田井幹夫
— まず大学を選ぶときのことですが、その時点ですでに建築をやろうと決めていたのですか?
決めてました。建築家になろうというところまで決めていました。
— それはいつごろからですか?
進学校だったので高1のときに理系か文系に分かれるわけですが、そのときすでに建築家を意識していました。そして建築学科というのは建築家になる学科だと思っていたので、志望しました。
— そう思うようになったきっかけは何かあったんですか?
小さい頃から模型と絵は得意でした。小学校の頃には模型倶楽部で、バルサにモーターをつけて水陸両用車のようなものを作ってみたり、あとは小さい頃から図鑑に載っている絵をトレースしたりしていました。小学校の卒業文集には夢は設計士か外交官と書いていました(笑)あとは高校の美術の先生がおもしろくて、授業でエジプトから現代までの美術史を宗教史にのっとって教えてくれたんです。その中で建築もたくさんでてきて、それがとてもおもしろかったですね。そのとき見たロンシャンの礼拝堂は建築物に見えなくて、歴史の流れから見たときに現代になってあんなものができるということ、自由な発想や造形が自由な社会のなかでうまれていくことに感動しました。あとは高校のときによく読んでいた「Newton」にたまに建築物特集があって、それは普通の建築雑誌に載るようなものではないのですが、その写真に目がとまって何度も見直した記憶があります。
— では建築家を目指すきっかけは空間の体験などからきてるというよりも、模型を作ったり、写真などを見るというところからきているんでしょうか?
そうかもしれないですね。でも一方で育った家は積水ハイムだったんですが、つくりがちょっと変わってたんです。ボックスを組み合わせたものなんですが、柱がなくて、吹き抜けの部分には鉄骨の階段がついていたんです。それは明らかにまわりの友達の家とは違っていました。そういった空間体験は覚えていますね。あとは幼稚園がカトリックだったんですが、暗くひやっとした教会の空間にはいってくる光の体験などは今も覚えています。まぁだからといってそこから直接建築家になりたいと思ったわけではないですが・・・。
— その後横浜国立大学に進まれる時に、なぜ横浜国立大学だったんですか?
単純に学力的な問題だったんじゃないでしょうか。
— 設計の授業はどんな感じだったんですか?
今とあまり変わらないかもしれませんね。北山先生が着任されて確か2年目でしたから、北山先生が設計の授業を中心的に指導されていたんです。その当時はコンセプト重視の考え方で作ることがはやっていて、みんなAAスクールやクーパーユニオンなどを参照していました。横国でもすごく概念的なトレーニングをする課題が多かったように思います。確か2年生の最初の課題は絶壁に存在する5m角の空間を考えるというもので、どうやって重力に抵抗するかとか、どのように崖上という環境を空間化するかとか、ものすごく考えないとできない課題でした。なんとなく今と近いんじゃないですか?
— そうですね。
そういう、既成概念をまずなくしていこうというような感じだったので、それはそれで大変でしたね。課題の内容がとてもコンセプチュアルで、最悪図面なんかなくても模型があればとりあえず通るみたいな雰囲気もあって、だから全然図面は書けなかったです。断面図なんてよくわからなかったですから。
— それは横国の伝統かもしれません(笑)ぼくたちも君たちは図面が書けないとよく先生方に言われましたし、今の学部生も同じようなことを言われているようです。
ちゃんと教える授業がないですからね。でも書けるようになりますからね、実務をやれば自分の力で。そういう意味では頭を軟らかくしていくということの方が大事でしょうね。
— 設計の課題は集中してやられていたんですか?
頑張っていましたね。もちろん必ずしもそれが評価につながったわけではないですが。設計以外では当時ぼくは2年生の終わりまで体育会テニス部に所属していて、そちらもかなり力を入れていたんです。そうすると大体同じ建築学科の人たちって1年生のときにみんな仲良くなるじゃないですか。だからぼくはあまり大学内の建築学科の友達はできなかったんです。でもそのかわり東京で行われる建築のレクチャーなどには大体参加していましたから、そこで他の大学の建築学生たちと知り合いになって、彼らと街歩きなんかをしていましたね。彼らと話していると横浜国立大学の課題はコンセプチュアルであるという点においてかなり極端だなと感じました。だから逆に横浜国立大学とは違った教育をしているところに行ってみたいというのがあって、最初から海外にいきたかったこともあり、留学先としてベルラーヘを選びました。
— 実際ベルラーヘに行かれてどうでしたか?
ぼくがベルラーヘに入学した当時はまだベルラーヘはできたばかりで、ぼくは三期生でした。同じ学年の中にぼくを含めて日本人が2人いましたが、あとはイギリス、台湾、中国、アメリカ、ベルギー、ノルウェー、フィンランド、オランダというように全世界から学生が来ていました。そういった環境なんで、学校側のスタッフはぼくたちを全世界から集まってきている優秀な人材として扱うのです。ぼくの場合は日本から来た代表って言う感じで扱われるので、優秀じゃなくては、みたいな緊張感がありました。そういった日本人として何か結果を出していかなければならないという部分が暗に成長を促してくれた気がします。ベルラーヘのプログラムはとても濃密で、デザインをやりながらもそれに絡むセオリーもやって、さらにレムやスティーブン・ホールなど有名な建築家をよんでワークショップをやったり、月に何回かのパブリックレクチャーがあって、そのまま夜までずっと学校で飲んだり、エクスカーションという建築見学の遠足のようなものもありました。
— ベルラーヘを卒業された後はどうされたんですか?
実際は卒業はしていなくて1年しかいなかったんですが、1年間やったこととベルラーヘへの入試に出したポートフォリオをまとめて5,6ヶ所ヨーロッパの設計事務所に提出しました。するとフォスターのところから返事がもらえて、当時旅行中だったのですがすぐに戻ってきて面接に行きました。しかしその後ぼくの知らないところで事務所側とぼくにつけられていた弁護士との間で話が勝手に進んでいき、ビザにかかるお金が払えないだろうということで結局働けなくなってしまったんです。こちらとしてはそのお金を払うオプションだってあったのかもしれなかったんですけどね。でもまあ結果としては諦めて勤めはしなかったんです。そして日本に戻ってきました。
— それで内藤さんのところにいかれたんですか?
そうです。実はあまり内藤さんの作品は知らなかったんですが、丁度その頃スタッフを募集されていたんです。結果としてはすごく良かったと思います。内藤さんは作品もすごく特徴がありますが、そういった意味でも影響されてますけど、仕事に対しての向き合い方のようなものがちょっと独特に見えたんです。というのはモノに対するスタンスというか、物凄く性能重視なわけですよ。防水のことだとか耐久性のことだとか。かなりの部分がモノの性能の話ばかりで、あとはその図面のチェックの精度とか、段取りとか。そういう仕事の仕方みたいな部分をものすごく重視するという感じでしょうか。事務所では図面をしっかり書く、原寸レベルで。内藤さんも描くんですよ。こーんなメモパッドみたいなちっちゃい紙にこちょこちょと(笑)そしてそれがもうそのメモの時点で完成してるんです。ディテールまでできてしまってるんです。それがあまりにも精度がいいから、なかなかスタッフがやる余地が残ってないんですよ。これが結構内藤事務所のOBが成長しない理由じゃないかな(笑)ある意味ではプロジェクトの柔らかい部分を共有してくっていう感じはあまりなかったということでもありますからね。
— 内藤事務所を出られた後すぐ独立されたんですか?
そうですね。内藤事務所には5年いました。辞めたときは当然貯金ゼロ、仕事もゼロの何もなしで独立したんです。どうしようかなと思って、まあでも食わなきゃいかんということでアルバイトを始めるわけですよ。マンションばっかりつくっているところでした。そしたら内藤事務所で5年間もやってきたし普通の模型作りなんて申し訳ないと言って、プランを描かせてくれたんですよ。基本的なマスタープランとか、高級マンションとかのペントハウス住戸の間取りとか、200平米くらいのマンションの間取りとか、そういうのをけっこうやらせてもらいました。ぼくは内藤事務所で住宅やらせてもらったことがなくて、図書館・美術館・ビジターセンターみたいなのしかやってないんですよね。そこでキッチンとかトイレとかをパズル的に押し込めるって言う訓練ができました。そんなのばっかりでくだらない設計だなーと思いながら、それはある意味ためになったんですね。そういうことをやってるうちに後輩から紹介された住宅の仕事が入ってそれを住宅特集に載せてもらったんです。そこからなんとか12年やっています。
— 今後どうしていこうという展望はありますか?
地震やリーマンショックの影響はやはり結構で大きかったと思います。社会全体の雰囲気がそう良くない状況ではあまり住宅なども建たないですよね。そうするとどうやって仕事とったらいいかという問題がでてきます。10年くらいつくってきて自分にしかできないものをつくってきたつもりではあるんですが、もうちょっと考えなきゃいけないなと思っています。状況が変わってきてるって言うのもあるし、自分も10年間やってきて思うところもあるので。きっちりつくるっていうか具体的な部分で勝負していくって言うのは大事だと思っていますが、そういうものは学習してきているからキープしつつも、社会に対してどうアプローチできるかみたいなことを最近よく考えています。それは建築的なものとしてもだし、活動としてもそうです。しかしそこの答えはなかなか出ないんですけどね。
北山さん飯田さんに習ってきて、内藤さんのところで働いて、この3人は同い年だけど全員スタンスが違うから面白いですよね。ぼくは幸か不幸かそれをイーブンに見れちゃう立場にいます。海外でちょっと経験があったせいか客観的に見ることが癖になってるのかもしれないですが。
— 学生のときに建築教育をすこし客観視されていたことにもつながるような気がしますね。
そうかもしれませんね。ということはぼくはそういう人間ってことだ(笑)
— 学生は、4年間とりあえず建築教育うけてそれが体になじむ人もいれば、逆にそこに反発して他大の大学院を受ける人もいます。でも結局それってどちらも一度教育を身体化してしてから反応しているんだと思いますが、田井さんの場合は教育に対して最初からある程度距離をもっていた感じなんでしょうか?
いや、1回やはり横浜国立大学の教育の中にどっぷり浸かったと思います。だからこそ外に出たいって言うのが強かったんだと思いますね。同時に外部の人たちのやり方を見る機会があったから客観視できたんですけどね。まあそういう癖があるっていうことでしょうか。
— そのなかで自分の建築家としてのスタイルはどういうものだと考えられますか?
悩ましいところですね。ここ10年くらいは、スタイルってあんまり無理して意識的にだすものではないって思ってたんです。それは僕っていう建築家の持っている身体性みたいなものが色々な条件と化学反応を起こして出来上がっていくものであって、そこの部分を恣意的に方向付けるって言うのは、ちょっとなんか無理があるというか。だからまあ自然でいいやと。それはもちろん僕自身がいろんなことに意識的であって、問題意識があればそれが作品に中にも反映されて出てくる訳ですし。メディアに扱ってもらえた部分では、何かしらのメッセージをはらんだ仕事はできてたのかなと思います。だけどその部分の跳躍力というか、問題意識の強度みたいのはちょっとあげるべきなのかなとちょっと思っています。まあ住宅はそうゆう部分で難しいですけどね。今は住宅がメインになっていますが、住宅以外の仕事もしていかなくちゃいけないな、住宅であったとしてももう少しプロトタイプ化できる手法で解いていく必要があるのかなっていう気もしています。
— 今回田井さんの展覧会(2011年に石川町で行われた「田井幹夫アーキテクトカフェのビルト・アンビルト展」)では住宅もコンペも両方展示してありましたが、住宅は田井さんのカラーを感じますが、コンペはいろいろあるなという印象を受けました。
住宅とコンペのギャップみたいなものはよく言われますね。僕自身はあんまり違和感は無いんですけど。たしかに住宅はそんなにこねくり回さなくてもいいかなというのはあります。一方である程度規模が大きくなるともう少しプログラムは複雑になるし、そういうことから住宅とはもっと違ってくるものがあると思います。しかし最近では住宅というステージの中でももうちょっと違う概念を持ち込んでもいいのかなとは思い始めました。まあこれからなので分かんないですけどね。いま住宅でちょっと面白いのやってますよ。
— 計画中の住宅の模型を持ってきて頂く—
— これは一般化した人の生活がこうあるべきだとか、そういった田井さんの問題意識や思想で作られたんですか?
ここでは、閉じていることと閉じていないことの共存っていう、新しい空間的なダイアグラムをつくっています。それは住宅だろうが住宅じゃなかろうが使えますよね。まあ一般的な住宅だろうが他の建物だろうが使えるっていう、大きな枠組み、大きな概念みたいなものがあるじゃないですか。そういうものをどう語れるかに興味があります。だけど一方でぼくとしてのある部分の強みというか最後の砦というか、やっぱり身体的な部分があると思うんです。身体的というのは、つまり素材感とかディテールとかという部分で、そこでは建築の中における時間概念を大事にしたい。今さっき言った大きな枠組み的な話っていうのは抽象的になりやすいし、空間そのものを抽象的にしていった方がメッセージ性は強くなりますよね。だけどそれをやっちゃうとものすごくアーティスティックな空間になって、もちろんメッセージは強いかもしれないけど僕が思う建築という意味では弱くなる気がするんです。人が使えるとか時間に耐えるとか、そういう部分を共存させていきたいっていうのが僕の建築観なんです。概念を表出したらそれで役割終わったみたいな、そういう建築はつくりたくないんです。
— 確かに田井さんの住宅は形式はあっても抽象的じゃないという感じはしますね。
そうでありたいと思っています。すこし前までは抽象性とか形式性みたいなものに対して、ちょっと斜に構えていたところがありました。だけどやっぱりそういうものも含めて建築だから、いろんな形でやってみようと思います。
— 最後に学生に一言メッセージをお願いします。
純粋に建築を楽しんでほしいなと思います。単純に楽しい仕事ですから。すごくいろんな人と接することが出来るし、人間の行為というか、モノをつくることでこそ生きてきたみたいな、そういう部分に関われるわけですよね。そういうハッピーな仕事なわけです。これからの時代食える食えないっていう意味ではみんな食えないだろうから。そういう時だからこそ根本的な部分でピュアな仕事に関わるべきだと思います。不純物が少ない仕事というか。将来みんなにはいろいろ名誉だとか、私利私欲だとかに惑わされて前に進めなくなる事もあると思うけど、純粋に作業の部分だけ考えると、ものすごいハッピーで幸せな仕事だと思います。そういうことに携われる仕事ってなかなかないからやるべきだと思いますよ。
インタビュー構成:諏訪智之(M1)、後藤祐作(B4) 写真:石飛亮(M1)