西田 司(にしだ おさむ)
1976年 神奈川県生まれ /
1999年 横浜国立大学卒業 / 同年 スピードスタジオ設立
/ 2002年 東京都立大大学院助手(-07 年) / 2004年 オンデザインパートナーズ設立 / 2005年 首都大学東京研究員(-07年)神奈川大学非常勤講師(-08年)横浜国立大学大学院(Y-GSA)設計助手(-09年) 東京理科大学非常勤講師(-09年) / 2010年 東北大学非常勤講師(-13年) / 2012年 The University of
British Columbia(UBC)非常勤講師 / 2013年 東京大学、東京理科大学、京都造形芸術大学非常勤講師 / 著書に「建築を、ひらく」他
今回のインタビューは西田さんのご好意により南青山にあるオフィス、GLIDER で行いました。GLIDERは西田さんをはじめとする6名のクリエーターがプロジェクトにあわせてチームを組みながら仕事を進める組織です。
—-まず建築をやろうと思ったきっかけを教えてください。
実は大学受験の時は、物理学科と建築学科を受けました。高校生のころテレビでチェルノブイリ原発事故の事故後の特集が組まれおり、たまたまそれを見て代替エネルギーに興味を持ちました。その一方で父が建築設計をやっていたのを身近に見ていて、建築にも興味がありました。どちらか選べず、大学は物理学科と建築学科を受験するのですが、物理学科は落ちてしまい、結果絞れたので、建築学科に進学することになりました。(笑)
—-いざ入学して、横浜国大の建築学科はどのような印象でしたか。
学生時代には友達や先生から様々な影響を受けたのですが、印象的だったのは北山恒先生が、「建築家はパブリックだ」と言ったことです。普通、公務員でも無ければ職業に対してパブリックなんて言わないですよね。(笑) 誰に対してもフラットな存在ということだと思いますが、「建築家はこんな思想を持ち得るのか」というビビッときた感がありました。横国の設計教育では、建築単体ももちろん大事ですが、コンテクストとか環境とか、そこに建築が成立する根拠にも意識が割かれていて、その思考を持つと、建築という軸足はこんなにも広がるのかと思いました。
—-大学での授業以外にどんな活動をしましたか。
学部3年生の終わりにインド旅行に行きました。その旅先で、偶然にも、ホテルを建てたいオーナーに出会ってホテルの基本設計を依頼されました。運良く旅先で知り合った日本人が設計事務所を辞めたばかりの実務経験者で、意気投合して一緒にやることになりました。プシュカルという砂漠のなかのオアシスの町で、3週間ほど時間をもらい敷地や風土を調べたり模型を作ったりして提案書を作りました。いざプレゼンとなった際、ホテルオーナーに「マネーは?」と尋ねられました。「??」よくよく聞くと、建設費の何割か出してくれれば、完成後に売上から返すという、投資を求められていた話でした。(笑)僕らは、マネーの意味を勘違いしていて、設計料の支払を完成後の売上から支払いたいという話かと都合良く誤解していました。幸い設計は気に入って頂いたので、そこまで滞在で提供されたスィートルームや、御馳走になった食事などの対価として基本図面や模型はオーナーに渡し、いつか実現したら来ますと言って終わりました。もしかしたら、今頃実現しているかもしれないです。(笑)
—-その後、保坂猛さんと一緒にSPEED STUDIOを立ち上げたのですよね?
大学4年の冬に、実家を建て替えるという話がありました。僕の父は建築事務所をやっていて、病院やオフィスなど比較的大きな建物を設計していました。住宅は普段仕事としてやってなかったのを知っていたので、「ぜひ僕にやらせてもらいたい!」と伝え、勢いでチャンスをもらいました。当時、海外の大学院にアプライしようと準備していたのですが、留学を先延ばしにしました。設計をはじめてみると実務経験がないため右も左もわからない状態だったので、一人でやりきるのは大変だとすぐ気がつきました。丁度卒業設計期間に隣の机だった保坂さんは大学院に行くのが決まっていたので、「一緒にやらない?」と誘って共同で設計を始めたんです。
SPEED STUDIO時代の写真 左:西田さん、右:保坂さん(設計料を種銭にメキシコ旅行へ)
—-SPEED STUDIO時代の経験談を詳しくおしえてください。
初めは技術的にどこまでできるかわからないので、基本設計を全う出来れば充分と思っていたのですが、解らないなりにでも全部やったらどうか?と施主(父)からも言われ、片足を突っ込んだら、気がついたら底なし沼でした。(笑) そもそも図面の描き方も解らず、確認申請もフォーマットがわからないまま役所に行ったら、何しに来たの?と窓口の方に呆れられ、頼み込んで窓口で教えてもらい15回くらい通って受理されました。なんとか着工すると、分離発注した特注サッシュの図面承認をしていなくて納期が大幅にずれ、工事が1ヶ月止まったりとか、ほんと色々とありました。いま話すと笑い話ですが、めちゃくちゃ怒られることを平然とやってのけていましたね。(笑)
工事中は、ほぼ毎日現場に通って、職人さんの仕事を間近に見て色々と教えてもらっていました。ある日、犬を連れた方が散歩で通りかかって、「素敵な建物ですね」って僕に声をかけてくれたので、嬉しくて「このサッシュは本当に大変で…」みたいな苦労話を熱弁したんです。そしたらその人が、「実はカラオケスナックだった建物を買ったので、リフォームして別荘として使いたい」って言われたんです。「カラオケは窓が不要だけど、別荘なら構造が許す範囲で開口を大きくして、サッシュも特注にしたらいいですよ!」と伝えたら、その日のうちに電話があって「依頼するわ」と頼まれました。通りがかりの人に仕事を頂いたのはそれが唯一ですね。保坂さんと話し事務所として仕事を受けることにしました。後に新建築に載った「葉山の別荘」です。
西田邸が竣工した際に、周りの人に声をかけて内覧会をやりました。色々な人が感想や批評を言ってくれるのが良くて、「好評につき来週も内覧会やります」って第2弾、第3弾と続けました。雑誌社にも案内をだしたところ、運良く内覧会に来てくれ、建築専門誌が複数取り上げてくれました。掲載効果で新規依頼も来るようになり、その後も切れずに仕事を続けられました。
丸5年やったところで保坂さんと話し、二人で一人前だった時期も過ぎたので、解散することにしました。仕事が次につながる循環を体感した上で独立したのでとても良いタイミングだったと思います。
西田邸 竣工写真
葉山の別荘 竣工写真
—-二人で事務所をやっていたころから一人になり、その後パートナー制にシフトしたのはなぜですか?
オンデザインになってしばらくは、僕が設計してスタッフがサポートするという一般的なやり方でした。しかしスピードスタジオ時代から数えて設計案件が20軒を越えた頃、閉塞感を持つようになりました。様々なプロジェクトは環境も違うし、予算も違うし要望も違う、だからそこ生まれる価値は絶対的に違うはずなのに、無意識に自己模倣しているような状態が出来上がりそうになったのです。何かの案件でうまくいったことを別の案件でも自然に採用する感覚にゾワっとしました。決定意識を僕一人が持つと、事務所内は「西田さんが良いと思うかどうか」という基準でいろいろと考えてしまいます。それは新しいクリエイティビティを発揮するという意味で思考停止に近いのではないかと思いました。オンデザインに頼むと完成系がイメージ出来るという状態は全く望んでいなくて、完成形は予測できないけど、新しい価値を考えられる状態を保ちたいと思っていました。それで共同設計、つまり関わったパートナーが主体的に考えや知恵を積み重ねていく方式に切り替えたのです。プロセスは決して直線にはなりませんが、その分の深みや拡がりを獲得しつつ、常にプロジェクト価値を言語化し、複眼的に客観視できるメリットがあります。例えば若いパートナーとやれば、「人が集まる」状態に対する実感が、すでに僕と異なるので、僕には持てなかったコンテクストからアプローチできます。はじめに共同設計したヨコハマアパートメントでそれを実感出来ました。
オンデザイン設立当初 事務所風景@北仲WHITE
—-西田さんの設計にとどまらない活動は、いろいろな対話の結果、建築的な考え方でドライブさせたものが必ずしも建築そのものにつながらなくてもいいのではないかという考えからですか?
僕らが職能を発揮できるのは都市や、建築や、環境など、実在する状態をつくることです。しかし議論した結果、最終的には建築が生まれる必要があるかどうかもフェアに考えられるといいと思っています。
いまは時代が節目を迎えている感があり、建築が必要とされる社会状況も以前とは変わってきています。都市はこれまで、人口が増え、知らない人が共存する高密な状態で、(その最たるものが東京ですが、)如何に効率的に、高密度の状態を維持管理できるかでつくられました。建築を建てるにも、コストや性能と並んで、管理側の目線を計画してます。それって全部定量的な価値で、いくら汎用しても、実際の使う側の「居場所としての実感」につながらないです。むしろ僕は今「こういう経験が生まれているからこそ、この土地に建築が必要だ」、という人々や地域の経験的価値から建物や都市をつくりかえることが、必要なんじゃないかと考えています。
その経験的価値を拾い上げる実践として、石巻に復興まちづくりで入っています。復興というと防潮堤や復興住宅の要請などが報道されますが、震災前から空洞化が起こっていたまちには、人が集まる価値を考え、実践することも大切だと思いました。震災から4年の間に、それ迄は物販や飲食しかなかったまちに子供たちの遊びの環境が生まれたり、高校生のITラボが生まれ新しい教育やビジネスモデルができたり、石巻工房ができてものづくりの文化が育まれたりということが実際に起こっています。そういった新しい人の集まる環境を経験したところから考えるまちの姿は、震災前よりもっと多様で濃密になると思います。2020年には震災から10年を迎えるので、此の地に生まれたまちの楽しみ方が経験的価値としてまちの未来をつくっているという実感に繋がればと思っています。
—-経験的価値というのはセンチメンタルな部分は含みますか?
復興のなかでセンチメンタルな面を建築が背負うことは必要です。ただ建築は、やっぱり「生きる楽しみ」に触れていたほうが、出来てから持続的なものになりますよね。施主のモチベーションも前向きじゃないですか。建築を作りたい、何かをはじめたい、という気運の多くは、未来をつくる思いからスタートしていて、彼らは、転機を迎えていたり、新しい環境が必要だったりしている。そこで建築を欲しているところに、ぼくらは常に触れているから、すごく幸せ職業だと思っています。
—-添景を入れ込んで、一日の行動が見えてくるようなオンデザインの模型表現は、プレゼンテーションの時に経験が浮き彫りになってくることを最優先しているからですか?
オンデザインの模型は人を置かないというルールがあって、椅子やカップの置き方で気配を出すように気を配っています。模型をつくりながら建築に内包されている時間とか居場所がどう生まれているかを分析します。模型は伝える技術であると同時に、客観的に考える機会でもあり、価値を発掘できることも多いです。何気なく点景を置くのでは駄目で、経験的価値を検証するツールとして丁寧に模型をつくるのは効果的だと思っています。
添景を入れ込んだ模型写真
—-パートナー制だからできることってすごく多いと感じたのですが、学生が課題を取り組む上で、何かアドバイスはありますか?
例えば課題だとしたら、先生をパートナーに見立て、自ら望んで先生と組んでいくほうがいいです。先生の思考に触れて寄り添うってことですね。ただ組んでも、決して先生のいうとおりにすることではないです。先生の思考方法や思想を自分の引き出しに取込み、そこから提案を面白くするにはどうしたらよいか考えると良いです。迷ったときは、課題文を何度も読む事もお薦めです。僕も常にクライアントのヒアリングシートや敷地概要を繰り返し見直します。自分のアイデアの軸足を幾度も確認し、何が新しいのか?何が大切にする未来なのか?を考え、彼らが想像していなかった着地点を見つけると良いです。
それは意外に社会でも役に立ち、一緒に仕事する人の考え方や、プロジェクトのフレームを理解した上で、その思想やフレームの延長を、自分なりにアレンジすると対話が生まれます。その対話の技術には、オリジナリティがどんどん宿っていきます。
—-最後に学生に何かあれば一言おねがいします。
YGSAの立ち上げ期に設計助手をやらせて頂き、「建築をつくることは未来をつくることである」というマニュフェストは、深い言葉だなと今も感じています。というか、うかうかできないなと思っています。
今の学生は、僕より15歳くらい若いですよね。それは15年先の建築をつくるってことです。今は2014年で僕は38歳。学生達は2030年頃に今の僕の年齢となり、建築をつくるわけですよ。それはすごいことで、2030年の未来っていうのは誰にも分からない。でもその未来への道はまさに今始まっていて、お互い建築を学んで、これから何を経験するのかとか、今から2030年の間、社会と建築がどう関係をもつのかとか、見えないことだらけで、それが興味を掻き立てます。(笑)
だから僕は、自分より先の建築をつくる人達に、凄い興味がある。次の建築はどこから生まれるのか、これからの都市は誰が考えるのか、彼らを見て、自分も頑張ろうって思います。設計という言葉は、「計る、設ける」と書きますが、一年一年常に経験的な価値を計り、それを積み重ねて、15年後も建築で対話ができればいいなと思っています。
—-西田さんありがとうございました。
インタビュー:藤奏一郎(M2)、室橋亜衣 (M2)、住田百合耶 (B4)
構成:藤奏一郎(M2)、室橋亜衣(M2)、梯朔太郎(M1)、山本悠加里(M1)、住田百合耶(B4)
写真:室橋亜衣
(M2)、西田司さんご本人より提供