
(プロフィール)
萬代基介(まんだい・もとすけ)
1980年神奈川県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。2005-2011年、石上純也建築設計事務所勤務。2012年- 萬代基介建築設計事務所設立。現在、横浜国立大学、東北大学非常勤講師。
―萬代さんが建築を目指したきっかけを聞かせてください。
僕は東京の学校に通っていて、中学時代は陸上部に入っていました。その部活の練習場所が代々木の奥にあって、その競技場に毎週通っていました。渋谷を通って代々木に行くんですけど、当時の渋谷はあまり治安が良くなくて中学生の僕にとっては怖かったんですよね。チーマーの人たちや怪しい外国人がいる渋谷を歩いて公園通りを上がっていくと、ちょうど渋谷の喧騒を抜けたあたりで代々木の体育館が見えてくるんです。丹下健三の国立代々木競技場なんですけど、なんかすごいかっこいい建築があるなというのが、僕にとって最初の、建築との出会いでした。そういう世界があるんだなっていうことをうっすらその時に感じました。そこから日が経って大学受験が近づいてきたタイミングで、当時ものを作ったり絵を描いたりするのが好きで、受験どうしようかなと考えていた時に、早稲田大学の建築学科には絵を描くという試験科目がある事を知りました。それで、絵と勉強、受験勉強が繋がるんだなと思って、建築の道もあるのかなと思った、そんな感じです。
―その後東京大学に進学されましたが、当時よく見ていた建築家や印象に残っている建築を教えてください。
学生時代は、Rem Koolhaasとか、Herzog & de Meuronについて、大学の中では結構みんな参照していたという感じがあります。Peter Zumthorもその頃注目していました。あと、僕が学部の四年生だったころに伊東豊雄さんの「せんだいメディアテーク」のコンペと「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」のコンペがありました。すごい建築がコンペで生まれていったというのが印象的で、伊東豊雄さんの作品などもよく見ていました。
―東京大学の大学院を卒業されてから、石上純也建築設計事務所に就職されています。どのような経緯で石上さんの事務所を選ばれたのでしょうか。
僕が石上さんの事務所に入った当時は今と比べてあまり有名ではなく、建築もまだ一つも作っていないくらいの時でした。ただ、本当に小さいインテリア、キリンアートプロジェクト2005での「table」とミラノサローネでのLEXUSの会場構成における霧のプロジェクトだけ発表していて、そのテーブルのプロジェクトを見たときにすごい人がいるなという印象を受け、それで門を叩いたという感じです。当時そんなに情報も無く、石上さんの事務所の事をよく知らないまま就職しました。東京大学からの進路は3分の1くらいが有名なアトリエ事務所で、3分の1くらいが組織設計事務所やゼネコン、残りは建築以外の分野にいくという印象だったのですが、人とは違うことをしたいとは思っていて、天邪鬼的に進んでいったという感じでした。石上さんの事務所では毎日が事件というか、毎週必ず何かすごいことが起きているなという感じで、楽しみながら建築設計の仕事をやっていました。実際にいろんなプロジェクトに関わらさせていただいて、経験としてもすごく良かったなと思っています。
―その後、2012年に独立されていますが、独立のきっかけや経緯を教えてください。
それはもう仕事がくるかどうかですね。と言いつつも、僕の場合は全然仕事はありませんでした。前に勤めている事務所時代にそのような基盤を築いてから独立するのが良いかもしれないけれど、僕の場合は忙しすぎて全くその余裕がありませんでした。ただ一個のきっかけとしてはY-GSAの設計助手になるっていうのがあって、それを一つのタイミングとして石上さんの事務所を辞めて独立しました。石上事務所時代はかなり閉じた世界というか、ガラパゴスみたいな感じで、社会との繋がりがあまりなかったんですよ。いい意味とわるい意味の両方で。いい意味としては、事務所での濃密な時間をその世界で過ごしていて、外のことをあまり気にせずに建築設計だけのことをやっていたっていうことがあるんだけれど、やはりそれだけだと、独立した後に厳しいかなと思いました。独立してからY-GSAに来て、いろんな先生方にお会いする機会が増えました。僕がY-GSAの設計助手になったのは2012年で東日本大震災が起きた後でした。小嶋一浩さんや、大西麻貴さん達と一緒に取り組んだ被災地でのプロジェクトを通して社会との繋がりがやっと生まれたという感じでした。そこから少しづつ、仕事にも繋がっていきました。
例えば、「石巻の東屋」プロジェクト。Y-GSAで石巻に関わっていたことがあって、そこから石巻での繋がりが生まれて、巡ってきた仕事でした。このくらい小さなものはコンペやプロポーザルにならずに建築家や設計者も入らずに動くようなプロジェクトなんです。既製品の東屋を置いたりだとか。そこに、デザインだとか場所の固有性みたいなものも大事じゃないですかという話をして、東屋の設計を行いました。「おしか番屋」は日本財団という団体が、被災した地域に番屋という漁師さんの小屋とか宿泊する場所をつくっていくという取り組みから生まれたものです。実は最初に大西さんが宮城県牡鹿半島の鮎川浜の漁協の方と繋がり、その取り組みの中で建築が作れるかもしれないということで紹介してもらいました。その時には大西さんはY-GSAの設計助手を辞めていたので、大西さんからバトンを引き継ぐような形でこのプロジェクトが始まりました。独立当初は小嶋さんと大西さんにすごくお世話になって、色々なことを学ばさせてもらったなあと思いますね。
―萬代さんの建築はどのプロジェクトも構造のアイデアが特徴的で、それによって空間や環境をつくっていると感じました。どのような姿勢で設計に取り組んでいるのでしょうか。
自然なものをつくりたいということをいつも思っています。つまり、風景の中で自然とそこに建築が建っているという状態をつくりたい。強い形というよりも少し弱い形だけれども何か普通とは違う空間の質を持っているものを目指しています。その建築が建つことで、まわりの環境がうっすらと塗り替えられるようなものになればいいなと考えています。その中で、手段として構造というものが出てくると思っています。構造自体に興味はあるけど、そういうことをすることだけが目標という訳ではないと思っていますね。
そこには色々な方法があるはずで、その方法を探りながらやっていますね。スタディの方法を開発するということが、建築を設計する上では大事だと思います。毎回同じではなくて、プロジェクト毎にどのようにスタディをすればこの建築が良くなるのかということを考えながら設計をしています。だから発泡スチロールを使うこともあれば紙を使うこともあります。よく思うのは、スタディが面白いと面白い建築になる。当たり前かもしれませんが(笑)。僕にとっては設計をいかに楽しめるかどうかが面白い建築かどうかの判断になっていますね。もちろん、ものすごく複雑でいつ終わるんだろうっていうスタディもあります。簡単に解けてしまうようなものはあまり面白くないと思ってスタディしています。

写真:現在、担当教員をされている学部2年のデザインスタジオエスキス風景
例えば最近発表した「椎葉邸」は既存部分と新築部分の関係を考えていました。この建築は新築の空間が伸びていく感じで、この場合両者のコントラストをつけて設計するのが一般的なんですけど、古いものと新しいものが混ざっているという感じをどういうバランスで作るのかを考えていました。両者を切り分けてしまうということは簡単に出来るけれど、それを混ざりながらも微妙に分かれているというアンビバレントな状態をどう作るかというところに難しさというか、面白さがあると感じながらスタディしていました。このプロジェクトは最初に構造のシステムが強めにありました。真ん中にある既存の母屋に対して周りから支えてあげるという構造システム。それはクラシカルな構造というか、コントラストが強くて、外側にコアがあって真ん中が抜けているという状態なので、そういう構造の中でランドスケープ的な空間を作りたいなということがまず最初にありました。ズルズルと空間が繋がっていくようなランドスケープ的、環境的に緩やかに空間が離れながらつながっていく状態というのを考える中で、古いものと新しいものをどのように混ぜていくかということをスタディしていました。
―これまでのプロジェクトを見ていると、初期のプロジェクトは大屋根がかかっているものからはじまり、近作の「椎葉邸」や「岬の家」に至るまでに空間が一つのものから複雑なものへと向かっているように感じました。何か設計に対する考えの変化があったのでしょうか。
あまり意識はしていなかったですね(笑)。プロジェクトの規模のような気もするけれど、初期の「おしか番屋」は結構悩みながら設計していました。被災地という特殊な状況の中で、周りに何も無くなっているような環境の中で建築をつくるという状況はなかなか難しかった。そこから少しずつ街中で建築を作れるようになってきて、周りにコンテクストがある場所で建築を作れる喜びを感じながら設計していたのだと思います。そういう経験があったからこそ場所性とかそういうものに対しての渇望による変化はあったと思います。
―萬代さんが発表されているプロジェクトには住宅や公共のプロジェクトの他に会場構成の設計も含まれています。会場構成の設計はどのように取り組まれているのでしょうか。
姿勢として両者に違いはなく、同じように捉えているのですが、ひとつ大きなこととしては時間に対する考え方が違います。会場構成は短期間のものがほとんどで、時間が短いということは使える素材が全然違うんですよ。建築というのはすごく限られた材料でしか成立しない、特に構造の部分っていうのは鉄とコンクリートと木しか使えないんですけど、会場構成とかインテリアというのはもう少し材料に対する自由度というのが上がっていきます。例えば、「Prototyping in Tokyo展 会場構成」のプロジェクトでは、普通の建築ならふにゃふにゃなものは成り立たないんですけれど会場構成レベルでは法律的にも規制はないし安全であれば問題ないので可能になっています。「小さな風景 新しい建築の楽しさ展 会場構成」のプロジェクトでは細い柱と透明な天板の接合に強力両面テープを使っています。強力両面テープがすごくて(笑)。 一個一個はすごく弱いんだけれどそれが集まると全然大丈夫という不思議な状態です。
住宅のような大きな建築は実際に作って確認することが難しいのですが、こういうものはモックアップを簡単に作って確認ができる。これも佐藤淳さんに一度構造について相談した際に、そんなの作ってみればいいじゃんと言われて、確かにそうだなと思いました。
―萬代さんの建築をつくることのモチベーションはなんですか?
なんだろうねぇ。やっぱり見たことのない空間を作ることですね。作家の人が作るものを見るっていうこともすごく面白いし、いろんな若い人たちが、新しい社会に向かって建築を頑張って作ってると思うんだけど、そういう人たちの建築を見るのもなんかいいなあって思うし、今僕もそういうものを作りたいなって思いながら設計してます。街を見たりするのもインスピレーションではありますね。今コロナで海外とか行けなくなっちゃってますけど。僕は東京というか、生まれは神奈川なんだけど、都市の中で育ってきたので、そこはやはり自分の中でのコンプレックスでもあります。、そこには一元的な価値観でものを見ちゃうっていう危険性があると思っていて、やはりそういうものを崩したり、ほぐしてくれるようなものが街にはあるなって思っています。海外行くと特にそうで、凝り固まった部分がもう少しほぐれてくるっていうような作用があると思う。ヴェネツィアとかはすごくそれを感じました。あの街は車が入れないようになっていて、道が市民のものという感じがしていて、そこら中にテーブルを出してみんなでご飯を楽しく食べていたり、洗濯物が道に干されていました。車がないっていうことだけで、こんなに世界が変わるんだということを気づかせてくれる街でした。サンパウロも良かったですね。サンパもウロはみんなが元気というか、なんていうか、社会が成熟していないって言ったら失礼かもしれないけれど自由でエネルギーを感じる、人間もそうだし、街も建築もそういうものを感じました。ドーンとしてるんですよね、せせこましくないというか、それはそういう大陸だからなのか、気質なのか分からないですけれど、人間を鼓舞する建築がブラジルの建築にはあって、それは新鮮な体験でしたね。
―萬代さんは現在、横浜国立大学でも非常勤講師を務めておられますが、学生の印象を教えてください。
いい意味でピュアっていうか、もしかしたら悪い意味もあるかもしれないけれど、無垢な感じがあります。素直ともいうのかな。東京大学の人とか全然素直じゃない人もいるから。設計に対してスポンジのように吸収する部分があるかな。一方で、すごく頑固で意固地な人は少ないなっていう印象はあるかもしれない。昔小嶋さんが、教育ってちゃんとすればするほどあまり良くなくなるんじゃないか、ある程度放っておいたほうが育つんじゃないかと言っていました。僕としてはやはりY-GSAで設計助手をやっていた頃の小嶋さんが印象的だった。小嶋さんはボス感というか、建築を志している人はみんな仲間だ、みたいな懐の深さがあって、それは学生にとってもだし、僕ら設計助手にとってもすごい心強い感じがありました。それは教育的にもすごくいいなと思っている。
―最後に学生に向けて一言お願いします。
僕がやっておいたら良かったなって思うのが、いろんな世界の人と繋がっておくことかな。やっぱりみんな建築を勉強しているから建築の人たちとのつながりはあると思うんだけど、建築じゃないことを真剣にやっている人たちとのつながりっていうのは、大事だなって思った。特に独立してからなんだけど。そういう自分の世界の外側にいる人たちと学生のうちからなるべく繋がっていた方が、将来的にもすごく人生の為になるかなって思います。仕事の面というのもあるかもしれないけど、学生時代の友達とのつながりってとても貴重だと思うんですよ。それが多様性に富んでいるかどうかっていうのは大切なことかなって思います。
―本日はありがとうございました。
学生インタビュアー:
掲載写真:仲西風都










