Interview#026 野沢正光


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野沢正光

1944年東京都生まれ/1969年東京藝術大学美術学部建築科卒業/1970年大高建築設計事務所 入所/1974年野沢正光建築工房設立/現在武蔵野美術大学客員教授、横浜国立大学工学部・法政大学大学院デザイン工学研究科非常勤講師、他

 

 

今回のインタビューは野沢さんのご好意により自邸にお邪魔させて頂き、インタビューを行いました。

パノラマ

 

—野沢さんが建築を目指されたきっかけを教えてください

高校時代は都立立川高校に通っていました。後で分かったんですが、坂本一成さんも通われていた高校です。僕が高校を卒業する頃はちょうど東京オリンピック前で首都高や代々木オリンピック競技場をはじめとする様々な建築が建設され、社会が建築を望んでいるという時代でした。どんどん人が増えて大きな団地が造成され、公共建築が建設される時代でした。同級生でも建設業界や住宅公団に入るという人が多かったです。僕はというと叔父の影響を受けて建築 を志すことに結果なりました。僕の叔父はたまたま吉村順三の弟子だったんですが、25歳の若さで結核を患って死んでしまうんです。そんな叔父の存在があったため、当時吉村順三が教鞭を取っていた東京芸術大学の建築に入れば両親は悲しむことはないだろう(笑)と思い受験しました。受験した学校も芸大のみ。当時倍率は30倍とか40倍とかだったけど当たって砕けろで、今から考えると無謀でした。進路に関してあまり深く考えていなかったですね(笑)。

—当時の芸大で建築で活躍されていた方はどなたですか?

吉田五十八や吉村順三。当時の芸大は生徒数が人数少ない割にはあなどりがたい教授陣を置いていました。連合艦隊で例えると艦長は吉村順三で、副艦長が山本学治、その下にもさまざま個性的な教授陣が配されていました。山本学治はどちらかと言うと歴史専門で「素材と造形の歴史」という本を書いているくらいで、建築を歴史的に押さえる人でした。一方で、天野太郎というフランク・ロイド・ライトに学んだ非常に感覚的な人がいたりと多彩な教師がいる環境を吉村さんが組織していた。今から考えてもあの頃の教授陣の顔ぶれは絶妙ですね。

—吉田五十八さんはいらっしゃったんですか?

吉田さんはもう退官されていました。講評会に時々いらしてましたね。よく覚えているのは卒業設計の講評会にゲストとして吉田さんが現れてある劇場模型を指差して言うわけです。”なんでこの建物のボリュームは少しだけ角が削れているのか?美しくない”と。実はこの作品を指導したのは山本学治さんで、彼は機能主義者なので用途上不要な部分のボリュームは削らせたのです。その時山本さんはむっとした顔で我慢されてました(笑)。吉田五十八さんはプロポーションや形態の美しさにとにかくこだわる人という印象が強かったですね。

—教授陣と学生との関わり方はどういうものだったんですか?

1学年15人しか学生がいないから、エスキスや講評は先生全員が担当で、最終的には全員見てくれました。学生のときは何でこんなに長時間エスキスが続くのだろうと思っていましたが、 もっとこちら側が利発的で早熟だったら、もっと色んなことを彼らは応答してくれたんだろうと今となって思います。私は教育というのはなるべく手厚い方がいいと考えています。また学ぶ環境は敷地も含めてなるべく豊かで多彩な方がいいと思う。例えば、教員の数と学生の比率がなるべく1:1になるとか、でかいイチョウの木がキャンパス内に立っているとか。例えば東大の本郷のキャンパスが学生に与える影響は大きいと思う。芸大の場合は教員の数と学生の数を合わせると、教員の数の方が多いなど、手厚い教育だったと感じています。またキャンパスには絵を描いている人や、彫刻を作っている人、一生懸命楽器を練習している人などがい て、その環境の中で建築を学べたことは非常に良かったと思っています。

—それだけ手厚い教育だと、学生に対する吉村さんをはじめとする先生方の影響力というのもすごそうですね。

もちろん影響は受けますね。むしろ吉村さんの考え方がいい意味でも悪い意味でも基軸になると言った方がいいかもしれない。例えば芸大の陶芸科の例で話しますと、焼き物はとにかく薄 く挽けとか先生に言われるんです。そうすると、ボタっとした厚い作品を作ってくる生徒がいるわけ。なんで彼はそんな厚い焼き物を作ったかというと、先生に薄く挽けって言われたからなんですよ。薄い焼き物が本当に良いのか、彼なりにそこを疑ってみたわけです。教師のメッセージは基軸になる。当時の芸大はそういう環境でした。そういう関係性が理想的な教育だと思います。だから吉村教育を受けた芸大の学生でも吉村建築の流儀とでもいうものを追
及する人もいれば、吉村さんの考え方を基軸に全く別なアプローチで建築をつくる学生もいました。

—野沢さんは卒業設計はどのような作品だったのでしょうか?

それを聞かれると赤面の至りだなぁ(笑) ただ単に劇場とか、美術館みたいなひとが特別な時しか利用しない施設をやるのは嫌だと思っていました。それである人が1日中関わり続けるような街みたいな建築はないかなぁということを考えました。普通だったら駅に行って、会社に行って、帰りに飲み屋に寄って、家に帰る、と。そういうものを全部設計できないかと考えたんです。でも全部やるのは難しいのでそれがパッケージになっているものと思って最終的には南極観測隊の基地に辿り着いた(笑)。その当時の南極観測隊って今で言う宇宙基地開発みたいなニュアンスがあったんですよ。そこには寝食する場所、研究する場所、植物を育てる場所、レクリエーションの場所など生活するうえでの必要な場所がコンパクトにパッケージされている。そのような施設を規格化された工業製品で組み上げていったのです。そして最後エレベーションはブリザードの中に消えていくという(笑)。宇宙船地球号的な世界観を持った計画となりました。「敷地が日本列島から出たのは初めてだよ」と言われましたね(笑)。今思えばプレファブリケーションはあの時代のメッセージだったと言えるかもしれませんね。

—卒業後の進路はどうされたのですか?

一年くらいブラブラしてから、学生の頃にバイトしていた大高正人さんの事務所に入りました。当時は千葉県文化会館とか千葉県立中央図書館、栃木県議会棟庁舎などの大型プロジェク トを進めている時期でした。それらの作品を「建築」という雑誌にまとめる時期にバイトとして行ったら結構楽しくて、昼を食べた後、喫茶店で今の建築はああだこうだってスタッフの人たちが3時や4時になるまで延々と熱く議論しているような事務所でした。

—大高さんのところでは何を担当されていたのですか?

僕が大高さんのところで係わった仕事で一番記憶にあるのは広島の基町高層アパートです。基 町は原爆スラムの整備を中心としたプロジェクトでしたから、八百屋が何件とか、風呂屋が何件とか、パン屋が何件とか、誰が住んでそこでどういう生活を営むとか決まっているプロジェクトだった。その巨大な既にあるコミュニティを集合住宅として再生させるという壮大な計画です。賃貸や分譲の高層マンションとは違って、一戸一戸の住まい手が既に決まっている。これらのすべてを調整しなければならず、それは途方もない仕事でした。

—その後独立されるきっかけを教えてください。

そろそろ独立しようと思っていた時期にたまたま爺ヶ岳にロッジを建てるという依頼がきまし た。31歳で自立しちゃっていいのかなと不安だった頃、アルヴァ・アアルトのサナトリウムの 作品が31歳の時の作品ということを知って、それならば大丈夫だろうと独立しました(笑)。 この決断は今でも正しかったと思っています。僕は今までいわゆる企業への就職活動というの はしたことがないんですね。これが僕の人生において最も良かったことだと思っています。世 間的にいいと言われる就職先にお願いして入ったことがないということ。拝んだり祈ったりし ていくつも受験して、面接官に偉そうな顔をされてそれでやっと会社に潜り込んでしまうと、 一種奴隷みたいになるじゃないですか。就活だけはするな!と声を大にして言いたい(笑)

プリント

新建築1976年6月号より爺ヶ岳ロッジ

これは僕がというよりは時代がそういう時代だったのかもしれない。学生運動の真っただ中と いうこともあって未熟ながらにも早く自分の意見をもって大人にならなければならない時代で した。今の時代でもみんなもっと社会に対して血気盛んになって欲しいですね。今の社会は資 本主義の仕組みが暴力的になっていて、それに対する批評や反対勢力が用意できていない。企 業や組織のトップの下には必ず現場や末端でせっせと働く人たちがいてどんどん搾取されていく。ピラミッド構造の頂点に立てるのはごく一部の人間です。こうやって資本主義というシステムは回されているのですが、こういう状況に対して批評性や提案力をもって人とは違う、自分にしかできない社会への参加の仕方はないのかと考えてみる必要はあるのだと思います。それができないと建築の提案などできないと思いますよ。僕の場合は独立して、学生時代芸大の助教授だった奥村昭雄と一緒に環境的なシュミレーションしながらデザインするという、それまで手が付けられていなかった領域で仕事をしてきました。社会を批評的に見ていれば必ず社 会的要請があるけれど手が付けられていない領域が存在します。その領域に勇気をもって一歩踏み出せば、何とかやっていける。意外と社会にはそういうものの受け皿は用意されているのです。

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—野沢さんのお話や講評では歴史的な話がよく引き合いに出される印象があります。建築をやる上で建築の歴史性をどのように捉えていらっしゃいますか?

特に歴史性というものを意識しているわけではありませんが、今僕たちがやっていることの根 拠をたどっていくと歴史を遡らざるを得ないと思うのです。少なくとも産業革命くらいまでは 遡れちゃう。例えば19世紀のはじめ、突如機関車という鉄の塊が街中を走り抜ける時代になっ たわけ。それそれは、みんなその光景、つまりその技術に興奮したと思いますよ。機関車の開 業式に「すごいなー!」って出てって「うわっ!」って轢かれちゃう代議士のエピソードが当 時の人たちの熱い興奮をよく表している(笑)。機関車なり、アイアンブリッジなり産業革命 以降様々な技術の発展で人々は興奮し、次の時代を切り開いてきた。僕たちが今やっていることもその延長にあるのだと思います。だから僕はやはり建築によって同種の興奮を生み出したい。ミース・ファン・デル・ローエのナショナルギャラリーという建物があるけれども、屋根 をグイグイとリフトアップしている当時の工事中の写真がとても気に入っています。誰もあんな光景見たことがないと思うし、「あの時は興奮しただろうなー」と思うんですよね(笑)。

—その興奮が環境技術に積極的に取り組まれている野沢さんのベースになっているというお話 は妙に納得させられます。

やはり建築においても新しい空間を作り出すには技術というのは不可欠だと思います。時代を 代表する前衛的なデザインが技術に支えられているケースも多いのです。SANAAのランスのル ーブルの開口部はサンゴバンというガラスメーカーがなんとか実現させたいと工場にそのため のラインを新たに設けたと聞きました。まさにこれが産業革命以降続く”興奮”のすがたですね。

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 地下室にある野沢さんの書斎

—最後に学生に一言お願いします。

嫌な言い方をするとインテリであること。そしていろんなことを知ったうえで自分の考えを持 つこと。あとは仲間と語り合える小さなコミュニティのようなものを大切にすること。教育というのは残念ながら受動的にならざるを得ないですが、教わるというのが全てではなくて、そういう場で自らいろいろと発見して学んでいく。この大学では仲間と議論したり、先輩に聞いてみたりということが自然と起こっているから横国、Y-GSAの学生は心配ないと思っていま す。そういう場や機会に学生のうちから積極的に参加していくことが重要だと思います。

インタビュー構成:田中建蔵(M2)、浅井太一(M1)、的場愛美(M1) 写真:澤伸彦(M2)


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