能登デザイン室
奈良雄一 1977年 東京都生まれ。1999年 横浜国立大学工学部建設学科建築学コース卒業。2000年 渡伊。ヴェネツィア・ムラノ島のガラス工房Palazzo del Vetroに勤務。2003年 同リド島の建築事務所Studio Be.Fa.Naに勤務。 2004年 イタリア人建築家Federico Traversoとデザインユニット241DESIGNを設立。 現在は石川県、能登島にて活動
姥浦千重 1975年 石川県七尾市生まれ。横浜国立大学工学部建築学科建築学コース卒業後、渡英しガーデンデザインを学ぶ。その後滞在したイタリアでスローフード運動と出会い、素材豊かなのとの可能性を感じ、能登へUターン。 2005年 能登島の古民家を利用して能登カフェをオープンし、能登でのスローライフスタイルを実践、発信していく(08年閉店) 2008年から、能登半島全国発信プロジェクトのwebサイト「能登スタイル」の企画&編集に携わり、能登に暮らす目線で、能登の豊かな素材、暮らし、人の情報を発信。現在1児の母。
「能登の魅力」
—奈良さんはイタリアへの留学経験をお持ちですが、どのようなきっかけだったのですか。
(奈良)イタリアで生活することになったきっかけは卒業後旅行で訪れたベネチア・ムラーノ島のガラス工房です。カルロ・スカルパが好きで、ムラーノ島にある彼の作品を見に行ったのですが、たまたまその建物の2軒隣にあったガラス工房のアーティストの作品に惹かれ、飛び込みで働かせてもらうことになったのです。その工房では2年ほど働くことになりました。その後1年間ベネチアの建築事務所で働いたあとベネチア建築大学に入学しました。ベネチアの建築事務所では教会の修復や測量をやっていたのですが、修復のことをもっと勉強したくなってベネチア建築大学へ入学することにしたんです。在学中からイタリア人の同級生とデザインの仕事を始めました。卒業後もしばらく彼と一緒に仕事をした後日本に戻ることを決め、能登で活動を始めました。能登に戻ってきたのは妻が石川県七尾市というところの出身だったからです。
—イタリアから戻ってすぐ能登で活動を始めることは、決断を要したかと思います。何故ご出身の東京ではなく能登だったのでしょうか。
(奈良)僕が東京ではなく能登を選んだ理由は単純で、能登には豊かな環境があるからです。
僕がまだイタリアに住んでいる頃、妻が能登島でカフェをしていて、休みにイタリアから帰ってきて能登へ訪れる度に良い環境だな、と思っていました。イタリアもいいけれど能登のようなところで仕事をしていきたいと考えていました。能登は想像していた以上に田舎で、地元の人たちの暮らしぶりはいつも驚きを与えてくれる、とても魅力的な環境のある場所だと思います。
—能登デザイン室ではどのような作品を手がけられているのですか
(奈良)イタリアでは家具のデザインやガラスのデザインをしていたのですが、能登に移って来た当初は何のデザインができるか分からないけれどもできる仕事を何でもしようと思っていました。今でもそうですが、グラフィックやインテリアなど、プロダクト以外の仕事でも頼まれたら何でもする、という感じです。
例えば田植えの道具「わく」からヒントを得た原稿用紙の罫線を引くスタンプです。実際に自分が農作業している中で思いついたものです。
(姥浦)この「わく」は稲を植えるときに位置だしをするための道具で、昔は名人がいたくらい使いこなすのが難しいのです。奈良はわくの操作が結構うまいらしく、よく地元のおばあちゃんに筋が良いと褒められています。(笑)
(奈良)他にも山中漆器の職人さんとコラボレーションした飯碗、汁碗やぐい呑み、地元の時計メーカーとつくったアルミの鋳物枠の時計など、地元の職人や工場、素材を使ってコラボレーションする仕事も多く手がけています。
(姥浦)能登松浪の米飴レシピというグラフィックの仕事もやっていて、90歳のおばあちゃんがつくる代々伝わる飴のレシピをつくっています。今後は食べ物のレシピだけではなく、地元に伝わる生活のレシピのようなものをつくっていきたいと思っています。
この他にも「クリエイターズマーケットのとじま手まつり」という毎年行われる地元のクラフトイベントのスタッフとして関わり、人や景色など能登島の色々な良さを知ってもらおうと様々な企画を催したりしています。
—奈良さんはカメラもやられていると伺いました
(奈良)ムラーノ島のガラス工房に務めていた頃、アーティストの作品の写真や個展の会場構成なども手伝っていました。特に写真は日本ではほとんど撮影したことがなかったのですが、たまたま一眼レフのカメラを持っていった事で作品を撮って欲しいと言われるようになり、その人の作品などを撮るようになりました。勤め先であるガラス工房のアーティストが雑誌社に顔が利く人で、ベネチアの映画祭などイベントや取材の写真撮影の仕事を回してもらえるようになり、イタリアに居る頃はいい収入源になりました。今でも撮影の仕事も引き受けていますし、自分がデザインした商品の写真は自分で撮影しています。
「ライフスタイルの提案」
—姥浦さんはかつて「能登カフェ」を運営されていらっしゃいましたが、このカフェを始めたきっかけを教えて下さい。
(姥浦)そもそも「カフェをしよう」と思っていたわけではないんです。
私は高校時代1年間アメリカに交換留学に行っていたのですが、その時のホームステイ先がランドスケープデザインをしている方のところでした。公園や庭のデザインなどを手掛けているのを見せてもらって、また自分も実際庭に暮らすという体験をして、漠然と造園っていいなあと考えていました。大学進学時には造園と建築とで迷ったのですが結局建築の道を選びました。けれど大学在学中も造園への思いはずっと持っていて、卒業後イギリスに2年間ガーデンデザインの勉強をしに行きました。
日本に帰ってきてからは能登の七尾市で実家の工務店を手伝いながら資格をとったりして過ごしていました。当時本当はいろいろ自分の考えている庭の提案をしたいと思っていたのですが、能登のような田舎では土地も大きくて、景色も良くて、わざわざ家の前に庭を提案する必要がないんですよね。そんな時に、奈良のいるイタリアに遊びに行く機会があり、イタリアでスローフードという運動があることを知りました。それは小さな村などから始まったものなのですが、田舎ってとても豊かで”何も無いからこそ可能性がある”ということを気づかせてくれるきっかけとなりました。スローフードは食べ物のことだけれど、私がしたかったのはそれを含めた田舎で暮らすライフスタイルの提案だということに気づいたんです。
そのための場所として、能登カフェを始めることにしました。能登にある食べ物やそこにまつわる色々なものを取り入れた暮らしの提案をしていくための手段として、カフェを選んだんですね。
—能登カフェに来るお客さんはどんな人達でしたか?もう閉店してしまったとお聞きして、残念です。
(姥浦)いろんな人が来てくれていました。地元の人もいるし、近所の子供達もいるし、わざわざ遠方から来てくれた人もたくさんいました。カフェを開業して3年程経った頃、閉店しました。奈良がイタリアから帰ってきたというタイミングや、場所を借りていた大家さんの都合上仕方なく、という理由も重なり。閉店したカフェはすごくいい場所でしたし、あれ以上の場所は見つからないと思い、カフェの再開は考えませんでした。カフェという手段は無くなっていまいましたが、他の手段を用いても私たちのライフスタイルの提案が可能だと考えていました。
そんな頃、能登半島地震が起きました。地震の後の復興の動きの中で、能登の様々な情報を全国に発信しようというプロジェクトに誘われて、能登スタイルというウェブサイトの手伝いを始めました。
「生活の延長線上のデザイン」
—能登という場所とデザインするということはどのような関係を持ちますか?
(姥浦)地元のおじいちゃん、おばあちゃんたちの知恵というのはとてもすばらしいものがあります。これはずっとこれまで受け継がれてきたもので、生活に根付いてきたものです。今そういった知恵が私たちの世代にうまく伝承できていない。そしてそれらの知恵が伝承できるかどうかのぎりぎりのところにあるという危機感も持っています。
私はこうした能登に根付いてきた知恵を今の時代に継承するために、実際に地元のおばあちゃんから色々なことを教わっているのですが手間がかかるし、すぐには習得できない。でもそういう中からこそ生活の知恵というのは生まれてくるのだと思うのです。
奈良がやっているようなデザインも実は同じで、生活や暮らしの中からデザインのヒントは生まれてくる。そして生活の延長線上にデザインがある。そういった感覚はとても大事にしています。
(奈良)例えばこれは唐辛子のパッケージをデザインしたものです。地元のおばあちゃんが種から作る唐辛子で、唐辛子を手で摘んだ後、ひとつひとつ藁で編んだものです。個人的には唐辛子をこのように藁で編みこんで保存すること自体非常に興味深いことなのですが、地方ほどこうした良い品を良く見せて売り出すということができないでいます。
これまで培われてきた知恵に対して、僕たちはデザインという僕らなりの手法で応えることによって、より良いものができればよいと考えています。
—おばあちゃんたちの知恵に対して自分たちの知恵としてのデザインをもちいてより良くしていこうというコミュニケーションが自然体で非常に良いですね。
(姥浦)おばあちゃんたちとうまくコミュニケーションとるにはコツがあるのです。まずおばあちゃんたちの周りをぶらつく。(笑)そうするとおばあちゃんたちの方から声を掛けてくれる。そして色々と聞いてみる。私たちのような若者に色々と聞かれることは彼らにとってもすごくうれしいので色んな事を教えてくれるんです。
(奈良)唐辛子のパッケージデザインの時なんかは、おばあちゃんから報酬としてお金はもらえないけれど野菜や魚をたくさん頂きました。このようなコミュニケーションは日常的で、僕たちは野菜や魚の替わりにデザインという僕らなりの手段で返していくことでおばあちゃんたちとコミュニケーションしています。
—能登デザイン室の手がける商品はどのようにすれば手に入るのですか?
(奈良)山中漆器は生産者が直接販売、革職人とコラボレーションしたiPhoneケースなどはデザイン雑貨を扱うお店で扱って頂いたりHP上で直売もしています。大量生産を前提とした企業との仕事では生産コストや固定化した販路や販売価格等の様々な縛りがあり、自分が本当につくりたいものがつくれないという状況が多いように感じます。これからは大量にモノをつくって大量に売るという時代ではないと思うので、技術を持った職人さんと一緒につくったモノが、それを欲しいと思ってくれる人達にちゃんと届けることができればいいと思って、直売等の方式をとっています。山中漆器の商品が賞を頂いたり、売り上げをあげる商品が増えてきて、実質的な効果も最近やっと出てきています。
—今後取り組んでみたいデザインは何ですか
(奈良)木の個性を生かした家具をつくってみたいです。石川にはいわゆる伝統的な木工家具の工場がぽつぽつとありますし、建具屋が多いのです。富山にも井波など欄間で有名な木彫りの産地もあります。能登だけにこだわらず気軽に行ける範囲にいる職人さん達とじっくりモノづくりをしていきたいですね。
—最後に横浜国大の学生にひと言お願いします。
(奈良)横浜国大は地方出身の人が多いと思います。僕はこれからの日本では地方に可能性があると感じているので自分達が育った地元に目を向けていくことも可能性があると思います。
(姥浦)大学時代は建築以外に、仲間と海の家を作ったり、体育会系の部活をやっていたり、いろんなアルバイトしたり、外国への一人旅にチャレンジしたりとしていました。今思うとこんなにいろんなことが出来たのは学生時代くらい。学生期間中は建築に限らず色々なことに挑戦して自分の可能性を試してください。
インタビュー写真:堀田浩平(M2)