沢瀬 学
1971年 盛岡市生まれ / 1997〜2000年 石田敏明建築設計事務所
/ 1990〜1998年 横浜国立大学建築学コース在籍 /
2002〜2008年 ロコアーキテクツ一級建築士事務所 共同主宰 / 2005年〜現在 内山敬子とともにKEIKO + MANABUを共同主宰
—沢瀬さん大学は中退されてらっしゃる…(笑)。
横浜国大の建築っておもしろい学校ですよね、中退の人がOB会員で、しかもインタヴュー受けるなんて(笑)。
数年前に北山恒先生が、OB会創設の打合せで会則の話をしているときに、「そうだ沢瀬みたいなのも会員になれるように、卒業した者じゃなくて属した者っていう文言にしよう!」って言って下さったんです。
そのおかげもあるのでしょうか、僕は中退をしましたが、今日インタビューにいらっしゃっている皆さん始め横浜国大の学生さん達、OB会の皆さんにはシンパシーを持っていますし、何か役に立つなら、あまり話したくはないプライベートな、「中退した経緯を聞かせて下さい」というような(笑)、ストレートな質問にも、出来るだけ答えたいと今日は覚悟をしてきました。
—やはりそこは気になります(笑)。
中退した理由はふたつあります。
ひとつはどうしても履修して単位を取りたくない授業が必須履修科目であったこと。
学生に向かって「これは君たち建築の学生は理解する必要のない高等数学だから、概念の説明はしない、暗記しなさい。」という先生の授業は、どうしても受けたくなかった。
もうひとつは休学をしたかったのですが出来なかったからです。
建築設計に急に夢中になっちゃって学校の外でいろいろな人と知り合ったら、学校の授業にはない、哲学、音楽、映画や小説、現代美術、ファッション、飲食、世界中の文化、世界中の人々についてもっともっと知らなくちゃいられなくなって、学生課の窓口に行って理由を説明して「なので休学の手続きをします」と言ったら「そんな理由では休学出来ないことになっている」と断られました。
—休学については今もそのような扱いみたいですね。
それはやっぱりおかしい。今考えても立派な理由だと思う。
でもね、もし、僕が今、誰かに同じ理由で「学校辞めたいんだけど」って相談されたら、「まあまあ、そこはひとまずこらえて卒業しちゃった方がいい、その方が速いよ」って絶対言う(笑)。
—というのは?
自分のこととしては、どうしても承諾出来なかったし、今でも正しいと思うけど、ひとごととして客観的にみたら、たいしたことじゃないもん。さっさと卒業してからよそで勉強すればいいじゃん(笑)。
で、僕は結局籍だけを残して、あちこち設計事務所でアルバイトしながら本を読んだり映画をみたり展覧会に行ったりして、お金の余裕ができると部屋にこもって作品づくりに没頭する・・・っていうのを3年位かな、続けていたんだけど、必然的に段々困窮してくるし、電話はずーっと止まったままだし、ガス・電気もちょくちょく止まるし、結構キツかったから。電報でバイトの連絡もらったことあるもん(笑)。
同級生は就職したり、大学院に進級したり、留学したりしているしね。
両親はじめ周りの人にはすっごく心配をかけたし。あー申し訳ない。
体面的には「僕が今勉強していることは学校では学べないことだから」と突っ張っていましたけど。
だから、僕個人にとっては、とっても大事な、貴重な3年だけど、それはとても乱暴でパーソナルな生き方で、決して社会的には、人に勧められるやり方じゃない。
20年前の僕に対して、タイムマシーンに乗って行って、「そこ座れ!」って諭したい(笑)。
—それまでの学生時代はどのように過ごされていたのですか?
当時僕は、知的好奇心に満ちた、典型的な田舎の学生で、遠いふるさとの盛岡から、わくわくしながら横浜にやってきました。ところがいざ大学が始まってみると、なんとこれが、あれ?と(笑)。イメージしてた空間デザインの勉強なんかどこにもないし・・・まわりの同級生は大学に入ってまでもセンター試験の点数自慢してるし・・・滅入っちゃうよね(笑)。
そんな中、唯一概論のクラスで、ある日北山恒先生が、ばりっとアルマーニみたいな、ばっちり肩パッドの入ったスーツを着て(笑)教壇に現れて「建築設計という仕事はすべての芸術の頂点に立つ素晴らしいものだ!」ってお話をしてくださって、その時に「あ、この人は!」とビリビリきたのを憶えています。でもカリキュラムみると北山先生に教わることが出来るのは3年生後期からなんだよね。
なので入学してすぐに始めたイタリアンレストランのアルバイトの方が、だんぜん充実感がありました。横浜駅前にある、素敵なご夫婦がやっている小さなレストランでした。慣れてきたら火を使う仕事以外どんどんまかせてくださって、前菜の調理、配膳、接客、レジ打ち、仕込み、在庫管理、掃除・・・。なんでもまるで自分の店かのように一生懸命やりました。
ほんとに、ウェイターの僕の、ちょっとしたふるまいや話し方次第でも、レストランがまるでライブハウスのように、すごいグルーブ感で盛り上がることがあるんですよ。それで、たまたまその日同じ店に居合わせた30人位の互いに知らない人同志が、みんな幸せそうに「ごちそうさま」って帰っていく。そこにはポジティブに、そしてリアルに社会と関わっている実感がありました。今の仕事上の充実感はこの時の感覚とそっくりです。
気がついたら3年の後期が始まろうとしていましたが、学校のことはあんまり頭になく、相変わらずバイトにいそしんでました。
—そして3年後期が始まって・・・
そう、友人が「本物の建築家が教えるクラスが始まるから学校に来た方がいい」っていってくれて、それでクラスに出てみたら、山田弘康先生、北山恒先生、飯田善彦先生がズラッ!とダンディに並んでて、眼がカタギじゃなくて(笑)、「建築設計は人生をかける価値のある仕事だ」っていうのを聞いて「この人達に自分の作品を見てもらいたい!」って。
その瞬間にさっきまでのアンニュイな僕はもういなくなっていましたね。
すぐレストランにいって、「建築設計を真剣に勉強する気になったので、申し訳ありませんが辞めなければいけません」といったら「おめでとう。嬉しいよ、勉強する気になってくれて」と送り出してくださいました。
それからはもう設計のクラスに夢中になって、4年生になって2年3年次の設計のクラスを全部取直して同時に3つ課題をこなしたりしてました。高校生以来、久々に設計の成績だけは「優」並びでしたね。他の授業は悲惨だったけれど。英会話のクラス以外に「優」はなかったと思います。しかも英会話は履修の必要がまったくないのに(笑)。
北山先生は当時「どんどん建築家の事務所にいって、プロの仕事を経験してきなさい」とおっしゃっていて、僕も夢中になってるから、建築家から組織事務所まで、ほんとにいろんな設計事務所に出入りしました。
大学の先輩でもあり、先生でもある渡辺誠さんには、クリエイターとして作品にもご本人にも憧れて、2年位入り浸って展覧会のプロジェクトを担当したり、いろいろなコンペをお手伝いして徹夜したりしていました。北川原温さんの事務所にもいかせてもらって、そこでのちにロコアーキテクツを共同主宰する根津武彦さんにも出会っています。
自分でも友人達と組んでインスタレーション実施コンペに応募して最終選考まで進んだり、水俣メモリアルというコンペで入賞したりして、段々勉強とは別に、空間デザインで実社会とも関わり始めました。
そうしていろいろなところでいろいろな人に出会い、いろいろなことを知るうちに、「このまま大学を卒業してもダメだ、僕はまだ何にも知らない、出来ない」と思うようになって・・・卒業制作も1回目の出来に満足出来ずに2回やったし、もう大学で建築設計に関して学べることは全部やっちゃって、もっといろいろ学びたいんだけど休学は出来ないし、どうしても履修したくない科目は残ってるし、どうしよう、と。
—学校からはきっかけをもらって、それを社会に関わりながらのばして行ったという感じですね。
いや、そんなスムーズでも簡単でもなくて、大変でしたよ。
今考えると、ブッ飛んじゃったんだね(笑)。結局、学位もいらないくらい建築設計に夢中になっちゃった。
あと、就職するということも怖かったんだと思います。
「社会のいち歯車になって・・・」ってよく言うけど、僕はいち歯車にさえなれないじゃないか、と思っていたし。
しかもちょっと挑戦してみたコンペでそれなりに手応えを得て、「なんかこのまま仕事出来るようになるんじゃないか?」と思った時も正直ありました。
全くわかってなかったですね、社会がどういうものか、仕事がどういうものか。
社会、仕事というのは、お勉強とは全然別物なんですね。
それからご縁があって結果、石田敏明さんのもとで3年間修行することが出来て、その間に中途半端な留年生活も中退という形でケリをつけて、きっちり住宅を一件担当して、「これで建築を設計出来るようになった」と思って独立しました。
石田事務所最後の一年で現在公私ともにパートナーの内山敬子とも出会いました。
—独立後はジャンルに関わらず横断的に活動されていますね。
ええ、とにかく縁があって出会ったことは、なんでもにこやかに、誠心誠意気持ちを込めてやるようにしています。
2002年から6年間、一緒にロコアーキテクツとして活動していた根津武彦さんも、北川原事務所時代から僕のことを憶えてくれていて、石田事務所から独立したのを知って、「一緒に仕事しない?」と声をかけて下さったんです。少し僕より先輩なのですが、すごく寛容な人で、「事務所の運営とデザイン決定については対等でやらせてもらえるなら」という僕の希望を受け入れてくれました。有り難かったです。
美容室のインテリアやレストラン、住宅など手掛けては雑誌に発表し、公募の実施設計コンペに応募して最優秀を勝ち取るなど、がむしゃらにデザイン活動をしましたね、僕に出来ることはそれしかないから。
しばらくして内山敬子がSANAAを退職しました。元々ゆくゆくは一緒に仕事をするつもりでしたが、ロコアーキテクツにもうひとり主権を持ったデザイナーが増える状況は不可能だったので、しばらくしてKEIKO + MANABUという活動も始めました。3年くらい両方の活動を並行していたのですが、体力的にとってもキツかったので、2008年春からKEIKO + MANABUの活動に専念することにしました。
内山敬子も僕も、バックボーンは建築設計ですが、ふたりで最初に手掛けたプロジェクトがブティックの内外装で、インテリアデザインもチャンスと思って一生懸命やったから、結果そのあとの仕事の幅が広がっていきました。ショップのアートワークのデザイン&製作もやったり、磁器のデザインをしたり、漆器のデザインをしたり、ジュエリーデザインもしたり。
もともと僕らはふたりとも「あの人みたいになりたい」とか「建築家になりたい」っていうような目標の持ち方をしていなかったんです。
僕らはこれまでの経歴からも、主に空間デザイン決定においてのプロフェッショナルで、出会ったクライアントや作り手と一緒に、具体的なプロジェクトでひとつひとつ、より素敵な世界を実現していきたい。
とにかくデザインする、それだけです。
職業名にはあまり興味がありません。
—建築家という職業にこだわらず、パーソナルに社会にコミットしていくにはどのような姿勢が必要だと思われますか?
「やっていきたい!それしかない!」という決心と、それに見合ったパーソナリティと社会観だと思います。
社会といっても、これまでだって一瞬たりとも不変であった試しはないし、たった今もどんどん変化し続けていて、どんなものにでも変わりうる、だから常にフットワークは軽くしておく、という社会観を僕らは持っていて、たぶんそういう社会観が、僕らのパーソナリティにあっているんです。
だからもちろん、人によってパーソナリティや社会観は全く異なるでしょう、全く異なるものが無数に共存しているのが、正しい社会だと思います。
考えてみてください、もっと言えば、世界中のお父さんと呼ばれる人のほとんどの人は、出来るだけこの世に事故がなく、安全で、明日も今日と同じ平和な日が来ることのために、一生懸命働いているからね。
大事なのは自分自身をよく知って、自分自身にあった社会観を育てて、その行くべき場所、立つべき場所をみつけることだと思います。それは必ずどこかにあるはず。
—沢瀬さん自身のパーソナリティっていうのはどのように形成されていったのでしょうか?
う〜ん・・・。
実はさっきちょっと端折ったんですが、すごく僕にとって象徴的な出来事があって。
まだ在学していながら石田事務所に通い始めて、ほとんどスタッフみたいになった頃、海外の実施コンペを担当になって進めていったのですが、実はそれまでコンセプチュアルなプロジェクトしかやったことがないから、プランとか結構適当で、途中からプロジェクトがうまく進まなくなってしまって。石田さんが「これ2方向避難とれてる?」とかいうんだけど「なんですかそれ?」みたいな感じで(笑)。
結局そのプロジェクトで心身共にもうボロボロになって、それまでは自分はちょっと設計だけは優秀で、デザインの出来る一風変わった学生みたいに振る舞っていたのが、なんてダメなやつだと。ほとほと自分が嫌になって。
石田さんが作って下さったスタッフとしての名刺の束を握りしめながら、泣きましたね、情けなくて。
で、こう思うことにしたんです。
「僕はなんでもなしだ。ミスター・ノーバディだ。」
心を入れ替えて、石田さんから、いちから建築を実際に作ることを、謙虚に学ぼうと。
大学も、これ以上行きたくないならきちんと辞めようと。
それ以来、世界の見え方が変わったような気がします。
学歴っていう、これから社会の中で頼りになるはずだったものを手放してしまったので、真剣に、何のバイアスもなしに、デザインだけで勝負していかなくちゃいけないという決心がつきました。
学べるものはすべて学ぶ、表現することはすべて表現する。
北山さん、飯田さん、渡辺さん、石田さん他これまで出会ったすべての人に影響を受けていることを証明し続ける。
だから相変わらず僕自身は「なんでもなし」です。でも今は「KEIKO + MANABUとその作品はそうではない。」と思ってやってます。
—デザインによって、パーソナルに社会と関わっていくということは具体的にどのように?
わかりやすい一連のプロジェクトがあって。
昔のご近所さんが舞踏家・故大野一雄さんのマネージメントをされていて、明治学院大学で101歳を記念した2日間だけのインスタレーションをしてほしいとお願いされて、学生の時から大ファンだったし喜んで引き受けて。
大野さんが舞台の構想を必ずB4の紙にスケッチされていたことから、B4の再生紙8枚からなる無数のお花で会場を作りました。ホチキスも針を使わないタイプを使って、設営一日、撤収30分、ゼロエミッション、古紙回収。そこまでも含めて、大野さんが体現されておられる、「生命の円環に捧げられる花」を表現しました。
またそのすぐ後に、ファッションブランドのルシェルブルーから名古屋のお店に、一晩でシューズのディスプレイ什器を作ってほしいという依頼を頂いて、同じ構造で材料をもう少しクールな金属感のあるものにして実現しました。
この経験が、ディーゼルからのオファーの、インスタレーション[ Heart of Shapes ]に繋がっていきます。紙の材質と形態による構造の可能性に気付いていたから、諸条件から、建材に限りなく近いような紙があればおもしろいことが出来そうだなあということになって、日本で一番大きい製紙会社ということで、王子製紙に相談してみたら「おもしろいですね。」と協力して下さることになりました。輪が広がっていきます。ディーゼルの方も王子製紙の方も、大野さんの時の資料をみていますから、話は早いです。
リサイクル出来る金銀キラキラの板紙という材料を紹介して下さって、一般の古紙回収では金紙銀紙は回収出来ないのですが、東京に唯一残っている江戸川の王子製紙工場で展示終了後はリサイクルしましょう、では工場長に挨拶に行きましょう、すると「準備をする場所がない?うちの体育館どうぞ使って下さい」って一ヶ月無償で貸して下さって。すごいよね。ほんと皆さんにはどんなに感謝しても足りないくらい。会期後は予定どおりみんなリサイクルして。
その続きがあって、このインスタレーションでかたちと構造の関係にますます興味がわいて、そこにグラフィックデザイナーの廣村正彰さんが指揮する西武デパート池袋店の改修計画への参加依頼があって、パブリックシーティングのデザインをすることになったので、お花を贈るような気持ちで、お客さまにも花畑で一休みしているような気持ちになってもらいたくて、大野さん、ルシェルブルー、ディ−ゼルと進化しながら紙で作っていたのを、金属と樹脂で、構造計算もして、ベンチとソファとして実現しました。
大野さんのが2007年、西武が2010年ですから、3年の間に僕らのデザインに触れている人は等比級数的に増えていると思います。そのようなことが、例えば、デザインによってパーソナルに社会と関わっていく具体的な例ではないでしょうか。
最初は僕らと古い友達との約束から始まって、それをみてくれた誰かが仲間になってくれて、いつのまにか誰か=企業の人になって、そこに又まるで風とともに救世主のように誰かが現れて、それを横で見ていた人が「じゃあさ、」って言い始めて、それでクライアントと作り手と一緒にプロジェクトを実現して、すると世界中のあちこちから「あなたたちの作品大好き!」「あなたたちのところで働きたい」って、連絡が来て・・・。これはね、すっごく素敵な経験。胸から取り出してみせてあげたいくらい、「綺麗でしょ〜」って(笑)。
SOQSのプロジェクトで一緒にお仕事をした柿木原政広さん、コピーライターの原晋さん始め関係者みんながやっぱりどこかパーソナルなところでビビビッ!と共振してるし。
始めはみんなそれぞれパーソナル、それがピッと繋がって社会になる。
—社会と接点を持とうとしたときに、そのインターフェースさえもどうデザインするかが重要だし、それ自体喜びになりうるということですね。何か学生に対してメッセージはありますか。
そうだね、じゃあね、Stay personal, Play social.っていうのはどう?、英語として正しいのかわかんないけど(笑)。
インタビュー構成:山内祥吾(M2)、堀田浩平(M1)、上月亮太(B4)