青木淳(あおき じゅん)
1956 神奈川県横浜市に生まれる
1976 – 80 東京大学工学部建築学科(工学学士)
1980 – 82 同修士課程修了(工学修士)
1983 – 90 磯崎新アトリエ勤務
1991 株式会社青木淳建築計画事務所設立
―――建築を目指したきっかけは何ですか?
僕は小さい時から、方眼紙に家の間取りを描きながら空間を想像することが好きでした。母親への誕生日プレゼントをお小遣いで買ってくるのはお金がもったいないから、「代わりに家を設計してあげる」と言って、全く喜ばれなかったこともありました(笑)。そういう仕事を建築家というのだと、なんとなく新聞やチラシを通して知っていたし、建築というものは面白そうだという思いはありました。
高校生の時には、一番は映画監督、二番は小説家、それでもダメな場合は建築家かなと思っていました。どれも何かを作ることにおいては似ているといえば似ているのですが、どうしてその順番かというと、映画監督や小説家は勉強してなれるものではないでしょう。建築家だけはちょっと勉強すればなれるかもしれない。だから、勉強するなんてことをしないでなれるかもしれない方に憧れたのだと思います。最初は建築学科にいくつもりは全くなく、勉強しなかったので、入試に落ちてしまった。それで、僕の場合は勉強しないといけないのだとわかり、建築に進むことにしました。東京大学では、1年生の時は専攻が決まっておらず、2年生の終わりに選びます。建築で本当にいいのか迷いましたが、進んでみたら設計課題が、生まれて初めてと言っていいほど楽しくて。案を考える時は寝食を忘れてしまう。倒れるまでやってられるくらい楽しかったです。もっとも建築の設計だけが楽しく、授業はつまらなかったので出席せず、設計課題の講評やエスキス以外はほとんど大学に行っていませんでした。試験にいって、初めて先生を見るというほど。その後も設計以外やりたいことはないから、それを続けられればなあと思っていて、今考えてみれば無謀にも設計の仕事に就いてしまった。建築家になろうと思っていたというより、他にやりたいことがなかったのです。楽しいことをずっと続けていられれば、それで生きていければいいと思って、これまで何とか生きています(笑)。
―――最初、映画監督になりたかったとのことですが、映画がお好きなのですか?
設計も映画も架空の世界です。想像のなかで作っていくとある架空の世界が出来上がる。それが、すごく楽しいんです。建築は、重力、地震、お金など、いろいろと制約がありますが、映画や文学はもっと自由ですよね。なんでもできる。だから、建築以上に興味がありました。特に映画。大学の時はほとんどの時間、映画を見て過ごしていました。当時、ビデオなどはありませんでしたから、映画館に行かなければ観られなかった。少し古い映画は2、3本まとめて上映されるので、それを調べてオールナイトで5本くらい続けて観ていました。半分くらい寝ていましたけどね(笑)。
―――映画であったり文学であったり、元から建築以外のことがお好きだったのですね。
建築のことは、実は、大学に入ったときにはあまり知りませんでした。第二外国語はフランス語を選んだのですが、それは映画ならヌーヴェル・ヴァーグ、文学ならラブレーが好きだったからで、でも、なんとなく工学系なのにドイツ語でなくて大丈夫か心配になって、信頼できる人に電話して、「建築の方向に進むのにフランス語を取っても大丈夫でしょうか」聞いたら、「フランスにも、ル・コルビュジエという建築家がいるから大丈夫だと思うよ」という返事だったので、安心したことを覚えています。つまり、ル・コルビュジエさえ知らなかった(笑)。そんなわけで、建築学科に入っても、何も知らない。しかも案をつくるのは楽しいけれど、他の人がやったことには興味がわかない。大学院の頃はさすがに反省して、建築をやるならもう少しちゃんと勉強しないといけないと思うようになりましたが。
―――ということは、学部時代の発想の源は、建築ではなく映画や文学だったのでしょうか?
そうかもしれませんね。大学2年生の9月頃、建築学科に進むことが決まってやっと「建築雑誌でも買ってみるか」という気になったというくらいの奥手。1977年のことです。それで本屋に行って買ったのが、コンテクスチュアリズム、フォルマリズム、リアリズムの特集号だった「SD」でした。で、その中で八束はじめさんが論文を書いていて、それを読もうと思ったのですが、難しくて全くわかりませんでした。わからないところに線を引いていったら、全部に赤線だらけ。全く理解できませんでした。ただ、その本には、影響を受けましたね。レオン・クリエという建築を知っていますか。ジェームズ・スターリングがポストモダンの方向に向かう時期に、パートナーとして一緒に活動した建築家です。この雑誌で紹介されていたのは、クリエがスターリングと組む前のプロジェクトについてだったはずですが、それがすごく良かったのです。この雑誌は、僕にとって、学部時代の教科書でした。最初に買った雑誌だけで、それからの建築学科の2年間を乗り切りました(笑)。
―――それほど、建築そのものに影響を受けることが少なかったのですね。
一番影響を受けたのは、同級生だと思います。特に僕の同級生に、現在神戸芸術工科大学の教授をしている花田佳明さんがいて、彼がすごく優秀でした。いろいろなことを知っているし、彼の設計案は、どの課題をとってもとても華麗でした。最初は、あまりにすごくて近づきがたかったのですが、そのうち、彼からいろいろなことを教われるようになりました。例えばジョン・ヘイダックであったり、アイゼンマンであったり、磯崎新であったり。ずっと、彼を見習っていました。でも、大学というのはそもそも、そういうものなのではないでしょうか。先生以上に、ほぼ同じ歳と、ほぼ同じ段階にある友達から、決定的な影響を受けるものです。
―――大学院に進んでからは、どのように過ごしたのでしょうか?
それまではあまり建築のことを知りませんでしたし、アルバイトをしたこともなかった。そこでアルバイトをしてみようと思って、磯崎新さんの事務所に行くようになりました。そこで初めて八束さんに会ったのです。八束さんは良い教育者で、「モダニズムについてはこの本を読んでみたら?」言われるわけです。貸すから読みなさいと言われて借りる。エミール・カウフマンの著書などを貸してくれましたね。借りたはいいけど、こういうものを借りた場合は何日ぐらいで読んで返せばいいのかわからない。だから、しょうがないので一週間ほどで読んで、おもしろかったですと言って返す。そしたら、「ああもう読んだの。じゃあこれも読んでね」と言われて(笑)。次々に読まなければいけない本を貸してくれました。それを読んだりしているうちに、勉強会、見学会、内覧会などに誘われ始めました。雑誌で古典主義の特集をやるから、そこでこの本を読んで書きなさいと言われて寄稿したこともありました。こうして、大学院の時は世界がまたちょっと広がったのです。妹島和世さんと会ったのもその頃ですね。色々な人たちと知り合いになったのが大学院時代ですね。
―――そこから磯崎さんの事務所で働くようになったのは、アルバイトをしていてそのままの流れだったのですか?
修士が終わった時はまだ生意気な学生で、どこかに勤めるのではなく、設計事務所を自分で始めればいいと考えていました。でも、そう簡単に仕事ってないでしょう? 考えたら僕より少し若い小嶋一浩さんなどは、もうその頃にはしっかりと仕事をしていましたが、僕はそうはいかなくて。どんどん自信がなくなっていくのです。
その後、ようやく事務所の改装設計の仕事をもらえたのですが、行ってみると、「今度席替えをするから部署ごとの机の数を数えて、シミュレーションして」という感じで。最初は張り切って机を並べていたのですが、それをやっているうちに悲しくなってきて…(笑)。これではダメだと思い、ちゃんと心を入れ替えて一から建築のことを学ぶ必要があることにようやく気がつきました。
それで、香山壽夫さんの研究室に行って、香山先生に相談したところ「うちは今、人を雇えないので無理。どこか他にないですか」と言われました。「磯崎さんのところとか…」ともごもごしていると、その場で電話をしてくれました。「今度、次に雇う人の面接をするから、その日に来なさい」と言われて行くと、「採用できるかどうかはわからない。だから他に行きたいところがあればそこに行ったらいいし、待っていても構わない。任せる」と。僕はそれを聞いて、「では待っています」と答えて待っていました (笑)。その後しばらくして「明日から来なさい」と言われて働き出しますが、その時はそこでやっていけるのかさえ自信がありませんでした。なので、何年間か勤めて独立しようという気持ちは全然なかったです。そこで働いて、まずやっていけるかどうか、クビにならないかどうかということで、頭がいっぱいでした。クビにならないでやっていけた場合、どこかで僕は「磯崎さんと違うようにやりたい」と思う時が来るかもしれない。そうしたらそれが自分が独立して始める時期だろうし、でももしそう思わなければずっといればいいと思っていました。そうこうしていて、自分は磯崎さんと違うことがしたいという気持ちも芽生えず、7年ほど経ちました。
7年目は、水戸芸術館の設計の担当をして、それがようやく終わる頃でした。水戸は3、4年かかっていたので、次の仕事は7年ぐらいかかるかもしれないと思いました。そうすると40歳になってしまいます。周りの人の話を聞いていても、40歳になってから独立するのは大変そうだな、もし自分が独立した建築家としてやっていくことを考えたら、今辞めるしかない、と考えました。磯崎さんのところに入った時には、ここでやっていけるかどうかが一番不安でした。逆に言えば、不安だから、そんな事務所に飛び込んだんですね。だから、迷ったら、今回も不安な方を選ぼう、と。それで、「辞めさせてもらおう」と決断しました。
―――その時の自分にとって一番不安な選択肢をその時々で選択していたのですね。
その方が結果として楽しいでしょう? 一回しか人生はないですから。だから大きい決断の時は、たいてい難しい方を選びますね。日常生活は楽な方を選びますけれど(笑)。
―――学生時代や駆け出しの頃から今に至るまでの間、建築の考えとして続いていることはありますか?
振り返ってみれば今の自分に繋がるものもあるのかもしれないけれど、学生時代や磯崎事務所時代は自分の考えはなかったです。自分の考えというものを少しは持つようになったのは、独立してからだと思います。きっと多くの人々が同じじゃないでしょうか。というのは、自分でやっていると、自分で決断しなくちゃいけないことがすごく多いのです。大学の時には講評会やエスキスがあります。そこでこっちの方が良いんじゃないかと言ってくれる。でも独立すると誰も言ってくれないんです。スタッフが意見を言うかもしれないけど、こっちと決めるのは自分。羅針盤がなくなる。ともかくどっちに行っていいか分からなくなります。だからこの案が良いかなと思っても、本当に良いのか分からない。実際何日か経つとやっぱり良くないと思ってしまう。その連続です。分からないと本当に何も進まないから、とりあえずこれ、と決断しなきゃいけない。そうしている間に、自分は何を考えているのかというのが何となく分かってくる。というか、分かった気になってくる。だから大学の時に考えていたことはほとんど覚えていないのです。
―――卒業論文や修士論文で考えたこともですか?
僕の卒業論文や修士論文はめちゃくちゃです。卒業論文は、いちおうコルビュジエ論ですが、サヴォア邸とアラン・ロブ=グリエが書いた『消しゴム』という小説の関係、それからショーダン邸と『不思議の国のアリス』の関係というものでした。何の意味もないですよね(笑)。
修士論文、芸術家カジミール・マレーヴィチについてです。彼には『シュプレマティスム・アーキテクトン』という少し建築的なプロジェクトはあるけど、基本的には建築家ではありません。そのときそのときで興味があることをやってきただけです。振り返ってみれば今と繋がっていると思えるかもしれないけれど、その繋がりは直線的ではありませんね。
だから、あなた方も自分で設計する立場になったら、きっとそこがやっぱりスタートラインです。そしてスタートを切るためにはその前に無駄かもしれないけど、やっていたいろいろなことがベースです。何でも良い。自分にとって面白いと思っていることをやっていればよくて、そこからしか何かを始められません。
―――その時々で興味のあることをちゃんと突き詰めていくことが大事なんですね。
そうだと思いますね。
―――文学や映画などで印象に残っている、いまだに思い出すことがある作品はありますか?
映画の筋はほとんど覚えられないんです。覚えているのは、その映画全体の「気分」というのでしょうか。こんな気分の映画だったということばかり。あの気分は面白かったから、もう一回観てみようとなる。それは文学も同じですね。だからミステリーなどは、何回読んでも悲しくなるほどに新鮮に思えます(笑)。
文学だと一番好きなのは、さっきも出てきたラブレーの『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』。16世紀のフランスで書かれたものです。何がすごいかというと、いわゆる小説が世の中に生まれる前のもので、小説でさえないわけです。そして、最初から最後まで「笑い」だけなのです。可笑しい話というよりも、荒唐無稽なことがずっと書いてある。例えば、ガルガンチュアという王子が結婚する。すると誰かが来て結婚するなと言う。「なんで?」と聞くと、「これこれこうで……」と言う。これで一章が終わってしまうのです(笑)。次の章はまた誰かが来て、今度は結婚したほうがいいと言う。結婚すればこのように楽しいよと話して、それでまた一章が終わる。そんな荒唐無稽な物語の中にみなぎっているパワーと気分は、僕が一番好きなところです。
映画は、僕はやはりアルフレッド・ヒッチコックが一番好きです。フランソワ・トリュフォーがヒッチコックにロングインタビューをして書いた『映画技術』という本があります。ヒッチコック自身にとっても、映画についてここまで突っ込んだ質問をしてもらえるというのが楽しかったのでしょうね。いろいろな話をしています。それを読むのがすごく面白い。
例えば、『白い恐怖』という作品があります。主人公は既婚の女性なのですが、彼女の体の調子がだんだんと悪くなっていく。そこである時、もしかしたら連れ合いの彼が、自分に毒を飲ませているのかもしれないと思うようになる。ところがもう体は動かない。すると彼がまた、いつものようにコップに注いである牛乳を持って下の階から上がってくるのです。その牛乳がとても不気味で、観ている人は誰しもが「あそこに毒が入っているのだろう」と思う。そこでトリュフォーは「一体どういう操作をしているのですか?」とヒッチコックに尋ねます。すると、「あれは白い牛乳の中に豆電球をいれたのだ」と答えました。白黒映画においては、周りが薄暗いとそこだけが明るく見えるため目がいってしまうのです。他にも、『めまい』という作品では、高所恐怖症の人が、上から下を見下ろした時のめまいをどうやって映像化するかという時に、カメラを下に向けて引き上げながら、同時に画角を広角から望遠へと変化させていく撮影方法が採られたのです。『映画技術』には、こうした話がたくさん書いてありました。これを読んだら、今まで観たことがなくても絶対観たくなるでしょう? 昔は今のように簡単に映画を観られる時代ではなかったので、観に行けることになったら、本で勉強してから名画座に行っていました。一本一本、教科書付きで観ることができたので、この映画の気分はどのようにつくられているのかということが克明に分かるんですね。
これは、僕たちの建築を設計する行為とすごく似ていると思います。例えば僕たちは設計をする時に、ある気分をつくろうとしている。建築そのものに気分はないけど、建築に人がいる時に、ある気分を感じることがある。それは映画を観た時に人が感じる気分と同じだし、音楽を聴いて人が感じる気分とも一緒です。建築はモノだけど、単なるモノじゃなくて、そこに気分がある。その気分をみんなはコントロールしようと思っているはずです。
だからこういう気分が欲しいと考えて、どのように作るべきかを考える。ほっといたら気分はできないから、何かをやらなければいけない。そこには決定的な方法論がなくて、いろいろ案を考えて、頭の中で想像して、きっとこっちの方がいいだろうと判断する。不安ではあるけど、実際に作ってみて、出来上がったものがそういう気分になったならば、お慰み。なかなかちょっとついているな、ということです。でも建築は、出来た後に一個一個なぜこうなったかと説明ができないといけない。それは映画も同じで、おそらくヒッチコックも映画を作っている時に色々考える中、無意識な部分もあるかもしれない。でも出来上がったものに関しては、これはこうだったからこうなったのと説明できるレベルになっていると思います。それが、あの時代の映画のクオリティを上げている。クオリティを上げようとして、特殊技術を頑張るとかいうことではなくて、そこに一番のポイントがある。だから今見てもすごく楽しいのです。
―――まだ横浜国立大学へ非常勤講師として教えに来るようになってから、日が浅いと思うのですが、印象などはありますか?
同じ横国と言っても、Y-GSAと学部とでは違うと思いますし、4年生の設計課題を週に1回ほどしか見てないので一概には言えないのですが…。すごく真面目だなという感じがします。
4年生は「一万平米」という課題をやっています。最初に敷地を探して、プレゼンテーションをします。そしてプログラムを考えて、それをまた発表して、最終的にはそこで設計するというものでしょう。
だけど僕の個人的な印象としては、敷地、プログラム、ものが順を追って決まるということは難しいと思います。最初に最後の結論をまず考えた方がいいんじゃないかな。そのあとどこでもいいから土地を探して、そこに何かを設計してみることで、それで初めて何かに気がつく。順を追って決めていくと、うまくいかないと僕は思います。どんなプログラムであれ、どんな土地であれ、それに対してどういう建築空間であるかを考えられるか。その最後が一番難しく、重要です。
皆さん、敷地は結構面白いところを探してくる。プログラムもその土地の過去や歴史をよく調べてくる。でも、最後の建築が弱い。やはり最後の「で、どんな建築なの?」がすごく重要で、そこに時間をかけるべきだと、僕は思います。僕は極端だから、そこだけに時間をかけた方がいい、と言いたくなってしまう。
アイデアをカタチにする時にはマジックみたいな飛躍がありますよね? その飛躍をどれだけ経験できるかが、その人の設計が伸びていく最も重要な部分なので、そこを磨かなくてはと思います。
―――最後に学生に一言お願いします。
学生の時に、自分にとって没頭できるものを見つけることが大切です。もし映画が好きな人だったら映画をいっぱい観たらいいし、本を読むのが好きな人だったら本をいっぱい読んだらいいし、旅行するのが好きな人なら旅行をいっぱいした方がいい。とにかく一番時間があるのは学生の時なので、思う存分好きなことをやるといいと思います。
―――ありがとうございました。
学生インタビュアー:石原結衣、鈴木里奈、恩田福子、久米雄志、百武天
インタビュー写真:鈴木里奈、久米雄志