務所として次のタームに入った時に、どのように進めていくか考えているところですね。
–設計のすすめ方・考え方について教えて下さい。
大きい模型で考えています。そしていつも実際に「問い」を立てながらやっています。学生の課題を見る時もそうですが、こんなことがやりたいと言われても、そもそもの「問い」が立っていないとそっちが気になってしまう。インテリアでも建築でもプロダクトでも、ここではこれしか解決方法は無い、というシンプルな手法で「問い」が解けていると嬉しいですね。良い条件を見つけられるかは相手に共感できるかどうかだと思いますし、その人との対話の中で見つけるのが大事ではないでしょうか。コミュニケーションの中から考えていきたいですね。
それからモノにたいしてヒエラルキーをつけたくないという気持ちがありますね。プロダクトや家具や建築という領域に対して、どっちが強いとかじゃないほうがいいなと。クラスカでの経験を通して考えていたことで、図画工作に戻ったとも言えますね。
––トラフの建築についてお聞きしたいと思います。
ずっとインテリアの仕事をやっていた中で、港北の住宅を建てることになりました。インテリアをやっていたからこそこんな形になったのかなと今は思っています。インテリアにしても、僕の中では設計することに何も違和感はありませんでした。与えられた小さな部屋でも、敷地として捉えて設計を進めていました。この住宅の時は光の扱いに気を使いました。施主のお父さんは船の技術者で、平屋を求められたんですよね。留守が多いのでセキュリティ面と周りの住宅から見下ろされないための開口部のとり方などそのような条件の中で光について考えていました。建築は動かないものだからこそ、外界の要素を取り込めると考えました。
—展覧会の会場構成やプロダクトデザインもされていますが、いかがでしょう?
展覧会の会場構成は物の配置の仕方を考えますね。最近、川崎市民ミュージアムで横山裕一さんの展覧会の会場構成を行いました。美術館で閲覧方向に向かって全員並走するのが気になっており、横山さんの展覧会ではマンガの作品ごとに輪の内側と外側で逆向きに歩ける環状の構成を提案しました。展示したマンガ「トラベル」も電車に乗って降りるまでを描いた話で、来館者は山の手線を降りたり乗ったりする感覚で作品を見て回りました。
プロダクトデザインでは、はじめに「問い」を立てるところは同じです。トクショクシコウ展で作った「空気の器」は、初期条件として「紙でつくる道具」であること、「緑色」であることの2つ条件がありました。そこに建築家としてどう作るかという点で、「2次元の紙から3次元の最大ボリュームを生みだす」という条件を加えて設定しました。最終的にはみかんのネットくらい細く、自立して、形が自由自在に変えられるしなやかな器ができました。また、青色と黄色から「緑色」を表現できないかと思い、器の表裏で色を変え、裏の黄色を反射させて表の青色に当てる事で緑色が見えてくるという現象を作り出しています。
—学生に向けてメッセージをお願いします。
僕が学生の時は、建築家は遠い存在でした。でも事務所に入ってしまえばいきなり同等の立場でやっていかないといけなくなります。学生の頃から、物の見方とか話し方とか社会に出たつもりでやってみるのが良い訓練だと思います。建築家になったつもりで詳しいディテールを見るっていうのはすごく大切だし、見る目が変わると思う。アトリエに入ったら来年にはすぐやってるかもしれない。その準備はしといた方が良いと思います。
インタビュー構成:佐藤謙太郎(M2)、伊藤孝仁(M1)、佐藤大基(M1)、藤末萌(M1)
写真:大和田栄一郎(M1)