飯田善彦
1950年埼玉県生まれ /1973年横浜国立大学工学部建築学科卒業 /1974年計画設計工房(谷口吉生・高宮眞介)/1980年建築計画設立(元倉真琴と共同)/ 1986年飯田善彦建築工房設立/ 2007年〜2011年横浜国立大学大学院Y-GSA教授
—まずは飯田さんの学生 時代についてお聞かせ下さい。
僕は親の転勤の関係で中学、高校と北海道で過ごしました。ちょうど入試の頃は大学紛争真っただ中だったので東大の試験がなく、そこで横浜国大に行くことになるのですが、そうした時代背景もあり、しばらく大学では授業がありませんでした。あと僕らの代は建築学科には女性が一人もいませんでしたね(笑)
—当時は女性が建築家になるということがそもそも珍しかったのですか?
珍しかった。当時建築学科は弘明寺にあったのですが、初めて行ったときは大学というよりは高校みたいな雰囲気があって、大学に抱いていた印象とは裏腹にとてもローカルな感じがしましたね。授業が無くて大学もバリケードの中だったので、誰かを呼んで講演してもらおうということになりました。たまたま同級生の一人が原広司さんの『建築に何が可能か』という本を持っていて、「この人を呼ぼう」ということになり、実際に原さんに会いに行ったりしていました。そうしたことをしている内に、秋ぐらいからロックアウトが解除され授業が始まり、徐々に時代の状況も変わっていきました。でもその頃の僕はあまり建築に対して真面目じゃなく、芝居をやったり、蜷川幸雄さんをつれて来て学祭で野外劇をやったり、他のことをいろいろやっていたんです。世界中あらゆる分野でいろんなムーブメントが起きていて、貧しいし情報も少ないけれど、新しいエネルギーが生まれつつある面白い時代でした。
—飯田さんが芝居をやられていたのは驚きです。その後どのように建築にのめり込んでいかれたのですか?
大学三年になるときに、そろそろちゃんと建築を勉強しようという気になった。いくつかの設計事務所に電話をして、槇文彦さんの事務所に通い始めるわけですが、「何でも出来ます!」とか言って行ったはいいけれど、実際何も出来ないわけ(笑)。今でも忘れませんが、最初にトヨタの迎賓館のプロジェクトで敷地模型を作ったときに、スチレンペーパーをギタギタに切って叱られました。最初にひどい出来の模型を作ってしまったので、その後は都市計画の報告書作りやプレゼンテーションのインキングや実施設計の図面作成など、模型以外の仕事に廻されましたが、当時の槇事務所の活気などを肌で感じて、こんなに面白いところはないと思ったわけです。そういった実務に関わることに加え、当時はアレグザンダーやハルプリン、カーンなど、ヨーロッパよりもアメリカの建築家の著作や建築からもよく刺激を受けていました。
大学卒業後の進路として僕は芸大の大学院の受験を選択するのですが落ちてしまいます。その時槇さんに谷口吉生さんを紹介されました。僕は仕事を早く始められたという意味で大学院に落ちて良かったと思っています。人には得手不得手があるから分からないけど、僕はどちらかというと手を動かすほうが好きなので、作業しながら考えるということが合っていたんです。だから君たち学生もY-GSAや大学院が合わないと思えばやめていいんじゃないかと思います。建築は経験がものをいいますから、様々な経験を通じて、面白いという感覚を頭だけじゃなくて身体的に持てるかというのが重要ですよね。
—谷口さん事務所ではどんな仕事をされていたのですか?
沖縄海洋博というプロジェクトを経て、谷口さんが事務所を立ち上げるというのでそのまま残ったんですけど、当時は青山の小さなマンションの一室が事務所で、仕事が全然ありませんでした。仕事がないので事務所に行くとまず散歩に出かけ、本を読んで夕方帰るという生活をしていました(笑)半年ぐらい経ったときに「雪ヶ谷の住宅」という初めての仕事が舞い込んできたんですけど、谷口さんは何も教えてくれませんでした。確認申請も分からないし、役所に図面を持っていって「採光はどうなってるんだ?」とか聞かれても、こっちも「採光ってなんですか?」という状況でした(笑)ですから海洋博で一緒だった曽根幸一さんの事務所から実施図面を借りたり、当時鹿島出版から出ていたディテール集を買ってきたりして手探りで仕事の仕方を覚えていき、最初の担当物件をやってました。
そのあと資生堂アートハウスと金沢市立玉川図書館の設計の2つを同時並行でやらせてもらっていました。大変でしたけど、おもしろかったので苦ではありませんでしたね。だから僕は今の事務所のスタッフに半分冗談で「僕でも美術館と図書館を一緒にやっていたのに、何できみはこれができないんだ」って言っていますね。
—その後谷口事務所を独立されるきっかけは何だったのですか?
谷口さんという人は何も僕に教えないんです。だからぜんぶ自分でやらなくちゃいけない。結果的に全てにおいて全力でぶつからざるを得ない状況におかれ、実務を身体で覚えていきました。谷口さん自身はそれを意図的にやっているわけではないと思いますが、結果的に見るとすごく優れた教育者だと思います。僕はそれまで谷口さんに全てを注いでいて、すごくいいスタッフだったと思います。けれど30歳になったとき、自分のために仕事がしたいと思うようになり独立することに決めました。
谷口さんの事務所を出たあと、元倉眞琴さんと事務所をはじめました。はじめは代官山ヒルサイドテラスの一室を僕ら2人、山本理顕さんの事務所の3人、家具デザイナーの藤江和子さんの計6人でシェアして仕事をしていて、元倉さんとは住宅の設計をやったりしてたんですが、36歳のときに別れて西麻布に小さな事務所を開きました。もちろん最初は住宅とかインテリアしかない。僕の場合は自分であがいても中々上手くいかなくて、何か働きかけがあったりとか、チャンスに乗っかってく感じがあるんじゃないかと思います。槇さんに谷口事務所に行けって言われた時も、嫌だと言わず素直に行ったわけですよ。槇さんが何で僕に声を掛けてくれたか分からないですけど、数多いるアルバイトの中で声をかけてくれたのは多分一生懸命やってたんでしょうね。つまり一生懸命やることの大切さはあとから分かるんですよ。だから常に自分の力を惜しみなく発揮しなければいけない。
—そうすれば飯田さんのような建築家になれるわけですか?
もちろん!僕よりすごい建築家になれるかもしれない(笑)。僕らはどんなに才能豊かでも、建てることが出来なければしょうがない。実際に1/1の空間がそこに出来るか出来ないかはものすごく大きくて、コンペの二等とか三等は自分のキャリアとして良いかもしれないけど、建築の世界のコンペは一等しか意味が無い。そういう意味では中々熾烈ですよね。
僕が初めて手掛けた公共建築である川上村の林業センターも人の縁で関わることができた仕事です。レンゾピアノの本に「建築家は最後に残された冒険家」という記述があります。つまり建築家は、未知の世界に分け入って、そこにしか無い、新しいものを作っていく。この仕事を経験して、ピアノの言葉に非常に強く共感できた。林業センターを設計するに当たり、川上村という地域や林業について勉強し、様々な人に話を聞いたり、様々な場所を訪れたりして建築というものにしていくわけですよ。そんな中で役場の人と話し合い、林業センターとして林業の歴史の展示やレストランの計画をするんだけど、村の人がそれを知る機会がないんですね。それを何とかしたくて、僕は新聞を作ったんですよ。林業が衰退して高地農業に切り替えた今、なぜ林業センターを作らなければいけないのか?それはどうしてこういうデザインなのか?それを知ってもらうために全戸にその新聞を3号まで配りました。あと、もはや林業を知らない子供たちに木を切るところを授業で見に来てもらったりもしました。つまり建築を狭い意味での建物っていうのではなくて、作られたあとどうやって自分たちの施設として使ってもらえるかを考え広義の建築を構築していった。僕は建物を計画する際、なるべく広い意味でデザインを捉えるようにしています。建築家が出来ることの範囲は意外と広いですし、そういうプロセスが建築の面白いところでもありますよね。
—飯田さんの建物はあまりスタイルがないように感じます。その一方で建物に強い芯みたいなものや人を中心においたあたたかさを共通して感じることができます。その理由が先ほどの”生きた建物にするために広義に建築を捉える”というお話をお聞きして理解できた気がします。
自分でもよく分からないですが、例えば妹島和世さんの建築は、出来るだけ概念が突出するように、概念しか見えないように建築を作っている気がします。僕は逆なところがあって、建築の概念はもちろん最初にあるんだけど、どこかでディティールが裏切っていくところがあって、概念が弱くなってでもこっちの空間の方が良いと思うことがあって、それが自分の弱いところですかね(笑)僕はこれというスタイルがあるわけではないけれど、やっぱり新しいことをやりたいといつも思うので、そのときに良いと感じたことを割と実行してしまうんですね。
—飯田さんは最近ではコンペに勝ち続けているだけでなく、街に開かれたカフェでも話題になっています。
前々から事務所をどうしようかということも頭にあったんですけど、大量にある本もどうにか出来ないかと薄々考えていたところに、原宿にあるブックカフェの存在を知った。それをすぐに見に行ってこれなら出来ると思った。それですぐに横浜市に連絡して良い場所はないかと聞いたところ、ここを紹介されたんですよ。どうにかして街と関係していこうという事を自分でやろうかと思ったんですね。僕は思うと後先考えずにやってしまうんですよね(笑)。まあこれは建築もそうですけど、やってみないとわからない。もう一年経ちますけどなかなか面白いですよ。僕はお金がないときでも本だけは買うようにしてたのもあって、全部で3,000冊くらいかなあ。小学校のときにうちにあった図鑑なんかもあります。出来れば学生に来てほしいと思っていて、料金を割安にしています。
Archiship Library & Cafe(2011~)
飯田さんは横浜で事務所を構え、Y-GSAの教授として横浜で教鞭をとられてきたわけですが、横浜という都市をどのように感じていますか?
横浜に事務所を構えたのは15年くらい前で、住んでるのはもう25年くらいになるのですが、横浜は街が面白い。僕のY-GSAで教えていたスタジオが「街に出て建築を考える」というものでした。横浜市と連携しながらこの街を使い倒そうということを考えたんですね。やっぱり建築は実際に土地があってそこに何をつくるかっていうところから始まる。そうするとその場所を色々と調べる。学生に僕と同じようなプロセスで建築を考えてもらうことを意図していました。
僕の最終講義では「そこでしかできない建築を考える」ということを話しましたが、そこの場所というのが建築をつくる上ではものすごく大事で、横浜はそういう意味で特性のある場所が積み重なっている魅力がありますね。
—最後に学生に一言メッセージをお願いします。
出来ることを全力でやることですね。どんな場所にいようと。
インタビュー:石飛亮(M3)、後藤祐作(M2)、藤奏一郎、寺田英史、浅井太一、柳田里穂子、的場愛美(M1)
構成:石飛亮(M3)、後藤祐作(M2)、藤奏一郎、室橋亜衣(M1)
写真:石飛亮(M3)