プロフィール
広瀬郁(ひろせ
いく)1973年東京生まれ。97年東京理科大学工学部建築学科卒業。99年横浜国立大学大学院修士課程修了。外資系経営コンサルティングファーム勤務を経て、2001年都市デザインシステムに入社。08年トーン&マターを設立。都市・まち・建築に関わる事業開発と空間デザインの融合を目指し、事業・施設・コンテンツなど様々なプロジェクトにプロデューサーとして携わる。15年4月からはNPO法人YCC代表理事としてYCC横浜創造センターの運営を担う。
—–まず最初に、学生時代に考えていた事についてお聞きしたいです。どのようなきっかけで「企画すること」や「お金の動き」や「プロデュース」に興味を持たれたのですか?
東京理科大の学部4年生くらいまでは設計が好きでした。卒業設計ではJIAで銀賞をとったのですが、金賞がない年だったんです。その前の年には菊池宏さんが金賞をとっていました。一学年上に菊池宏さんと鈴野浩一さんがいて、一学年下に松川昌平さんがいて、そんな恵まれた仲間がいる中でデザインをやっていたんです。自分の周りには、設計しかできないようなひとたちがいっぱいいました(笑)。
また、卒業論文では大月敏雄さんと「同潤会代官山アパート」の研究をしました。住民ヒアリングのために、花見の段取りをしておじいちゃんおばあちゃんたちを集めて話を聞いたりしました。研究を始めた当初は、僕は再開発には反対意見を持っていて建物を残しておきたいと思っていたのですが、そういうことを住民の人たちに言うと「この建物にはそれぞれに所有者がいて、お前の物ではない」と彼らにめちゃくちゃ怒られたりして、悔しかったです。そうしていろいろな事に付き合っていくうちに、住民主導の再開発を応援したくなってきました。でも同潤会アパート跡地に出来上がった「代官山アドレス」はやっぱり、いろんな意味でちょっと違う、と思いました。まだその時ははっきり分かっていなかったけれど、お金の動きや権利の事を知らない限り、同じ事が繰り返されると感じたのです。
そういう経験から、自分は仕組みやプロジェクト自体をデザインするとか、発注者と一緒に考えるとか、そういうことをやりたいと思ったんです。そのためにどこに就職するか、どこに行けばいいかを本当に悩んでいて、とにかく時間稼ぎしようと考え、その時ちょうど実家も横浜に移っていたし、スーちゃん(鈴野浩一さん・トラフ設計事務所)が横国の大学院に来ていたので、横国の建築計画研究室に進学したんです。横国に来てからは、やりたい事に対してどこに就職するかという悩みがありながらも、優しい人ばかりでみんなと仲良くなって楽しかったですね。みんなで旅行したりして。でも設計をやろうとは思っていませんでした。今みたいな仕事をやるためにどこに行くのが最短かってことだけ考えて、広告の学校へ通ったりもしてましたね。
—–大学院修了後は、外資系経営コンサルティングファーム勤務を経て、都市デザインシステムへ入社されていますが、それはどのような経緯だったんでしょうか?
モノや場所が好きだと、やっぱり経営コンサルは長くいるところでもないと思ったんですね。早く実際に空間に触るところに行かなきゃっという気持ちも同時にありました。経営コンサルはお金の勉強になったし、お客さんの会社に出社することが多いので、短期間でメーカーや商社などいろいろな経験ができたのですが、どんどんモノと離れてしまうんです。
そんな時、ひょんなきっかけで都市デザインシステムの梶原文生さんと出会って、それはもう惚れちゃって。当時、都市デザインシステムはコーポラティブハウスを中心にした、社員30人くらいのベンチャー企業でした。梶原さん本人も3年しか勤めずに起業していて、本当にすごい人だと思って、採用面接に何度も何度も通いました。
僕はその頃とにかくホテルをやりたかったんです。というのも、経営コンサルにいたときにアメリカで仕事をしていて、かっこいいデザインホテルをいっぱい見ました。フィラデルフィアにいるのに、週末には電車でわざわざマンハッタン行って、泊まり歩いたりしていました。朝ご飯がおいしければいいとか、こんな裏道でも、規模が小さくてもできるんだなとか、そういうのを肌で経験しました。僕は東京っ子なんですけど、東京に足りないものはホテルだけだと思っていて、だから新しいホテルを日本で、東京でやりたいって梶原さんに言ったら、「絶対やろう!」の一言でした。すごい社長だ、この人とやりたい、と強く思いました。
—–そして入社して手掛けられたのがホテル「クラスカ」ですね。クラスカでは地域の中でのあり方や、地域住民を取り込む思想が感じられます。
学芸大学駅から徒歩13分、ずっとその地域の中核にあった昭和40年代開業のホテルのリノベーションプロジェクトでした。駅から距離があると地域外からのお客さんを呼ぼうとしてもなかなか難しいので、自然と地域住民との関わり方を考えることになるんですね。元々ああいうスケールのホテルは分類的に「コミュニティホテル」と呼ばれていました。いくつかの宿泊部屋の他に宴会場や喫茶店があってロータリークラブがある。僕がすごく新しい提案したというより、かつてのコミュニティホテルを今の時代に合わせて再生するというイメージです。地域のコンテクストを読み込んで「暮らし」というコンセプトを立てて、クリエイターに声を掛けてチームを編成して、東京のここでしか実現できないホテルを作り上げていきました。うれしかったのは、クラスカがオープンしたあと地域のおばちゃんたちの着物の会や警察のOB会などがそこで復活したことです。もしあのビルディングタイプがレストランなどの一般的な商業施設だと、ターゲットがクリエイターや外国人にしぼられて考えられていて、そこに地域住民の会合が来ると、どちらかが嫌な思いをする事があると思うんです。だけど、ホテルはパブリックスペースだとみんなが分かっているから、どんなデザインコードで縛ってもいろんな人が来たときに違和感がないということが完成してからの発見でした。
—–その後、トーン&マターを立ち上げてプロデュース業やNPO活動などさまざまな事業をされています。広瀬さんが関わる最新プロジェクトの一つとして、6月にリニューアルした「YCCヨコハマ創造都市センター」がありますね。私たち学生にもなじみ深いYCCですが、今後の展開についてお聞かせください。
コンペで選ばれて、2015年4月から5年間、運営を担うことになりました。分かりやすく言うと、みなさんが待ち合わせに使ったり、お父さんお母さんが来たときにここでご飯を食べた後横浜を案内したり、そういう風になって、本当の意味でパブリックにしたいということです。今まではレンタルスペースだったので、イベントのときは良いけれど普段は使えなかったりしましたよね。ヨーロッパの美術館のカフェって、美術館の展示は見ないで朝飯だけ食べにいく人がいたりします。自走するためには、商業要素を入れたパブリックということが必要で、YCCはそういうものの柱にしたいと思っています。
YCC 1階 カフェ
YCC 3階ファブラボ
起業リスクをおかしてまで公共施設をやっている人があまり見受けられないけれど、僕は公共施設をジャックしたいと考えていて、図書館も美術館も駅も道路もやりたいと思っています。
基本的には、50歳になっても企画をやろうとは考えていないんです。コンセプトをつくるとかネーミングするとかではなくて、建物に関わるいろんなレイヤーの人たちの関係性をつないだり、方針を示す人になりたいと思っています。税金のもっと有効な使い方を考えたり。例えば、北海道は除雪が大変なんです。15km先に15人住んでいたら、そこに繋がる道を莫大な費用をかけて除雪するんですよ。極端なことをいうと15人に別の場所に移住してもらった方が良いと思うんです。その人にとってもプラスになり、もっと幸せになれる方法を提案すればいいのにと思うのに、みんなで除雪して、ゴミ収集車をまわして、自然の中にアスファルトを維持する訳です。これは一つの例えですが、こういう公共の仕組みの問題もいつか何とかしたいです。
—–その土地の住民の意見を取り入れる手法としてワークショップがありますが、参加者が一部の人たちにとどまってしまい、うまく機能していないことがあります。広瀬さんもよくワークショップを行われていますが、工夫や考えていることはありますか?
働いている世代が参加しないワークショップには僕は行きません。地方で呼ばれた時も、僕は「開催時間は夜がいい」と言っています。働いて住宅ローン組んで子供を育てている30~40代の現役世代がいないワークショップなんて、全く住民参加じゃないと思ってるので絶対行かない(笑)。僕のワークショップは働いている人が参加するというのが前提です。そういう人たちはシビアな世界で生きているから、「これ、そもそも無駄なんじゃないですか?」と結構厳しい意見が出たりもします。
あとは、「あなたが欲しいものは何ですか?」ということよりも「この街に、この場所に、誰を呼びたいですか?」ということを一緒に考えます。住民参加で「欲しいもの」を求めると、「あれも欲しい、これも欲しい」という風に、ない物ねだりになってしまいがちです。住民参加のまちづくりをやらなければいけない街は、何かが壊れちゃっていて、働く人が都市に送出されつつある場合が多いです。だから、働く人に来て欲しいのか、観光客なのか、移住者なのか、「誰を呼びたくて、そのためには何をしなければいけないか?」っていうことを考えるワークショップをします。観光客ですら簡単には呼べないですし、ましてや「移住して欲しい」ということになったりするとより大変で、そこに産業はあるのか、働く場所はあるのか、教育はあるのか、ということにつながるわけです。
—–学生はお金の動きや仕組みを作る事に対してリアリティを持ちにくいのですが、建築がお金をまわす力を持つこと、町の中にお金が入ってくることについて、どう考えていますか?
僕のプロジェクトは空間に依存するものが大半なんです。空間があることで誰かが喜ぶ分、その対価をとるという意味での稼ぐお金が一番大事だと思います。たとえば、ホテルは、1泊いくらということでお金がチャージされる、分かりやすくていいビジネスモデルです。デザインや設備や立地が良ければ料金が高くなる。飲食店は、料理人の腕で稼ぐので、デザインなんてどうでも良い場合もある。めちゃくちゃデザインされたラーメン屋とか餃子屋とかいやじゃないですか? そこでは、片言の外国人スタッフのラフな給仕や、店のおじちゃんの無愛想な雰囲気も含めてコミュニケーションや空間体験です。僕はどちらにも興味があるので、設計者にはデザインをやりすぎないでねとよく言います。空間が稼ぐお金が、空間によってどう回るかに一番興味があるんです。
開業時はあくまで8割で、空間として100点を目指してやっていない。常に開業後から逆算して、余白を残すようにしています。例えば「武蔵野カンプス」では白い壁をわざと残して有名なアニメーターや漫画家にそこにサインをしていってもらうことを考えた。そうするとコストが下がってかつ空間が面白くなります。
武蔵野カンプス
—–Y-GSAでは「建築をつくることは、未来をつくることである」というマニフェストを掲げています。この言葉について、広瀬さんはどう思いますか?
もっと多くの建築家の人がそう考えてくれるといいなと思います。
きっと建築の未来っていうのは、「残る」ということです。建物という、大きくて重くて高額な投資リスクの責任を設計関係者という少人数で担う訳です。一回建てたらその後はお金を返したりできないですから、ハンドリングが効かないんです。投資回収を考えると「未来をつくる」という言葉は一方で、資産ではなく「負債をつくる」っていう意味合いも隠れていると思います。それは責任という意味で、ゴールは竣工じゃないと理解することができるからすごく良い言葉だと思います。
僕は、関わっている建物はなるべく遠い未来まで残ってほしいと思っています。空間としても残ってほしいのですが、僕の立場としてはリスクをとって建てた人がどうやって事業としてその建物を継続していけるかを大事にしています。
—–建築家の仕事は、ものだけを作ってきたときに比べて変わってきていると感じます。現在、建築学を学んでいる世代の将来の職能はどうなっていくと思いますか?
質問が鋭くていいですね。企業は組織力があるけれど硬直化してしまっている。クリエイターや建築家は、個人として能力が高い。それらをつなげていきたいとトーン&マターは考えています。事業やまちづくりはクリエイターと企業、議員など分野の異なる人同士の利害関係の一致とか合意形成が必要です。その中での僕の仕事は、例えば議員にも伝わりやすい言葉でプロジェクトのコンセプトや目的を書類にしたり、その土地のキーマンと飲みにいって人をつなぐこと。みんながつくりたいと思わないと絶対うまくいかないので、理解してもらうためにやりますね。
建築を学ぶ過程で得られるはずのスキルがあります。まずは、抽象性と現実性の両面でものごとを捉えられること。建築学をやっていると基本的にはコンセプトを考えさせられるけれど、実はこの言葉の君たちの使い方は、相当精度が高いんですよ。ビジネスマンの中に入っていくと、現実的なことは分かるけれど、抽象的なことをみんなでシェアして考えようということが結構できない人が多い。あとは構造的に思考すること。これも皆さん相当訓練しています。加えて、プレゼンをして大人に怒られる経験があることは貴重です。あとチ−ムワ−ク。僕は学生時代、先輩たちと一緒に徹夜してコンペやっていましたが、スケジュールや予算管理も担当していました(笑)。そして空間認識能力。これはどこに行っても役に立ちます。こういったスキルを活かすと、ビジネスや社会事業、まちづくりなどいろんなことができます。「シェア」「ソーシャル」「コミュニティ」といったことは現代のキーワードですが、僕は「お金」や「経済」もそうじゃないかなと思っています。そういう意味では、少しでもそこに意識を傾けてもらえばもっと色々な可能性が広がります。
僕の世代では建築を学んだけれど、建築家とは違う仕事をする人が一気に増えました。R不動産のメンバー、ライゾマティクスの齋藤精一さん、日本仕事百貨の中村健太さんなど。設計の仕事が減って厳しくなった上にベビーブームでライバルが多いというのもあったと思います。だから、変わった思考性の人は設計から離れるような感じだったかな。そのおかげで僕は今、建築家とか色々な人から「事業デザインからやらないとだめなんだけれど、自分たちだけだと解決しない」という時に呼んでもらえて、とても嬉しいです。プロ同士の方がいいじゃない。
設計やりたい人が一部だけ僕みたいな仕事もしてみたいと言うときは、「いやいや、設計したいなら設計しかしちゃダメ」と言うようにしています。ふんわりと手を出して、後から設計に戻ろうと思っても戻れない。セミプロ同士になってしまうし、そんなに設計の仕事って甘くないと思います。
—–横国には建築学科でやってる活動として、「ワダヨコ」や「ほどワゴン」という近隣の街に対してまちづくりを行う団体があります。まちづくりに対して学生のできることや、学生の位置づけについて考えていることがあれば教えてください。
「学生だからできること」っていうのはあまり思いつかないかな。一人一人ができることはいっぱいあると思う。本気でやりたいなら、その道のプロフェッショナルと組んだ方がいいと思います。否定するわけではなくて、社会にとって良いことをしたいっていう気持ちは大切です。社会貢献をする活動である今のソーシャルビジネスは、公共でもなく民間でもないサードセクターであるという意識が重要です。公共がやると無駄が多い。民間は、お金が儲からないならばできない。そういったものをNPOとか一般社団でやっていく。つまり、ソーシャルビジネスにこそ多様なスキルが必要なんです。民間や公共ではできないことをやらなきゃいけなくて、配当もできず、事業目的も変えてはいけないし、スタッフの給料も払わなければならない。経済社会と全然違うところにソーシャルビジネスがあるという考え方は間違えていると思うんです。まちづくりに対して、学生は昼間に時間を自由に使えることに可能性があると思うけれど、何となく手伝うなら、その時間を使って未来の自分の成長のために旅行して建築を見るほうがいいかもしれない。話が変わるけど、僕が思うのは、学生のうちは無理して金使ってでも、感動しといた方がいいということ。僕は建築家のジュゼッペ・テラーニが大好きで、サンテリア幼稚園に感動して泣いて2回も行っちゃったもん。今でもいつでも行きたい(笑)。社会に出てからはそういう感動した記憶で生きてる気がするし、周りで面白いことやってる人たちは、学生時代に好きなものがあったり、感動したり、悔しかったりという経験をしていると思います。
「学生ならでは」にこだわるのであれば、時間があるんだから、そうやって好きなことを見つけて、基本的に社会貢献は社会に出てからしたって良いと思うよ。
—–最後に、学生に一言お願いします。
学生生活を楽しめ、ということですね。勉強はもちろん必要ですが、みんな勉強しなきゃと思いすぎています。旅行とかおいしいラーメン屋を探しに行くとかなんでもいいけれど、本気で時間を使って楽しむことに執着することが必要なのだと言いたいです。
—–ありがとうございました。
インタビュー構成:江島史華(M2)、山田裕美(M2)、草山美沙希(M1)、板谷優志(M1)、野村郁人(M1)、ベンライサミ(M1)、瀬島 蒼(M1)、石井優希(B4)
インタビュー写真:山田裕美(M2)