伊藤 暁(いとう さとる)
1976年生まれ/2002年横浜国立大学大学院修了/2002年~2006年aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所/2007年伊藤暁建築設計事務所設立/首都大学東京、東洋大学、日本大学非常勤講師
-まず大学で建築学科を選んだ理由を教えてください。
中学校の終わりか高校の初めくらいに安藤忠雄さんがよくテレビに出ていて、「安藤忠雄かっこいい!」みたいな、そんな単純なきっかけで建築に興味を持ちました。僕が受験する年に『太陽』っていう雑誌で、安藤特集が出たんですが、夢中で読んでた記憶があります。今も大事にとってあってすぐ出せますよ(笑)。
-横浜国大では学祭で建築学科の有志の学生が仮設建築を作ることが伝統になっていますが、伊藤さんの学生時代は、どんなことをやられていたのですか?
学部時代は、建築らしいことは学祭の仮設建築しかやっていないというくらいのめり込んでいました。3年生の時に、演劇部の芝居小屋にいくためのアプローチをキャンパス内の野外演劇場に作りました。当時ステージ前にあった池を綺麗に掃除してもう一度水を張り、上からフラットにブリッジを飛ばして、芝居に行く人と行かない人とがハコの中で交差する、というエントランス用タワーです。当時は、工事用の足場に用いる単管とかイントレとかを借りてきてつくるという方法しか知らなかったので、今みたいに構造から考えるみたいな建築的なアプローチというよりは、自分たちでトラック運転したり施工したりすることを単純に楽しんでいただけなんですが。それでも1/1を建てるという刺激はとても強烈でした。 30人くらいで1人1万円集めて、という程の予算でスタートするんですが、「あと1人1000円出せばこんなことができる!」とか言ってるうちにどんどん予算が増えて、最終的に100万円くらいになっていたこともあります(笑)。
大学3年生のときの仮設建築
大学4年生のときの仮設建築
大学院に入ったあとも僕らの学年は仮設建築が好きすぎて、全学年で一つの仮設建築を作る企画をしました。カサグランデ&リンターラという建築家がちょうど日本に来るという情報があったので、彼らを講師に招くレクチャーとワークショップを企画して、その会場を全学年共同で作るという内容でした。
ずっとこんな感じだったのですが、さすがにこれでは修論が書けないということで、修士2年の時に初めて真面目に建築の勉強を始めた感じでした。20世紀の建築史をテーマにして論文を書いたのですが、そのときに北山先生にレイナー・バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」を勧められました。読んだら、建築の勉強をはじめてからの5年間、いかに自分が無知のまま過ごしていたかを痛烈に思い知りました。いま自分のやっていること、やろうとしていることが歴史と切れ目なく繋がっているということを教えてくれた一冊で、いまでも強く影響を受けています。6年間のサボりを取り戻すため、他にも貪るように本を読みましたね。
–大学院修了後、ヨコミゾマコトさんの建築設計事務所で働くきっかけはなんだったのですか?
ちょうど修論を書き終わったタイミングでヨコミゾさんが「富弘美術館」のコンペを取ったので、アプローチしたら即採用でした(笑)。ヨコミゾさんは、伊東豊雄さんの事務所で「せんだいメディアテーク」を担当して、その後独立してまだ半年くらい。ホントにできたての事務所でした。
富弘美術館
–伊藤さんが、富弘美術館をメインで担当していたのですか?
できたばかりの事務所なので人の出入りも多く、入所半年くらいで、「富弘美術館に関わっているのが所内で一番長いスタッフ」という立場になってしまいました。ヨコミゾさんに、「全部把握してるのは伊藤君だけなんだから。」と言われましたが、当時は「設計」という仕事がどんなものかも知らなかったし、自分が何をやっているのかなんて全然把握できていませんでした。それでも僕が中心的なスタッフとして設計も現場も進んでいくという恐るべき事態でした。
強いて言えば、どうやって建築が出来るのか知らずに、純粋に目の前の課題を解決するにはどうすればいいのか、だけに集中して図面を仕上げていく。それが良い方向に作用することもある、くらいのメリットはあったかもしれませんが…。そんな状況でも協力事務所やゼネコンの方々が丁寧に対応して下さって、すごく助けてもらいましたね。
当時はただがむしゃらにやっていて、めちゃ怒られるし、プレッシャーはすごいし、発狂寸前でしたが、でもなんとなく、その恐るべき環境が自分を育ててくれているような感覚はうっすらとありました。だからやっていけたのかな。
–独立されたきっかけは、何かありましたか?
漠然と、30歳くらいまでに独立したいなという気持ちはありました。ヨコミゾ事務所に就職が決まったとき、建築家の野田俊太郎さんに報告をしたら、「アトリエの設計事務所っていうのは、3年勤めたら辞めたくなるけど、そこでやめたらダメだ。最低でも5年は働け。」と言われたんです。ちょうど入ってから3年経った時に富弘美術館の仕事が終わって、燃え尽きて「もう辞めたい」という気持ちで頭が一杯で、でも野田さんに言われたことが思い出されて…、みたいな時に、「伊藤は次これね。」って一年半くらいかかる仕事を渡されたんです。そこで反射的に「それが終わったらやめます。」って口から言葉が出ちゃった。成り行き以外の何者でもない感じですが…。でも、野田さんの言ったことは本当でした。4年目と5年目は、それまでとは違い、少し視野を広げて仕事ができた。3年で辞めなくてよかったと思っています。
–徳島県神山町でのプロジェクトについてお聞きしたいのですが、これらは地域の活性化と連動してますね。
神山町はもう20年以上いろいろな地域活動を続けてきていて、最近はその成果が実を結んでいることもあり、とても注目を集めています。そんな場所なので、うっかりすると「地域活性化のために!」みたいなモードになってしまうけど、僕には神山町で起こっていることって、皆が自分の生活や仕事を楽しむためにいろいろやっていることの集積に見える。誰かのためというより自分のため。それが結果的に連動はするんだけど、その前に個々の営みがある。僕が神山に行っていちばん感動したのがここなので、それに敬意を払って、僕も「地域に貢献」とか気軽に言わないように心がけていて、まずは個々のプロジェクトに対してきちんと建築的な成果を出すということを大切にしています。
とはいえ一般的には地域づくりとか町づくりの文脈で括られることも多く、それはそれで良いんですけど、ちょっと気をつけなきゃいけないな、と思ってるのが「建てない建築家」的な話。地方はハコモノ行政で疲弊してきた経緯があるので、それに対するカウンターもあり、地域での活動は「建てない」的な文脈に接続させられることがよくあります。もちろんハコモノ的な「建てればOK」という時代は過ぎ去りましたが、かといって「建てない」みたいな言説の、その口当たりの良さに逃げ込んで安心しちゃうことは危険だとも感じています。
–“建てない建築家”は震災後、特に言われるようになりましたよね。
確かに3.11のあと、そういう言葉が多く使われるようになった感じはあります。そうは言っても建物が必要なくなることは無くて、それどころか震災後こそいろいろな建物が要請されていて、それをどこかで誰かが「建てて」いるわけです。そういう状況がある以上、じゃあ実際に建てる時にどうするのか、はきちんと考えなければならない。
作るって暴力的な行為だから、絶対100%自分を信じるってことはできなくて、どこかでちょっと後ろ髪引かれながらやるわけですよ。震災以降それを気にしろっていう社会的な圧力がものすごく増えたので、建てないっていう安易な優しい言葉に頼りたくなってしまうんだと思うんですが、それって責任放棄なんじゃないかと思うんですよね。社会からの風当たりが強くなること自体は避けられないし、受け止めなければならないと思うけど、それに流されて責任を放棄することで社会的正義を得ているように思ってしまうことは、専門家としては不誠実です。いかに建てるかっていうことをやっぱり今こそちゃんと問わなきゃいけないと思っているし、僕はそれをやりたいと思っているので、”建てない建築家”みたいな言説には積極的には与したくないですね。
–先ほどの話しに戻りますが、そのような風潮のなかで、どのようなことを意識してプロジェクトをやっていますか?
目の前にある課題に、極力シンプルに、素直に答えを出すということはかなり意識してやっています。
例えば、今、神山でやっている宿泊施設は、南側に川が流れていてすごく眺めがよく、この眺望を最大限に楽しめる場所にすべきだ、ということが関係者の中で一瞬で共有されるような立地です。だけど木造だと耐震壁とか筋交いとかが必要になってくるから、なかなか客室から川に向かって大きく開口を設けるのが難しい。そこで、Φ350の丸太柱を使って木造のラーメン架構を作ることにしました。ところが、柱材は22本必要で、そんなのどこで手に入るかわからない。蛇の道は蛇、ということで町の材木屋さんに話を聞きに行くと、「市場にはないけど、そこの裏山にはあるよ」って(笑)。それで、山に木を切りに行って、建物を建てることになりました。
こちらとしては素直に与件に応えていっただけなのですが、結果的には木材の生産や流通といった社会的な仕組みにコミットするような建設のプロセスにもなっていると思います。市場を介さずに裏山から取ってこられるなら、流通の合理性を外したところでいろいろな判断ができる。これは結構大きな発見でした。
また、裏の山で木を切って建物を建てました、というような行為は、「地産地消」みたいな物語性を帯びてきたりもします。でも、設計者としては物語を目的化していないことが重要で、やっぱり建築設計って技術的な営みなので、まずはきちんと与件に対して技術的に応えることが大切です。物語が好きな人にはそう語ってもらえば良いし、そこは受け手の興味に添えば良いと思いますが、僕たちは技術をきちんと押さえることが重要だと思いますね。ウェットな物語って、それはそれで魅力的だし、共感してもらいやすいし、伝播力も強いのだけど、「建てる建てない」と同じく、技術をすっ飛ばして依存はできないと思います。僕は技術に可能性を感じているし、そういうテクニカルな振る舞いみたいなものの先にだって、作品と呼べるものは作れると思います。
–そのテクニカルなやり方は、コンバージョンだからウェットになったり新築だからドライにできたりということではないのですね。
新築とコンバージョンにそんなに違いは感じてないですね。こう思うのは、神山で、コンバージョンというか、古い建物相手にしたプロジェクトが多かったからだと思います。最初に工場の改修をやって、そのあと「えんがわオフィス」という、古民家をオフィスに改修するプロジェクトをやりました。そのえんがわオフィスの改修前の建物を見に行ったとき、これが全く純然たる「おばあちゃんち」みたいな家で、それがオフィスになるなんて、最初は全然想像できなかったんです。でもやるしかなくて、まず不要部分の解体から始めて、柱と梁だけの状態になった時に、それがすごくオープンなものに見えたんです。これならオフィスにできそうだと思いました。
最初「家」に見えたものの背後に、骨組みみたいなものが隠れていて、それは誰かがデザインしたというよりは、それを作った大工が持っている技術とか、そこで手に入る材料とか、敷地の状態とか、そういうテクニカルな部分で決まっているっていう外側の論理で出来ているんだな、ということに気付いたというか。そこに、そこで暮らす人の生活のスタイルとか、趣味とか、好みとかから作られる内側の論理が重なって一つの建築ができるのか、というふうに僕は理解したんです。
–なるほど、外側の論理と内側の論理ですか。
建物を作るときは、こういうプログラムを解かなきゃいけないとか、どういう人がどのように使うのかといった、その計画固有の「内側の論理」に対してどう応えるかということをきちんと考えなくてはいけないんですけど、最終的にそれを作る技術っていうのは、個々のプロジェクトの外側からやってくるもので、そのバランスをうまく取ることが大事だと思います。えんがわオフィスの仕事を通して、「外側の論理」、つまり生産とか流通とか、社会的な状況とか建設の技術とか、そういうものから導き出される建物の架構みたいなものの可能性に気付いたと言うか、その、外側の割合を増やすと、違った意味でサスティナブルでオープンなものにできるのではないかみたいなことを考えています。
抽象的なシングルラインで建築を考えるような方法だと、具体的な部分はできるだけ見えない方が良くて、どうしてもシングルラインにその建物を近づけたくなっちゃうので、ちりは無い方がいいし、白い方がいいし、目地は消す。なるべくつるっと建築を作っていこうとする。だけど、一年経ったらここ割れるよねとか、ぶつかったらここが欠けるよね、みたいな問題があったりして、どうしても出来上がった建築は抽象概念の劣化版になってしまう。おまけに大工さんにも「お前はなんにもわかってねぇ」とか言われながら、白く抽象的に作ってもらう、みたいな(笑)。でもなんか違うなと。
本当は、ここは物と物とがぶつかるから勝ち負けがあるとか、こういう材料特性だからこう使おう、みたいな、もっとシングルラインの世界じゃなくてダブルラインの世界で考えてもいいんじゃないかと思っていて、その物が作られる論理とか、作るための技術、なぜそうなっているのかを理解しながらデザインするっていうことが、結構大事なことだなと思っています。
−神山でのプロジェクトを通して、ダブルラインの設計を意識するようになったのですね。一方で、富弘美術館を担当されていた頃は、シングルラインが作る抽象性を意識していたのですか?
ことの発端は富弘美術館なんです。あれは激しくテクニカルな建物で、技術的や構造的な検討をめちゃくちゃやっていましたが、最後はつるっと何事もなかったかのように出来上がっています。
一番印象的だったのが、構造の鉄骨がむき出しのところに仕上げの石膏ボードを貼って、パテで仕上げて塗装が始まった時でした。その瞬間に現場の質がガラッと変わったんです。もともと現場の、生々しいダブルラインだったものがシングルラインになっていく、線が一本消えたんです。そのとき、「これが抽象性というものかー!」とすごく驚きました。今まで自分が線を消そうとして散々検討してきたことが、現実になる瞬間でした。同時に、それまで積み上げてきたものが塗装の下に隠れてしまうことへの違和感みたいなものもあったんです。線が消える前の、ダブルラインの状態も結構かっこ良くて、あの質を残すことってできないのかな、みたいなことをぼんやりと考えていたような気がします。なので、富弘での、あの線が消えて行った体験は、今でもよく反芻するし、あの時に実現できなかった、線を消さない建築の作り方にはかなり意識的に取り組むようになりました。最近はどうやってダブルラインで強い建築をつくるか、ダブルラインで描ける抽象性ってどんなものだろう、ということを考えています。それはシングルラインの建築が否応無く直面した「概念の劣化版」とは違うものになるはずで、劣化を食い止めるよりも、どんどん積み上げていく方が考えてても楽しいですね(笑)。
施工時の富弘美術館内部
–来年、北山先生が退任されるのですが、恩師である北山先生に一言お願いします。
北山さんに一言なんて畏れ多すぎて無理です(笑)。僕は学生時代、設計がほんとにできなかったんです。設計は好きだったんですけどね。北山さんには、大学1年生の時から事務所でバイトさせてもらったりとか、とてもお世話になっているのですが、設計ができなさすぎて、ずっと北山さんに対して後ろめたい気持ちがありました。今でも北山さんの前に立つとものすごく緊張します。でも北山さんが社会に対してきちんと意思表示をしようという、そういう教育をしてくれたことは今でも設計活動のベースになっているし、建築はただかっこいいものを作れば良いなんてもんじゃないぞ、ということを教えてもらえたのはものすごい財産だと思っています。
ただ、社会っていうものをどう捉えるかということを自分自身の問題として考えると、北山さんとは時代的、世代的な違いはあるのかもしれません。社会って一言では言えなくて、場所とか時代とかによっていろんな形があって、そことのつき合い方は人それぞれだと思います。北山さんの真似をして、同じことをやってもそれは僕が社会と向き合っていることにはならない。僕なりのやり方を見つけていかなければならないんだと思っています。
とはいえまあ、最初に建築を勉強した場所だから、どっぷり横国の呪いにはかかってると思いますよ。でも教育って呪いをかける行為なので、学生の皆さんは恐れずにどんどん呪われて、って感じ。呪われてそこをもう一回相対化した時に、いろいろな物事が自分の中で整理できたりするから。呪われることを恐れてたら、なにもできないと思う。呪われるのが嫌だったら、学校やめた方がいい。
-ありがとうございました。
インタビュー構成:田島亜莉沙(M2)、中田寛人(M1)、川見拓也(M1)、杉浦 岳(M1)、住田百合耶(M1)、宍戸優太(B4)