西沢立衛(にしざわりゅうえ)
1966年東京都生まれ。1990年横浜国立大学大学院修士課程修了。1990年妹島和世建築設計事務所入所。1995年妹島和世と共にSANAA設立。1997年西沢立衛設計事務所設立。2001年横浜国立大学大学院准教授。2010年~横浜国立大学大学院Y-GSA教授。主な作品に「森山邸」「十和田市現代美術館」「豊島美術館」「軽井沢千住博美術館」など。
―――2017年、Y-GSAが10周年を迎えるタイミングで、西沢さんが校長に就任されました。改めて、Y-GSAについて思うことがあればお聞かせください。
北山(恒)さんが退官して、小嶋一浩さんが校長に就任したのですが、こういうことになってしまって、結局僕が小嶋さんの後を引き継ぐことになりました。北山さんがY−GSAを開校して、スタジオ制を始めることで、研究室制とはまったく違う活気が生まれて、小嶋さんのバイタリティとリアリズムでそれをどう継承していくかということは、すごく楽しみでした。
研究室制というのは、先輩の研究を引き継ぎ、教授の仕事も手伝いというように、研究室の仕事をやるという側面があるのですが、一方でスタジオ制は、生徒が先生につくわけではないので、学生はもっと自主的で自由な活動をすることができます。どちらも良い面と悪い面がありますが、スタジオ制の魅力はやはり多様性です。先生も多いし学生も多いし、設計助手である若手建築家のグループがいて、多世代にまたがる多様な関係性があります。他方で、論文や研究の蓄積、深化というものは、研究室制のようにはやれないという問題もあって、これからは博士論文をスタートさせたり、研究の面も充実していきたいと考えています。
研究で思い出したんですが、もう20年くらい前、北山さんと山田(弘康)先生に横浜国立大学に呼んでもらって大学に戻ってきた時、僕が一番新鮮に感じたのは、研究っていいな、ということでした。ひさしぶりに戻って来た大学のキャンパスは、環境が豊かというかなんというか、設計事務所とすごく違っていて、印象的でした。キャンパス全体にある種の自由を感じたのです。
設計事務所というのは、いろんな事務所があるかとは思うけど、基本はみんな「すごい建築をつくる」ということを目指す、軍隊みたいな集団です。すごくなくてもいい、単に「よい建築をつくる」でもいいかもしれませんが、ともかく、よい結果を目指す。いろいろたいへんなこと、いろんな困難や苦労があるんだけど、そういう全てが「よい建築をつくる」というゴールに向かっていて、そのゴールがあるがゆえに頑張るわけですね。やはり企業だから、結果が重要という、成果主義的なところがある。ところが大学では、そういう「よい建築物をつくる」というゴールがない。そもそも建築物を作ることは目標になっていない。僕が妹島事務所でそれまで頑張ってきた「すごい建築をつくる」という、これだけは妥協できないといういちばん重要な価値観が、大学にはなくて、ないんだけど、建築について深く考えられる環境は何かある。設計事務所では、施主とか総工費とか具体的な敷地とか、建築をめぐる利害関係とか人間関係とか、建築のリアリティの根拠となっているいろいろなものがあって、しかし大学に来ると、施主も総工費も政治も法律もなにもない中で建築を考えるのです。なのに建築のリアリティみたいなものはある。「すごい建築をめざす」ということを外しても建築のおもしろさは残るんだ、というおもしろさがあって、というよりも逆に、よい建築をつくるという目標を外すからこそ色々な可能性が広がるのもしれません。
大学に戻ってきて感じたキャンパスの自由さというか、ゆったりとした豊かさみたいなものは、ようするに研究っていう終わりのないことを中心に置いているからこそのことなのかもとか、思ったりしました。
でも研究室制とはいっけん対立するスタジオ制のY-GSAにも、なんとなく近いことを僕は感じています。建築を探求しようという環境があって、自由な雰囲気がある。学生はみんな考えも興味も違うと思うし、方向も違うけど、それは対立にならなくて、むしろそれこそが互いの交流や理解のエンジンになっているし、自主性を重んずる雰囲気が生徒にも先生にもあります。
大学って、「場」であるような気がするんです。みんな問題意識はばらばらだったとしても、「建築というのは重要なのではないか」というところでは共通していて、そういうある種の価値観を共有する集団が集まることで、場みたいなものが生まれているのではないか。
Y-GSAのようにいろんな交流が起きる場では、先生も生徒も学ぶ。それってなにか、塾とか専門学校みたいな「教える/学ぶ」というふうに役割を分担した教育機関というよりも、そういう機械的な関係性というよりも、たんに人間の集団の場といったほうが感覚的に近いような気がします。大学の大きな魅力のひとつは、人間が学ぶということの、ある種の理想状態、ユートピアみたいなものかもしれないなとも思います。それはスタジオ制も研究室制も関係ないことですね。
―――2017年度、Y-GSAは山本理顕さんや妹島和世さん、大西麻貴さんといった新しい先生方を迎え、スタジオが六つになり、体制が大きく変わりました。この1年を振り返って、いかがでしたか。
小嶋さんの後継を考えないといけない状況になって、やはり最初に思ったのは、小嶋さんの代わりはいないということですね。小嶋さんは活動の幅が広い人だったからね。
新体制については、僕としては、小嶋さんが面白いと思う人事かどうか、これならおれも参加したいと思う体制かどうかということは、多少気にしていました。そう言う観点で、先生の人数が増え、30代から70代まで多世代にわたって、設計助手も含めていろんな建築家がいるというかたちになっていった。ただ最初からそれをイメージしていたわけではなくて、ひとつは、山本さんが「連続講義をやりたい」と提案してくださったことは、僕らにとってはすごくありがたかったことです。それがこの新体制につながっていった気がする。
実は僕は、「スタジオ制」という名前は嫌いで、でも、「研究室制」もあまり好きじゃないんです。連続講義があったり、スタジオがあったり、討論会や研究会があったり、出版したり、いろいろやっているのがいいという気がする。機能とか企画とかプログラムという観点からみたら、うまく整理されていない感じの集団のイメージが好きなんです。
―――西沢さんが校長になってから一度も「スタジオ制」という言葉を使わないのは学生もみんな感じています。「みんなで学ぶ、学びの場」や「勉強会」だと言いますね。
うん。「スタジオ制」と言うと、スタジオを受講して単位とったら何者かになれるみたいな感じして、あまり好きじゃないですね。単位なんかとったって変身はできない。単位取れなかったらショックだろうけど、でもそれは目標じゃなくて、みなが大学にいるのは、そこが魅力的な場だからで、その場っていうのはつまり、「建築を探求し討論する場」みたいなものでしょう。大学は継続的持続的でないといけないから、システムは要るんだけど、でもシステムに囚われてほしくないとも思う。必修単位をとることはたしかに重要なんだけど、むしろほかにも例えば、スタジオの中で苦しんだりとか、友人と論争し続けたりとか、山本さんのような大建築家に出会ったり、新しい研究テーマに出会ったり、論文を一人で書いたり、ということはすごく大きなことで、つまり大学は教育機関なだけではないんです。それは僕がむかし大学の自由さに感じた環境そのものなんですが、それで「勉強会」とこのまえ言ったのではないかしら。建築を探求し討論する、想像力と思索の場でありたいな。
―――西沢さんが学生の頃の研究室とは、どういうものだったのでしょうか。
当時は研究室制とは言わず、講座制と呼ばれていた。建築学科の中で、僕ら設計意匠系は通称「8講座」で、歴史系が「1講座」。歴史が最初にあるという構成を、僕はすごく気に入っていたな。僕が学生だった当時は、八講座には教授の山田先生と助教授の北山先生がいました。山田先生は放任主義で、僕らは自由だった。自分たちで勉強会開いたり、設計事務所でバイトしたり、のんびりしていました。
―――西沢さんはY-GSAのスタジオで、「新しい時代の建築を目指して」という課題を10年間続けています。西沢さんにとって、今まで考えてきた「新しい建築」、「建築の新しさ」とは、どういうものでしょうか。
新しさといっても色々あるから一概には言えないけれど、例えば、以前『住宅特集(新建築住宅特集2017年1月号/第369号 巻頭論文『家の建築』西沢立衛)』の巻頭論文に書いた「小豆島の醤油蔵」は、建築の未来だと思った。暗い蔵に入ったら、大きな樽が並んでいて、室内は樽も梁も、酵母菌がびっしり張り付いていて、高いところに杜氏が立って、長い棒みたいなもので樽の中をかき回したり、窓をあけたり、仕事しているの。なんというのか、杜氏も菌もみんなそこでやることが決まっていて、ひたすら労働していて、なにかまるで体内で頑張る乳酸菌みたいだった。それはある種最高の機能主義でもあると思うんだけど、母屋にもおのおの菌が住み着いていて、それは交換できないから屋根を改修するときに、古い母屋の上にさらに新しい母屋を足して、やたらと複雑になってるのね。いろんな菌が建材に張り付いて住んでいるからそうなるのかなと思うんだけど、すっごい複雑な化粧小屋裏で、菌が上からぱらぱらと降って来て、樽に降り注いで、杜氏が窓を開け閉めして、建築全体が、ひとつの生命体のようだった。「建築はいずれこうなる」という予言のようなものを感じました。
インドの通りでも、ある未来的なものを感じたな。あらゆる生き物が行き交う、ごった煮のような往来で、まさにカオスというか、濁流のような流れなんだけど、しかし道の真ん中に大きな菩提樹が立っていて、みなそれを避けていくの。あれはなにか、未来でもあり過去でもあり、、、まるでブッダが、弟子と動物たちを引き連れてブッダガヤを歩く、それとほぼ同じことを21世紀においてもそのままやっているかのような感じがした。あらゆる時空間が見えるというのかな。インドは本当にすごいと思った。
―――先ほど「その人の経験が言葉になって表れる」という話がありました。建築をつくるのに、言葉はとても重要ですよね。言葉について、どのような意識をされていますか。
大学生の頃、兄の(西沢)大良くんと塚本由晴さんのふたりには、すごく影響を受けました。色々な意味で彼らから大きな影響を受けたけど、僕が彼らをすごいと思った一番は、自分の言葉をもうすでに持っていたことで、彼らは何をいうにしても、借りて来た言葉でなく、自分の言葉を持っていました。学部時代の僕のあせりというのはほとんどそこで、つまり自分の言葉がないという点だったような気がする。
僕は詩が好きで、とくに「新古今和歌集」と「万葉集」は僕にとって重要な本でした。和歌って、歌う内容は大体どれも一緒なんだよね。初春の歌であれば「雪解け」とか、春であれば「桜は美しい」とか。みんな春は美しいと歌うんです。でもそんなの、みんなが言えることで、みんなが歌うことだから、とくに感動しないのね。そんなの僕だって思ってるよ、となってしまう。ところがある特別な状況で、ある特別な言い方で春の美しさを言う時、人々は動かされる。僕も、春の歌があまりに多いので、とくにぴんとこないのですが、いくつかの春の歌には著しく心動かされました。詩って、みんなが思うことを歌うのですが、みんなが思うことって、みんなが思うように言っちゃダメなのね。みんなの思いを歌うには、個人の声が必要で、人間の言葉が必要なんです。社会に届くには個人の言葉でないとダメなんだ。それは詩だけの話ではないと思う。結局僕はむかしから、「何を言うか」ということもさることながら、「どう言うか」により多く興味があったのだと思う。「言い方」は創造力そのものだと。文法よりも文体のほうに関心があった。詩に限らず、小説も論文も、あらゆる言語表現に共通したことで、文体がダメだともう読めないんです。山部赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という詩があって、内容はたいしたことなくて、ただ「浜から富士山が見える」というだけなの。そんな詩はいっぱいあるんだけど、描写が鮮やかで、目に浮かぶようでした。というか田子ノ浦で実際に見る風景よりも、山部赤人の見方のほうがすごいと感じる歌です。それは誇張ということではないんです。感受性を教えてくれるような歌ですね。
建築の実務では、僕は言葉をすごく使っていると思います。面白い案ができて、それをまとめていくときは、理屈ではなくて感覚的、本能的にやっていると思うんだけど、しかしたまに、設計した案を言葉に置き換えてみるということをします。言葉に置き換えると、自分が設計のどこで嘘をついているかがなんとなく分かる。ここは言葉としてうまく言ってしまっているなとか、うまい説明が成り立つために建築の形をつくってしまっているなとか。また逆に、言葉に置き換えてみたら「そんな面白さがあったのか」と気づくこともある。言葉と形はぜんぜん違う世界なので、形で考えたことを言葉に置き換えてみたり、または言葉の世界のこと、理論の世界でありえたことを形で試してみたり、という往復は、僕にとっては重要なことです。
その時に歴史的な進展をすることがある。歴史的な進展というのはつまり、ある言葉が出てなるほどとなると、一歩進んでしまうというか、想像力とか理解とかがそっち方向に固定されてしまうというか、もう後に戻れなくなるということが多々ある。そういう種類の言葉は、それを聞いてなるほどとなった途端に、無限の広がりが失われて、いろんな可能性が切り捨てられて、「面白さ」に方向性が出てしまう。もしかしたらその言葉が出てくる前の時代には別の面白さがあったかもしれないけど、とりあえず次のステージに進むことになる。森山邸をやっているときに、あるところで「ぎゅうぎゅう詰め」とか「ばらばら」って言葉を思いついて、そしたらもうそれがコンセプトなんだなって思っちゃった、ということがあったけど、言葉にはそうした創造的というか、暴力的な部分があるよね。
―――西沢さんは考える時、なるべく言葉にしようと思いますか。それとも手で模型をつくり続けたりして、言葉になるのを待つのでしょうか。
形の世界というのはいわば原人の世界で、僕らが会話や論述に使っている言語とはずいぶん違う世界だと思う。それはそれでよく分からないものができて面白いというか、原始人みたいに模型をつくって壊してと、ウホウホ考えることは素晴らしいんだけど、どこかでそれを言葉の世界に置き換えて、全く違った理解や進展を得るということも、僕はけっこう期待をしているんです。
―――つくっている時には「こんなものが出来てしまった」と言葉にならないことも多いのでしょうか。
うん。言葉にならないというか、言葉になんかしないことは多い。言葉に形が従うって、僕は疑っている。理論通りの建築って、よくないと思う。建築は、概念と物のぶつかり合いで、その両方が必要で、どちらかがどちらかに従うということではないと思う。
僕はプレゼンテーションというものにすごく期待しているところがあるんです。レクチャーとかで、プレゼンテーションをしてみると、つまり自分の建築を自分の言葉で紹介してみると、なんかつるつるとあることないことしゃべり出すのね(笑)。そんなこと考えていたのかと。まあいつもではないんだけど、たまにへんなことが出て来たりして、話していて自分で驚いたりする。レクチャーって、他人が聞くんですが、自分も聞いている気がするな。
学生時代の思い出とか、インタビューで聞かれたりするとき、僕の学生時代っていろいろ面白いことあったと思うんだけど、なにかぽろっと大学院時代のバイトの話とか、勉強会の話とかをどこかで話したんですよね、そこで僕がバイトとか勉強会のエピソードを出したことで、そういやそうだったなと、自分で思っちゃって、たんに小さな思い出のひとつにすぎないのに、それが僕の学生時代全体の思い出になってしまうというか。その後にまた似たようなインタビューを受けると、前のインタビューで言ったことと同じこと言っちゃうようになる。僕の学生時代いろいろあったと思うんだけど、なんか勉強会とバイトとゲームセンター通い以外あんまり出てこなくなって、まあとにかく声に出して言うって、すごいインパクトあるんだよね。ちょっと話それちゃったけど、物と形の世界は、概念とはまた違う荒々しさがあって、すごいと思う。概念と形は、お互いにお互いを作り直すような、すごい関係があると思う。
物とか物質って、人間がどうこうできるものではない気がするんです。建築はたしかに、人間の概念的な部分からやってくるけど、ひとたび物としてこの世に産み落とされたら、もう人間の手を離れてゆくものなのではないか、という気がします。
詩人のT・S・エリオットが「創造的な詩人は保守的だ」と言っている。その理由を「すごい詩を書くと未来をつくるだけではなくて、過去をつくってしまうということを、創造的な詩人は知っているからだ」と言っている。建築をやっているとエリオットのその言葉は感覚的によくわかる。あるとき、面白い建築ができた時、それが何に向かうのか、何を意味することになるのか、誰も知らないんだよね。その建築にはこれこれこういう意味があるなんて、全然決まっていないというか、意味なんかそもそもないというか、それはまるで赤子のようなものなんだけど、でもその建築が影響したせいかなんなのか、その後にいくつか別の建築家によってまたは本人によって建築がつくられるということが続いて、あるとき誰かがすごい建築をつくって、それによって、あの時のあの建築ってこういうことだったのか、とみんながわかるようになる。最初は意味なんか決まっていなかった、そんなものなかった建築が、なん年後かの新しい建築の登場によって、一番目のほうの建築の意味が決まってしまう、その価値が定められてしまう。それは、一番目のほうの建築を生み出した建築家の意図やコンセプトを超えて起きることで、歴史的なことだと思う。
エリオットは、「自分が全く知らないし興味もない何十年も前の詩人の詩と、自分が今書いた詩は一体だ」とも言っている。建築家は、自分は独創的で、自分の作品は単独的だと思ってやっているけど、でもほんとうに新しいものがなんの脈絡もなく誕生するなんてことはなくて、そこには歴史がある。過去となんの関係もなく出てきた新しさなんてものはほとんどないと思う。新しさというのは歴史の一部ということになると思うし、その逆も言えると思う。
―――ありがとうございました。
学生インタビュアー:石井優希、吉村真菜、池谷奈那子、杉浦哲朗、鈴木菜摘
インタビュー写真:杉浦哲朗