鈴木孝紀
1953年東京都生まれ/1979年横浜国立大学工学部建築学科大学院修士課程修了/1979年坂倉建築研究所入所/1987年ワークショップ入所/1993年ハル建築研究所設立/2007年鈴木孝紀建築設計事務所(SAS)に改称
今回のインタビューは鈴木さんのご好意により、鈴木さんが設計を手掛けたショップ兼共同住宅である”Common Garden 原宿 北参道”にお邪魔させて頂きインタビューを行いました。
<Common Garden 原宿 北参道> 都市に開く透明感のある建築を徹底するために、躯体は純ラーメン構造とし、階段室は階段自体が鉄骨トラスとなって自重を支える構造でつくりあげている。
—鈴木さんの学生時代について聞かせてください。
当時は弘明寺にキャンパスがあって、教授が河合正一先生、助教授が山田弘康先生、そして北山恒さんは僕の2つ上の学年だったと思います。入学する何年か前に学生運動があって、まだ僕らが学生の頃は人が教室に乱入してきたり、ヘルメットと棒切れを持っていたり、血の匂いがしました。教養のキャンパスが南太田にあって、そこの学食でご飯を食べていたら学生が乱入してきて、殴り合いになってしまったり。そういうのを見てノンポリになっていったと思います。
—学生時代、学外ではどんな活動をされていたんですか?
ワークショップのバイトが一番楽しかったです。一応バイト料をくれましたし(笑)。北山さん、木下道郎さん、谷内田章夫さんの3人で始めた事務所なんですけど、実はワークショップってメンバーが沢山居たんですよ。僕らの2~3学年上の人たちが軽井沢の旧商店街で店舗を改装してカフェにつくり替える仕事を受けて、設計施工をやりました。そのメンバーがワ-クショップって言ったのかな。僕は面白そうだったし、彼らの周辺にいたから、いろいろ便利に使われて。現場で合宿みたいなことやり、飯炊き当番をしたりしました。観光地なので夏休みに人がわっと来るからそれまでに終わらせないといけなくて、泊まり込んで施工するわけです。レンガを積んだり、その上にカウンターを載せたり、それにペンキを塗ったり、床にタイルを貼ったり、横浜の港のカモメのマークのタイルをエントランスに貼ってスポットを当てたり。
そうこうしているうちに、オイルショックがあって、世の中の景気があまりよくなくなり、新卒の仕事もなくなっちゃうわけですよ。それで大学院に進学してモラトリアムの時間を稼いで、そのときに坂倉事務所にバイトに行き、その縁で就職しました。新宿のホテルとオフィスを基本設計から現場監理まで3年間くらい担当しました。今考えるとすごく面白いことをやっていたなと思うけど、当初は目の前のことをこなすのに必死で怒られてばかりで。
あとは、学校の設計の手伝いや住宅公団の多摩ニュータウンの団地の設計をしました。そこで集合住宅が面白いなって思いましたね。
いろいろやらせてもらってるうちに景気が良くなってきてバブルの時代になり、若い事務所に仕事がいっぱい来る中、僕はまだ一人で独立する勇気がなかったんです。そこに北山さんから電話がかかってきて「ワークショップが忙しくなってきたから誰か人を紹介してくれない?」と言われて、「僕が行きます!」ってワークショップで働き始めました。
—当時ワークショップではどんなことをされていたんですか?
今皆さんがワークショップって言って何を思い出すか知らないけども、初期の段階のみんなで試行錯誤しながらつくっていた時期で、いろいろなことをやらせてもらいました。僕が入所前に、今の六本木ヒルズに地下の酒蔵のような場所を改装してバーにしました。そこでお客さんを集めた実績が買われて、近くの日本庭園に「ビアジャングル」という木で組んだジャングルジムをつくり、一夏のビアテラスをやっていました。面白いことをやる若いのがいるから何かやらせてみようと、そんな時代でした。事務所がどんどんおおきくなっていって、いろんな仕事が来るようになって、僕はビアレストランや住宅、集合住宅などを担当しました。そんなことをしていたらすぐに6年も経ってしまって、ちょうどバブルも終わりかかっていて、40歳を直前にして事務所を辞めました。そして、建築計画系の講座にいた長島一道さんと組んで、ハル建築研究所を立ち上げました。長島さんと仲良くしておけば仕事があると思ったところもあり(笑)。
—計画系と意匠系がユニットとして仕事をするという枠組みは今でも斬新だと思います。
計画系の人たちって、病院や施設などとさまざまなつながりがあるんです。そういう意味で長島さんにはすごくお世話になったなって思います。長島さんが立てたプログラムで僕が建築にする。いろいろな施主と会わせてくれる中で、どうリアルな建築として実現していくかということをやるわけです。ハル時代、僕は5つの社会福祉法人を相手に、僕らとちょっと状況が違う人たちが生活や仕事をする場所を設計しました。その経験が今、いろいろな集合住宅を設計する上で糧になっている所はあります。やっぱり出会いですね。全て。
<花みずき> 知的障害者の方のための住まいと作業場。居住棟はRC造、共用棟はS造として、用途で構造形式を変えている。共用棟の1階は食堂、イベント会場にも使われ、2階のデッキにつながる大きな階段はイベント時の客席にもなるなど、「コテージ」をキーワードに様々な使われかたを提案した。
—福祉施設では普通の住宅をつくるよりも、使う人の動きの制約や、認知症の方が迷ってしまうため複雑な構成できないなど、考える要素が増えると思いますが、そうした変数が増えた時も普段と変わらない方法で取り組んでいくのですか?
それはみんなで話し合ってつくっていくしかないと思います。僕らは誰も高齢者やハンディキャップを持った人になった経験はないので、想像や積み重ねだと思うんですよ。ただ、どう考えても違うんじゃないかと思うときは粘ります。例えば、「ベルホーム」の建築はある意味暴力的で、理事長さんの理解があったから実現できたのだと思います。詰め込まなければいけない要素が沢山あったので、ピロティで持ち上げたインフラストラクチャーのような人工地盤をつくって、その上に高齢者のための低層集合住宅を提案しました。こうしたインフラのような大きい要素は、事細かに話し合いをするのではなく、ある程度こちらで決めてしまいます。住宅の設計は施主にすべて納得してもらわなければ決められないので、違うのかもしれません。
<ベルホーム> 埼玉県鳩ケ谷市にある介護老人福祉施設。1階をデイサービス、2・3階を全部個室の老人ホームとした。2階に人工地盤となるプレートをつくり、その上階は軽やかな構造としている。
—そして2007年に個人事務所の設立をされたのですよね。現在どのようなものを手掛けているのでしょうか?
去年の12月に完成させたのが、新宿三丁目のオフィスと店舗の複合施設です。それから最近、横浜西区で植木屋さんの二世帯住宅をやりました。それも、前に設計した住宅の庭の手入れを手掛けた植木屋さんだったりと、それまでの関係がつながってるのです。そうした今まで脈々と続いているつながりを大切にするためにも、建築は重要ですよね。みんなで築き上げてきて、みんなが良いなと思っているものは大事にしていきたいと思うんですよ。
左; <PLAZA EST新宿3丁目> 飲食店舗と事務所の複合建物。地下1階・地上9階の鉄骨造の構造体のなかに、制震ダンパーが巡っている。
右; <山田造園> 二世代が生活する住宅。1階には駐車・資材置き場。2階から4階は内外に吹き抜けを設けることにより、お互いの気配を感じる空間になっている。
今、集団的自衛権とか、内閣のとんでもない暴走が始まってるじゃない。そういうのは建築と関係がないわけじゃない。みんなが良いと思って築き上げてきたものがある。建築で言えばふわふわしたり飛んだりする、新しい表現の建築って面白いと思うのだけど、それでもみんなが築き上げてきたものを完璧に否定はできないと、僕は思います。
—ハル時代から大桟橋などの国際コンペなど、積極的に出されていますよね?
コンペはシミュレーションやトレーニングとして、社会的に何を考えているかを示す良い機会なんですよ。それをある程度見せられるかたちにして、社会的な現象や情勢にメッセージを込めていかないと、価値が湧かないのではないかと思います。
—ハル時代は福祉施設を多く設計され、今は住宅系を中心に設計されていると思いますが、かつて考えていた視点が今につながっていることはありますか?
あまり意識してないですね。寸法体系や水回りもその都度一から考えるから、ずっと引きずって参考にしていることは多分ないですね。ただ、なるべく居心地が良い、使いやすいものを大人数を相手に決めていくのか、少人数なのかの違いだけですよ。そこで大人数でやった寸法とかが参考になるかといわれると、住宅は特殊なので何とも言えないです。
—結局建築家がかかわらないと、箱物の施設がたくさんできてしまいます。
これからお年寄りが増えていくからお互いが支え合えるような施設がもっと増えるべきだと思いますね。老人ホームも集合住宅もいいと思うんですが、僕が本当に設計したいのは多世代共生型の集合住宅です。そういう意味では、老人福祉施設を設計していたから、多世代という視点を持ったのかもしれません。多世代という意味は、年齢は当然あるのだけれども、いろいろなハンディキャップを持っている人が住むこと。後2~30年したら、日本は高齢者ばかりですよね。その人たちが、いわゆるワンルームマンションに住む現実は、既に出てきています。そのときに、隣の人との関係はどうなっているのか、共有部はどうなっていると良いのか、その辺りは常に考えていますし、これからも設計に反映させていきたいと思います。
—今大学の設計課題で、地域で高齢者を支えるということを考えているのですが、そういう意味でも鈴木さんのおっしゃる多世代共生型集合住宅というものはとても良いと思います。
集合住宅もそんなに大きくなくて良いと思うんですよ。そういうサポートし合うものが街中にポンポンあって、連携がとれるようなことになれば良いわけでしょう。僕も集合住宅を設計しているときに、1階を地域のコモンキッチンにするという提案したことがあるんですよ。けれども、クライアントから「儲かるか?」と聞かれて、うーんと言葉が詰まってしまった。ビジネスになるような仕組みがあると、良いかもしれないですね。
—デベロッパーと組むと、出来たときの力はあると思いますが、なかなか実現が難しいですね。
設計事務所って企画の卵にもなっていないようなこともいろいろやるんですよ。例えば、新宿の繁華街で土地を持っている人が相続対策で何かやらなくてはいけないと。隣に区の保健所があり「保育園があるといいかもしれない」と思いついて、そういうことを運営する会社にあたりました。けれども、そのエリアは待機者が少ないということで、その計画はダメになってしまったんです。でも諦めきれず違う所に話を持っていったところ、事業所保育というものがあって、そういう事業所が何件か集まればある程度まとまった保育園ができるということで、その企画をまた持ち込んでみたりしています。つまり、いろいろと情報を得ておいて、それで頭の中でシュミレーションすると良いと思います。
—3.11の震災があって、鈴木さんの中で考え方が変わった、影響を受けたことは何かありますか。
ありますね。やっぱり人間は、生きていく上でエネルギーを必要とするし、エネルギーをかけて建築をつくらなきゃいけないでしょう。「無駄なことは絶対、一切したくない」という考えが一層強くなりましたね。あとは、多世代共生というものにつながることかもしれないですが、みんなで使えるものを入れた方が良いと、施主に提案してみています。新宿三丁目の商業施設は鉄骨造で、X、Y方向に2機ずつ、各フロアに4機、全部で26機の制振ダンパーを入れているので、かなり大きな地震が起きて周りの建物が壊れても残るかもしれない。そうすると何をやっておかなければいけないのか?と考えたときに、施主からの提案でもあったのですが、小さいけれども備蓄倉庫をつくるのはどうか、となりました。オフィスで備蓄倉庫をつくるなんて、収益の上がる場所の面積を削らないといけないわけですよ。でも「何かがあったときにみんなでなんとかする」ためのものを建築に入れた方が良いですよね。
鉄骨造の構造体に制振ダンパーや備蓄倉庫といった万が一の備えが設けられ、ガラス張りのファサードにより、街に対してオープンになっている。
とにかく腰を軽くして、いろいろな人とコミュニケーションをとって、強靭な肉体を持ってください。たたかれても絶対にめげないという強い精神力と、強靭な肉体があれば絶対生き残れます(笑)。
インタビュー構成:寺田英史(M2)、柳田里穂子(M2)、江島史華(M1)、山田裕実(M1)、草山美沙希(B4)
インタビュー写真:山本悠加里(B4)