寺田 真理子(てらだ まりこ) 1968年 神奈川県生まれ/1990年 日本女子大学住居学科卒業/1990-99年 鹿島出版会SD編集部/1999-00年 オランダ建築博物館にてアシスタント・キュレータ/2001-02年 (株)インターオフィスにてキュレータ/その後、インディペンデントのキュレータとして現在に至る/ 2006-09年 桑沢デザイン研究所非常勤講師/2007年より横浜国立大学大学院Y-GSAスタジオ・マネージャー
–それではよろしくおねがいします。
ではまず、数ある領域の中から建築に進もうと思ったきっかけをお聞かせください。
私は当時、日本女子大学の附属の高校にいたのですが、そのころ興味があったのは英語で、将来は海外に触れていくような仕事ができたら良いなとぼんやり考えていました。それで大学では英文科に進学したいと母に相談したら、英文科よりは住居学科とかの方が面白いのではないかとアドバイスされました。昔から絵とか物を作ったりするということが特別に得意だったという訳ではなかったのですが、何か技術を身につけ人生のなかで長く活かしていく方が良いだろうから、住居学科はどうだろうかという母から投げられたボールを素直に受け止めて住居学科に進学しました。
入学当初から基礎意匠や基礎デザインが得意な人が私のまわりにはいて、自分はそれほど上手くないと思いながらも楽しめるようになったきっかけが日本女子大学と早稲田大学でつくられたサークル、パースペクティヴ研究会だったんです。サークルに入るといろいろな場所に建築を見に旅行をしたりと、そうした活動を通して建築が大好きな学生や優秀な学生との交流を持ち、彼らに導かれ少しずつ建築というものを知りはじめたんです。そして学部の3年生になったとき、母から成人式のお祝いに建築を見る旅行に行ったらどうかと言われヨーロッパに行きました。そこで初めてギリシャのパルテノン神殿のような歴史的な建築物からル・コルビュジェやジャン・ヌーベルの建築を見て、建築ツアーで知り合った建築家や学生との交流を経て、自分なりに建築の面白さを発見して入り込んでいきました。
4年生になると設計は選択になるのですが、その設計の先生として、当時は建築家の伊東豊雄さんが非常勤講師でいらしていました。以前から伊東事務所でアルバイトしていたのですが、大学でも教わることになり伊東さんとの交流が深まったんですよね。設計の授業の後などよく伊東さんと数人の学生で新宿に繰り出したりしていました。(笑)そうして交流を深めて行くうちに、当時のプロジェクトで奈良シルクロード博のパビリオンの現場を見に行ったり、新潟での伊東さんの講演会を聞きに行ったりと楽しい建築の旅が始まりました。4年生のこの時期に伊東さんと出会えたことが私の人生にとって大きな契機となり建築の根元的な楽しさを学びました。
そしていざ就職をと考えたときに、そこでも伊東さんには大変お世話になり様々な編集社を紹介していただきました。もともとは海外に触れていくような仕事がしたいと考えていたのですが、これまで学んできた建築の面白さを伝えたり、広めたりすることへの興味が高まり、設計だけではない別の道も考えるようになります。そこで出会ったのが雑誌の編集者という仕事でした。「雑誌」というメディアで社会に伝えたいことを様々な角度から企画し発信する。それも海外の文化を含めた広い視点で建築を考えられるという「雑誌」の可能性に惹きつけられました。そして最終的には鹿島出版会の『Space Design』(以下SD)の編集者になりました。
左:SD9707『加速都市:香港1997』 右:SD9402『台湾現今設計観察』
SDはデザインから都市まで、さらに海外も含め幅広い視点でいろいろなテーマを切り取りながら今の建築や都市、文化を伝えていくような雑誌でした。大学を卒業したばかりの私にとって、なかなか自分でテーマを設定するというのは難しいのですが、そのなかで初めにトライしたのが台湾の現代建築の特集でした。当時アジアは急成長していくなかで、少しずつ建築も変化しはじめていたころでした。そうした文化的背景の中でデザインやグラフィック、映画の分野などで活躍する人たちへの取材を通して変わりつつあるアジアの姿とその建築の変化を伝えようとしたのです。私は以前から建築そのものへの興味に増して、なぜそれが生まれたのか、どういう背景があったのか、ということに興味があり、一人の建築家だけに焦点をあてるような特集というよりは、例えば文化的な背景にテーマを絞りしながら、建築と行ったり来たりする関係を伝えるということに興味がありました。実はそれは今でもそんなに変わらないんです。
次に特集を組んだのが94年のベトナム特集でした。ちょうどベトナムも急成長をしている最中で、様々な大学の研究室がベトナムに現地入りして面白い調査をやっていました。まだまだベトナムは未開の地でもあったんですが、かつてフランスが入り込んでいた時代の建築が残っていたりだとか、ホーチミンまでいくとソ連の建築があったりだとか、そうした歴史的な背景を理解しながら都市を見ていくのはとても面白かったんです。その次に香港の特集も出したのですが、こうして次々とアジアの特集を組んでいく中で協力してもらっていたのが建築家である小嶋一浩さんでした。最初の台湾特集をはじめ、タイやミャンマーなども小嶋さんや歴史家の人たちと一緒に旅してみてきました。小嶋さんの都市を見る目というのはとても面白く、いろいろな新しい切り口で都市を見ることを学んだ気がします。自分にとってアジアへの興味は尽きず、特に中国返還前の香港は当時のスピード感にわくわくしていて何度も通っていたんです。同じアジアでも日本には無い、当然ヨーロッパにもないアジアなりの文化あるいは都市の密度感、速度感というのが面白かったんですね。そして自分が面白い、新しいと思うことをどういう風に伝えたらいいだろうか、どう次に発展させてゆけるだろうかとうことも幾度となく考えるのですが、いろいろな人との交流やアドバイスもあり、経験を重ねて行くなかで情報の伝達の仕方をつかみ、そして自分の企画の視点や考えをデザイナーに再解釈してもらい編集のやりとりをするうちに、雑誌の編集という仕事が面白くなっていきました。
—なるほど、寺田さんの編者者時代はアジアから始まったんですね。アジア以外でも何か特集はされましたか?
はい。ヨーロッパの特集もいくつか担当しました。建築家の貝島桃代さんがスイス連邦工科大学(ETH)の研究員としてチューリッヒに行かれていたときにスイス・ドイツ語圏の特集を組むことになり、貝島さんと塚本由晴さんとスイスの建築を見て回りました。ちょうどそのころはスイス出身の建築家ヘルツォーク・ド・ムーロンやピーター・ズントーたちが面白い建築をつくり始めていて、結構新しい建築のムーブメントがみえてきた時期でした。その新しい建築のあり方にとても興味をもっていたのですが、ただスイス・ドイツ語圏はなんとなく社会の閉塞感があるように思え、例えば建築のプランなんかをみても矩形のものが多く、イタリア語圏ならマリオ・ボッタの建築も丸いプランのものはあるんですがやはりスイス・ドイツ語圏はカチッとした建築をつくる傾向があるようで、何となくその閉塞感に苦しんだ時期がありましたね。そんなときにオランダで建築家として活躍されている吉良森子さんにオランダの建築を案内してもらうことがあり、そこでオランダの都市における建築のあり方に魅せられたんです。
オランダの建築は必ず都市が前提にあって、建築家さえも都市計画のマスタープランナーとしてマスタープランを描こともあり、その中で建築をつくっています。ヨーロッパでは当たり前ですが、建築が都市とは切り離せない、というのをオランダから学んだんです。オランダでは、社会システムがとてもオープンであるためか、建築家だろうが都市プランナーだろうがみんな合理的でフラットな考え方をしていました。こうしたオランダ社会のオープンさに見られるキーワードは重要だなと思って、オランダ特集『ダッチ・モデル』を1999年に出すことになります。
SD9902『ダッチ・モデル ―建築・都市・ランドスケープ―』
そして翌年の2000年が日本とオランダの交流400年の年だったんですね。それを記念してオランダでは日本の文化をテーマに様々なイベントが行われていました。その一つにロッテルダムにあったオランダ建築博物館で日本の建築をテーマにした展覧会の開催が予定されていました。その展覧会を一緒にやらないかと吉良さんに誘われたんです。これまでの雑誌という二次元のメディアにいたので展覧会という三次元の空間の中で建築を紹介できるというのはまたとないチャンスのように思えました。この次の可能性を追求するべく鹿島出版社を辞め、キュレーションの道へ入って行ったのです。
オランダ建築博物館での展示風景
当時、オランダ建築博物館の館長でいらっしゃった、ベルリンでアエーデス・ギャラリーを主宰しているドイツ人のクリスティン・ファイライスさんと吉良さんと3人で展覧会のフレームづくりを始めたのですが、外国の方が知っている「日本の建築」は、やはり有名な建築雑誌にのるような建築家ばかり、そして都市についていえば東京と京都しか知らないようでした。しかし当時の日本の建築の状況を伝えるためには、そういったことよりかは日本の建築が生まれる背景、例えば社会的な状況だったり、あるいは文化的な背景、あるいは地域性のようなものも含めてどのように日本の建築ができているのかを伝えていこうということになりました。そこで5つの観点から違った角度で日本の都市を捉えることを試みました。例えば「スケール」という切り口で東京のようなメトロポリタンや地方都市、あるいは農村漁村を見たりだとか、「アーティフィシャルな、人工的なものという、周辺環境とは無関係ないといった」という切り口で見たりだとか、こうした5つのランドスケープに切り分けてみせたコンテンツで展覧会を構成しました。そしてそれぞれにふさわしい建築家や作品を考えていくというスタイルで展覧会をつくっていったのです。またそれだけじゃない文化的な背景も伝えるために、映画美術監督の種田陽平さんに、変わりつつある農村/漁村エリアの風景を、谷口ジローさんには漫画に出てくるような地方都市などを描いてもらうなど、いくつかのヴィジュアル・メディアを使って日本の建築が出来上がっている背景を知ってもらおうとしていました。
—これまでのお話を聞いているとアーティストやデザイナーなど表現する方との対話を通して都市の文化的な背景を浮かび上がらせてきたように思いました。例えば、一冊の本を作るというのも編集者の表現だと思うのですが、アーティストやデザイナーの表現とは何かプロセスが違うように思います。寺田さんは編集者の表現についてどのようにお考えですか。
実はSDは基本的に寄稿によって構成する雑誌だったので自分で何か伝えたい事を直接書いて表現するということはほとんどなかったんです。なので、まずは伝えたい企画内容の主旨、方向性を考え、そして誰にどのような視点の原稿を頼むと伝えたい内容が明確になるか、というその構成かなり時間を掛けてやってきました。また切り口が新しく明快に見えるよう、タイトルも慎重に考えてきました。こういった手順を踏んでようやく編集者の表現につながるんだと思います。原稿をお願いする執筆者の方にどうやったら書きたいなと思ってもらえるか、そういう仕掛け方を考えるのも表現のための手段だし、一緒に企画に協力してもらう方にも面白いと思ってもらいながら、かつ自分もわくわくできるような企画に高めていくというのも一つの手段です。もっともっと具体的な話をすれば、写真の扱い方、タイトルの大きさやフォント、文字や図版のレイアウトとか。以前は今みたいに全部パソコンで作業できないアナログな時代たったからワープロで打ち出した文字と写真のコピーなどを割り付け用紙に手作業で切ったり貼ったりしながらレイアウトしたんです。そうやっていろいろな手段で表現していかないと面白いものはできないからね。なので、編集者が表現したいときは、まずその表現の切り口に対してどのように見せていくかというアイデアを持っていることが重要なのかと。そうやって直接的ではないんだけれど、本の形になって初めて編集者の表現になるんだと思います。
—直接文章を書かなくても一冊の本で伝えたいことが編集者の表現になっているのですね。では次に今興味のあることについてお伺いしたいのですが、もしいまSDで何か企画されるとしたら、どんなことを取り上げたいと思われるのですか?
難しい質問ですね。今は雑誌ひとつでというよりはY-GSAでやっているようなシンポジウムなどで考えているテーマを、様々なメディアを通じた上で本を出すということはあるかもしれないですね。むしろ、そういった方向に今は興味があります。例えば、昨年の国際シンポジウム”Creative Neighborhoods”みたいなことを通して若い人たちに「若い人たちがどう住環境をつくっているのか」、そして「上の世代の人たちが今までどう考えていたのか」を伝えたいですね。変化し始めている事実をみんなで考えていきたい、そして未来を考えなくてはいけないということを伝えたいので、その先どうするかは考え中です。現在も実はいろいろと仕掛け中ではあるのですが、Y-GSAの枠を超えて広く今の建築学生に伝えていけるような企画にしたいと思っています。なので、まずはどういう風に広く学生さんたちに伝えていくか、そういうアプローチを考えていますね。
—ところで今Y-GSAという話が出ましたが、どういった経緯でY-GSAに?
実はですね、現在Y-GSAの校長である北山恒先生とはSD時代から何度か作品を取り上げたりしたご縁でお会いしていました。私がちょうどオランダから帰ってきた頃に北山さんがスタジオ制の教育を構想しはじめていて、JIA(日本建築家協会)で実験的にスタジオ教育をはじめるにあたってその広報をやらないかとお話をいただいたのです。
そこではじめてスタジオ教育というものを知るんですが、その後、Y-GSA立ち上げの構想でも広報をやらせてもらうことになりました。その中で建築だけじゃない「建築と都市というのがセットで重要だ」というスクールの基本的な理念が定まり、面白くなってきた私はぐいぐい入り込んでいき、何か新しい教育が始まるという期待感から私もこれまで以上に教育プログラムそのものに関われることはないかと北山さんに相談したところ、現在の私みたいなポジションをつくってくれたんです。そうすると広報だけではなくスクールの中に組み込まれた教育プログラムを考えるという新しい役割として、教育を1つのメディアとして捉えることができるんじゃないかなという、今までの自分のやってきたことを教育に貢献することの新しい可能性を感じたんです。建築教育を通して学生だけじゃなく、大学や横浜市にまで広く社会に伝えていくことが可能であり、伝える内容によってメディアを変えながら――例えば展覧会だったりシンポジウムだったりレクチャーなどを企画しています。同時に一緒に参加してくれている学生たちにも企画を通じて体験することを楽しんでもらいたいですよね。「建築をつくって都市や社会が変わるぞ」というビジョンを描きながらそれを伝えるプロセスも楽しんで欲しいと思います。そういう環境の中で自分の将来を見つけていってもらえたらなと思っています。
—教育もメディアと考えるととても面白そうですね。こうやって教育機関が社会に学生や専門家が考えていることを見せていくことは仰るように重要ですね。寺田さんがやられている仕事って大学の中では相当新しいポジションですよね。
そうなんですよ。多分、日本の大学では私のような役割をしている人はいないんではないかと思いますね。やっぱりそこは北山先生がすごいところなんですよね。新しいスクール構想のために大学の既存の仕組みをデザインし直す、現にこうしてY-GSAとしてできているんだから北山先生の腕力はとてもすごいものだと思いました。そして、その先には建築のあり方を真剣にスクールで問いたい、ということがあるんだと思います。
—では、これまで7年間Y-GSAでお仕事されてきてご自分なりに社会に建築を伝えていくことができたと思われること、または逆に課題などはありますか?
「建築・都市」は、なかなか一般には理解されにくいところがありますよね。しかし誰にでも分かるようにとわかりやすい言葉と手段を使って伝えていくなかで、Y-GSAが今まで培ってきている思想とどう結びつけながら説明していくかといつも考えながらやっています。今、これからY-GSAの研究ユニットを立ち上げようとしているんですが、そこでは若い人たちや海外の方含め、これからの社会に関してどう発信していくかということを周りの力も借りながら発見していきたいなと思っています。ありがたいことに横浜は行政もそういったことに力を入れてくれるので。
それから現状のY-GSAは大学院という枠組みだから2年という短い時間の中で設計のデザインと同時にその設計のデザインを裏付ける建築の理論を学び、社会に出てすぐに実践するというのはなかなか厳しいと思っています。ほんとは3年くらい欲しいところですよね。(笑)そのためにも文科省の仕組みをどう変えていったらいいのかが大きな課題かな。ただ、2年という短い時間でも学生さんたちにはどんどん視野を広げていってほしいと思います。
最近の学生さんでちょっと残念かなと思うのは、人とのコミュニケーションが楽しんでいるのかなと感じることがあります。もっと他の分野の人と話すことでいろいろな発見もあるだろうし、自分の世界が広がると思うんです。建築だけが、Y-GSAだけが自分の世界じゃないってことはやっぱり知ってほしいと思います。自分のアンテナを広げつつ、視野も広げながらやっていってほしい。私たちも何かを伝えるときは分かりやすいだけではなく切り口が明快な言葉で伝えることが重要かもしれませんが、そうしたことにもどんどん興味を持って、時に批評性の心をもって積極的に反応していくことを学生には期待しています。
—最後に学生に一言おねがいします。
今ほとんど言ってしまったけど(笑)。ただこうしたこともふまえて夢と希望をもってやってほしいです!むしろ大人になっても持ち続けたい。自分のやってることが一体何なのか、何のためなのかってなると悲しいじゃない? だから自分を信じて前向きに、楽しみながらやってほしいと思います。
—寺田さん、どうもありがとうございました。
インタビュー構成:藤奏一郎(M2)、室橋亜衣(M2)、梯朔太郎(M1)、山本悠加里(M1)、住田百合耶(B4)
インタビュー写真:梯朔太郎(M1)