危口統之(本名、木口統之)
演出家
1975年岡山県倉敷市生まれ / 1999年横浜国立大学工学部建設学科卒業
大学入学後演劇サークルに所属し舞台芸術に初めて触れるも卒業後ほどなくして活動停止、 建設作業員として働き始める。周囲の助けもあって2005年あたりから断続的に活動再開。
2008年、演劇などを企画上演する集まり「悪魔のしるし」を組織し現在に至る。2011年トーキョーワンダーサイト・国内クリエーター交流プログラムに参加。2012年度よりセゾン文化財団ジュニアフェロー。ほんとうは危じゃなくて木。
—学生時代までについてお聞かせ下さい。
生まれ育ちは倉敷です。町並み保存が売りの観光都市ですが、都市や建物を意識する機会はなく、普通の現代っ子としてTVゲームや映像表現などに興味を持ち、進路もその方面を希望していました。ところが偶々センター試験の出来が良く、色めき立った偏差値重視の大人たちに唆されるたかちで横浜国立大学を受験することになり、なぜか合格してしまったのです。試験が学科ではなく実技だったことも幸いしました。
ヘヴィメタルが大好きだったので、大学に入ってからはバンドをやろうと思っていました。サークル紹介のパンフレットを片手に第一食堂裏をうろうろしていると、壁一面に「METALLICA」と描かれた部室を発見し、「これだ」と思って入ってみたら、これがなんと演劇部のアトリエ。せっかくなので稽古を見学したところ、なかなか面白そうだったのでそのまま入部してしまいました。だから建築にしろ演劇にしろキッカケは全くの偶然、交通事故のようなものです。
演劇公演の準備というのは、台本を用いて稽古を行うだけでなく、舞台美術や音響、照明などの設計、宣伝用の看板やチラシの作成、それからお金の計算など、様々な作業から成り立っているので、その中で自分の得意なことや興味のあることを見つけて取り組むといった感じでしたね。
—では学生時代、建築にどっぷり浸かっていたわけではないのですね。
そうですね。当時の建築学科の仲間との記憶はテレビゲームと麻雀しかない(笑)建築の課題に対して、僕はあまり努力ということをしたことがなくて、何となく自分でできることだけやって、それで形になれば良いか、という感じでした。とはいえ、1年のうちはそれでごまかせても、2、3年生になってくると複合的な知識や考えが建築には必要になってきます。今でも忘れられない言葉があります。4年生の前期に、当時教授だった山田先生に「木口は面白いことはやるけれど、いつもワンアイデアでストップだ」と指摘されたのです。少しはましになったかもしれないのですが、今でもそういうところはあります。アイデアに普遍性を持たせるための色々なお膳立が建築には必要だと思うのですが、そこに対する粘り強さが僕にはないことを山田先生は見抜いておられた。
「学生時代の危口さんスケッチ」
—演劇の方にはどんどんのめり込んでいったのですか?
確かに学生時代に演劇に費やした熱量は大きかったのですが、ただひたすら熱量だけだった、とも言えます。元々あれこれ考えて演劇を選んだわけでもないし、真剣に演劇というジャンルについて考えていたわけでもありません。みんなでわいわいやることが自己目的化していたし、だったら必ずしも演劇である必要はなかったんじゃないかと思います。
—学生のときに影響を受けた本や人はありますか?
身近な先輩であったり友達であったり。決定的だったのは大学3年か4年の時に柄谷行人の本を読んだことだったかもしれないですね。文芸批評というジャンルを知って、後追いで色々な本を読んだり、一回読んだ小説を、その批評を読んだあとにもう一回読んだりすることを通して、ものの見方が幾分か変わりました。現在では彼自身に心酔することはなくなりましたが、大きなきっかけを与えてくれた人です。
—そこから表現する内容だとか演劇に対する捉えかたが変わって行くわけですね。
そうですね。ただ大学を卒業して僕はいったん演劇をやめているんです。周りもどんどんやめていくし、僕自身続ける理由もなかったので。
-大学卒業後はどうされていたのですか?
卒業して一年が経ったくらいから建設現場で荷揚げのアルバイトを始めました。いずれ演劇を再開しようと思っていたわけでもなく、単に食い詰めたから始めたのですが。そうしたら、これが笑っちゃうくらいきつい仕事なんですね。でも楽しくもあったんです。そんな生活を開始してしばらくした頃、2002、3年くらいですが、演劇に戻るきっかけが訪れました。演劇部の1つ上の先輩で、現在クラインダイサムアーキテクツで設計をされている久山幸成さんから「知り合いのアパレルブランドが舞台美術のできる人を探している」と誘われたのです。そこで出会ったのが「シアタープロダクツ」の金森香さん。当時彼女のオフィスが外苑前にあったので、近所の隈事務所で働いていた藤原徹平さんも誘って飲んだりするようになりました。藤原さんは僕の1つ下の学年で学生時代一緒によく麻雀をやった仲です(彼の雀風は裏ドラ乗りまくりのえげつないもので、ずいぶん酷い目に遭わされました)。で、あるとき彼らに「木口そろそろ演劇再開しろ」と言われて始まったのが「悪魔のしるし」の活動です。だから最初は、その頃一緒に飲んでいたメンバーで集まって「演劇ごっこ」でもやってみる?という感じでしたね。
–危口さんのような建築というバックグラウンドを持ちながら演劇を見ることができる立場であったり、演劇を知らない他のメンバーで構成されていたからこそ持ち得る批評性があったわけですね。
そうかもしれません。対象について自分こそが最も無知な人間なんじゃないかという恐怖感からスタートしないと良い批評にならない。自分が一番この作品のこと知っているんだっていう示威行為のような批評はつまらないですからね。
—「悪魔のしるし」という劇団の名前は、何か深い理由があるんですか?
BLACK
SABBATHという僕の好きなバンドに「SYMPTOM OF THE UNIVERSE」という楽曲があるんですが、その曲に日本のレコード会社が勝手につけた邦題が「悪魔のしるし」です。命名の経緯については、それなりに深い理由もあるのですが、話すと長くなるので知りたい人は個人的に訊いてください。
—どうして木口さんの「木」が危険の「危」になったんですか?
いわゆる中二病というやつです(笑)
でも全く考えもなしに変えたわけじゃなく、興味を持ってくれた人がGoogleで検索したとき直ぐに出てくる名前がいいと思ったのです。人気商売ですから。
—そして、悪魔のしるしの活動が始まったんですね。
最初は、これでのし上がろうなんて気持ちは全然なかったわけです。2010年の秋に「フェスティバル/トーキョー」という、大きな演劇祭の公募枠に紛れ込めたのが一つの転機で、それまでは友達の友達くらいの範囲でやっていたことが、もう少し広い目に晒されるようになったのです。そこからかなり周囲の環境が変化していきました。
「前代未聞の公園でインタビュー」
—非常に注目を集めた搬入プロジェクトはどういうきっかけで始まったのですか?
建設現場で働いたことがきっかけです。働き出した当初、僕は非力で全然資材を持てず「使えないヤツ」扱いでした。そこで荷揚げではなく雑用担当として、当時建設中だった六本木ヒルズのテレビ朝日新社屋の現場に送り込まれたのです。それまでの現場はマンションやビジネスホテルなど比較的小さな建物ばかりだったのに、いきなり「朝礼会場に2000人」なんて規模の現場を体験し、その祝祭性に、大学祭で仮設建築をつくっていた頃の熱気に通じるものを見出しました。かっこよくいえばオーケストラのようなものですね。たくさんの職人さんを現場監督が指揮していて、でも監督自身も全貌はよくわかっていなかったり。現場自体が一つの生き物の体内のように相互調整しながらシステムができている。見ていて面白かったです。
ご存知の通り、テレビ朝日は槇文彦さんの設計なのですが、そんなことを知らない荷揚げの同僚達は「なんだよ、この変な設計は」なんて言ってて(笑)
いちいち格好つけやがって、運びにくいんだよって。荷揚げ屋っていうのは要するにものを運ぶだけの仕事ですから、搬入経路が面倒な変わったデザインを嫌うんですよね。
—それをそのまま表現に結びつけたのが搬入プロジェクトなんですね。
世界的に有名な設計事務所の仕事を、物が運びにくいっていうだけで散々こき下ろす視点に感じる物がありました。そういう意味では、この現場での経験が動機の一つです。とはいえ、「そのまま表現に結びつけた」わけではありません。建設現場からの視点だけでなく、演劇ないしパフォーマンス・アートが抱える様々な問題なども意識的に絡ませながらアイデアを練ってきたつもりです。
これはあくまでも僕個人の意見にすぎないのですが、批評に関しては(とりわけこの国においては)演劇よりも建築のほうが充実しているように思います。物をつくるときの思考のあり方については、建築に関する書物や、大学で受けた授業の影響が大きい。やっぱり北山恒さんからの影響を大きく受けていると思います。複雑な周辺環境の中に新しい何かをつくりだす時、状況に合わせて介入の在り方を変えていくという考えは北山さんからの影響ではないかと思います。セオリーは建築から拝借しつつ、道具立てとしては演劇を使っている、という感覚があります。
—動画を拝見して、搬入プロジェクトは新しい空間の捉え方を搬入という視点を通して表現していると感じました。搬入可能ぎりぎりのオブジェが入り口の角を通るかどうかというディテールとオブジェのそのときのあり方、被搬入物とオブジェの関係といった全体という2つの視点が往来して、ディテールと全体を一度に空間体験してしまうすごさがあります。
この作品の魅力は写真だと伝わりにくい。せめて動画、ほんとうは実際に参加してもらうのが一番いいですね。このドアストッパーさえ無ければ……みたいなディテールの効果を身に沁みて体感できます。
建築家こそが空間の専門家だ、と言われたら確かにそうなのですが、また違った空間の捉え方をする人も世の中にはいると思うんです。そこらへんを混ぜっ返したかった。
「搬入プロジェクト 豊島唐櫃公堂(瀬戸内国際芸術祭)に搬入する様子」
—「この建物に搬入したい!」とかはありますか?
作品のコンセプトとしては、どんな建物でも上演可能なのが売りですし、選り好みをしてはいけないと思っています。しかし、その一方で僕にも虚栄心はあるわけで、好きに選んでいいというのならテートモダンでやりたいですね。タービンホールに搬入したい。
—通らない事はあるんですか?
ないです。ちゃんと事前に模型でスタディするので。でも、あるかもしれない(笑)
通らない日が来るのをちょっと楽しみにしています。
—あれは演劇と呼んで良いんですか?
最初は演劇と言い張っていたんですよ。戯曲と俳優の関係を、物体と運び手の関係に置き換えただけなのだから、搬入プロジェクトは演劇だと。でも最近はそれほどこだわっていません。演劇というよりは、演劇の祖先みたいなものだと考えています。お神輿に近い初源的な楽しさがあるし、一人じゃできないから皆でやるしかない。社会という営みの始まりも、最初はそんな感じだったんじゃないかと夢想します。
—広い捉え方で作品を作っていかれているんですね。
建築も同じですけど、演劇という言葉で捉え得る範囲は非常に広いんですね。みんな、何となく演劇とはこういうものだというイメージを持っているけど、非常に限定的です。それは僕にとって介入すべき与条件の一つになります。みんなが演劇、あるいは悪魔のしるしに対して抱いている先入観は、建築設計における敷地条件のようなものです。
お客さんに対してどう働きかけるか。自分で手を動かす前に、すでにあるものをどう活かすか。それを考えるのはすごく建築っぽいし、横国ぽいと思います。こんな考えを持つ人は演劇の世界ではそれほど多くないということもあって、面白がってもらってるのかもしれません。
—今はどのようなことに興味があるのですか?
先ほども言ったように、演劇の概念自体はとても広いものですが、ある程度制度化されてもいます。つまり、一見食えそうにない演劇の世界でも、ちゃんと食えてる人がいるってことなんですが。制度化されているというのはそういうことです。食えている人は制度の番人となっていますから、イレギュラーを嫌います。その状況を踏まえて自分がどのようにアプローチしていったらいいのか常に考え続けなきゃいけない。
今のところ僕はセゾン文化財団や国際交流基金などから支給された助成金で活動しています。税金をはじめとするパブリックな資源を使いつつ自分は何を表現するのか。活動当初は自主公演ばかりだったけど、最近はフェスティバルなどからお話をいただくことも増えました。大きなフェスの場合、社会的意義を作品に求められることもあります。それに対してどう答えていくか。
—最後に学生に向けて一言お願いします。
演劇にしろ建築にしろ懐が深い。そんなジャンルに出会えて皆さんすごくラッキーだと思います。一生かかっても掘り尽くせない鉱山を相手にするつもりで、とことんやればいい。
劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ
与謝野晶子の歌です。
・悪魔のしるしサイトURL
www.akumanoshirushi.com
インタビュー構成:田中建蔵(M2)、浅井太一(M1)、的場愛美(M1)
写真:浅井太一(M1)